叄
ゆさゆさと何かに揺さぶられ、意識の灯火が点る。ぱちりと開けた視界に飛び込んできたのは、妻の顔だった。
「おはようございます、旦那様。今日も出仕なさるのでしょう?起きませんと間に合いませんよ」
穏やかそうな笑みを口に浮かべて良妻を努めんとする姿は、余人の目には好ましく映ることだろう。かく言う自分もそうだった。自身の側室を撫で斬りに伏す、あの凄惨な光景を目の当たりにするまでは。体を揺さぶる指を一瞥する。剣など生まれてこの方触れたことすらない、と言われて鵜呑みにするほど細い。この細腕に秘められた一面を思い出し、芯から震えたことによって牀から飛び起きた。
「雪解けが見られるとはいえ、まだ寒さは芳しくなりませんわ。手炉を用意させますわね」
「う、うむ」
「―――あ」
何かを見つけたような声を上げ、腕が伸ばされる。それを捉えた袁紹はぎょっとして上体をねじり、指先を避けた。
「な、なんのつもりだ!」
「埃がついてらしたので取って差し上げようとしました」
「そうか……」
あきらか安堵の息をつく彼は、はっとして咳払いをする。
「それくらい自分でできる。子供扱いするでない」
「左様ですか。ではわたくしは朝餐を持ってきますね」
静々と引き下がる姿に、袁紹は内心ほっと息をついた。あの日以降、彼女が知らぬ人間のように思えてしまい、正直感情の整理がつかないでいるのだ。微笑みながら人を殺めた事実は、幾月過ぎた今でも袁紹の肝を凍らせる。底が知れない、と房を出ていく後背を見つめて指先を丸める。
「ああ、そういえば」
戸に手をかけ、脚が突然止まる。思い出したかのように顔を上げてこちらを振り返った。
「先程から怯えてらっしゃるようですが、何か怖いものでもご覧になったのですか?」
目と口を弓なりにしならせて微笑む様に、袁紹はなんでもないと返すしかできなかった。掠れていたが、彼女にはきっと届いただろう。

心の整理が未だできないでいた袁紹は、部下に誘われて酒宴に顔を出していた。
「どうです、袁紹殿。楽しんでおられますかな?」
袁紹を誘った本人、王毅が声をかける。片手には甕を携えており、隣に腰を下ろして袁紹が持つ酒杯に口を傾ける。滔々と注がれる透明な液体からはつんと刺激臭が立つ。今しがた呑んでいた酒だと理解した。
「なかなか悪くないぞ。お前の女を見る目は確かゆえな」
満足気に笑ってみせる彼の前には、美しく着飾った妓女たちが居る。すべて淡い色の衣で統一されており、髪はこぼれるほどの花冠で彩られていた。薄手の長い肩巾を優雅になびかせ、流れる燕楽に合わせてゆったりと舞う。流れる笛の音も然る事乍ら、彼女らも実に目の保養となった。特に彼女のことで頭を悩ませていた袁紹には、酒を過ごしそうになるくらいの効果はあった。
「一流所を揃えましたからね。袁紹殿を招待するのなら当然ですよ。気に入った妓女は持って帰って大丈夫ですよ。どうされますか?袁紹殿」
「そうだな……」
視線を滑らせていき、ふいに止まる。
「―――いや、やめておこう」
言って立ち上がった袁紹を、王毅がぽかんと見上げる。
「今日は楽しかった。今度は私が開く宴に来るといい。今日の分も含めしかと返礼してやろう」
「え、袁紹殿お待ちを……!ご令閨のため何か用意させますので……」
「構わん。今の時分では床に就いているだろうしな」
来る時連れ立った供を引き連れ、邸を後にする。妓女を断った理由、それを理由と呼べるかは袁紹自身わからなかった。ただ、脳裏を過った妻の存在に気が萎えたのだ。微笑を浮かべたまま側室を殺したことは、それまで彼女に向けていた感情と評価に揺らぎをもたらした。それは変わりない。悋気する女はかくも恐ろしいものかと戦々恐々だ。かと言って他の女で気を紛らわせようとは不思議と思わなかった。何故か、とまでは断言できない。強いて言えばなんとなくかもしれない。あるいは逆鱗に触れる方が恐ろしいからかもしれない。俥の中、手持ち無沙汰を慰めるために外を眺めながらふつりと落とす。
「まったく……。何なのだ、あいつは……」
あいつの考えることはよくわからん。同時に、自分が彼女を理由に行動を制したことも信じられない。嫌いではない、ということだろうか。少なくとも悋気を理由に離縁する気は起きなかった。がたん、と音を立てて車輪が止まる。ばさりと昇降口の布を持ち上げられ、居邸の門扉が現れる。数段の段差を降りると守衛が折り目正しく一礼し、門へ手を伸ばす。時刻は夜、しかもおそらく日付も変わっている。流石に寝ているだろう。白く染った吐息をぼうっと眺めていると、門の中の見慣れた庭が現れる。ゆらりと揺れる松明の灯りに照らし出されたのは。
「おかえりなさいませ、旦那様」
悠々と微笑む名前だった。肩越しに控える二人の侍女も彼女に倣って一礼する。呆気にとられていた袁紹は、一拍置いて驚きを露わにする。
「な、何をしておるのだ!こんなところで!」
着込んでいるとはいえ時刻は夜、糅てて加えてまだ冬も明けていない。こんな時分は誰であろうと房にこもるのが自然だ。
「帰宅する旦那様を出迎えないわけにはいきませんもの」
「限度があろう!疾く房に入れ」
手を取った袁紹はその冷たさにぎょっとする。
「一体いつから外で居たのだ」
「旦那様が気にすることではありませんわ」
「馬鹿者め。このように手を冷やしておいて取り繕うでないわ。まるで凍った水面のようではないか。
……これなら王毅からいくつか貰っておくべきだったな」
「王毅様?」
袁紹の口から飛び出た名前に名前が不思議そうに聞き返す。手を引き先導する袁紹は、廊下の先にある自分たちの寝室を見ながらなんてことないふうに言い放つ。
「酒宴に誘われたのだ」
「……ということは妓女も居ましたの?」
「うん?それは当然―――」
流れるように肯定してみせたところで、袁紹ははっと瞠目し口を閉ざす。そして背中にぶつかる空気が徐々に冷たく、重々しくなっていく。背筋を下りた冷や汗は、酒で熱った体をすぐに冷まし、袁紹の頭からは血の気が一息に失せていく。白くなっているであろう顔をぎぎぎと巡らせ、己の後方を見る。名前は袁紹を見上げ、にっこりと笑う。
「お話に付き合ってくださいますわね、旦那様?」
彼女の嫉妬深い一面を知ってから少ししか経たないが、その中で袁紹は身を以て学んだことがある。このような顔を見せる名前の怒りは長く続くことを。それこそ気が遠くなるほどに。過去にさせられた機嫌取りを思い出し、目の前がふらりと暗くなる。しかし逃げることは能わず、袁紹は項垂れるようにして頷いたのだった。
墓穴の中を覗く