肆
河北の一帯を治める袁紹は、目下に突きつけられた問題に頭を悩ませていた。脳裏に描くのは、勢力拡大の計略でも諸侯の歓心を買うための手法でもなく、居邸に住まう己の妻の機嫌取りだった。酒宴の一件から数日と経つが、未だに彼女の怒りが溶ける様子はない。証左として帰宅後すぐに、一日何していたか、何処に居たか、誰と会ったか、身の回りに女を寄せ付けたか、仲介されていないかなど矢継ぎ早に問われ、答えてようやく息をつくことが許される。顔こそ笑っているものの目は見事に凍っており、完全にこちらを疑っているふうであった。いくら関係を悪くさせまいとしても、これが連日続くのは耐えられない。そも自分は亭主であり、何故こちらが遜らねばならぬのか。鬱々とした気分を払拭するべく市井の露店を見て回る。当然並べられる品々は普段献上される物に遠く及ばないが、それでも中には目を見張る物があったりするので、安易に安物だと十把一絡げにするにはいかない。
「―――おっ、袁紹様じゃないですか!」
練り歩く袁紹に、一人の店主が声をかける。日に焼けた肌を晒して寒空の下さっぱりした笑いを浮かべる様は、一目で豪胆な気性を読み取らせる。相手が太守であるにも関わらず気安く声をかける時点でそういうことなのだろう。嫌な気分というより感心した袁紹は、誘われるようにその店へ足を向ける。
「どうです、この簪。袁紹様の太太にきっとよく似合うと思いますぜ!」
「ふむ……。私が贈った物と比べれば劣るが、確かに悪くない出来だな」
「そうでしょうそうでしょう。なんてったって南の方から特別な伝手を頼って仕入れましたからな。そんじょそこらの簪とは訳が違いますとも」
「ほう?随分な自信ではないか」
「そりゃ袁紹様に傷もんは勧めませんよ!」
「うむ、それは良い心がけだ」
治を以て地を治める袁紹は、鄴に住まう民の心を多く買っており、深く慕われている。それを肌で感じた彼は勧められた簪をまじまじと見つめ、考えた。これならあいつにも合うかもしれぬ。淡い色が波打つ石には繊細な意匠が施されていた。おそらく翡翠を彫った物なんだろう。手に取ると、小さな石粒がしゃらりと音を立てて揺れる。実によくできている、と袁紹は内心感心した。値を問うと、思いもしなかった答えが返ってくる。
「日頃お世話になってる袁紹様からお金を貰うなんざできませんで!」
「何を言うか。私がこの河北に住まう民を治めるのは、太守としての当然の責務なのだ。それを笠に着て好き勝手しては、あの董卓と何ら変わらぬ」
きっぱり言い切った袁紹を見て、店主は涙ぐむ。
「やっぱ袁紹様からお代をいただくなんてできやせんよ、俺には」
「仕方ない奴よ。ではこれと交換せよ」
言って、袁紹は己の懐から一つの果実を出した。
「許から仕入れた桃だ。向こうで美味いと評判でな。これであれば釣り合いも取れよう」
「袁紹様、いいんですかい……?そんな高そうな桃を俺なんぞにくれても……」
「無論、誰彼構わずにやるわけではない。物には物の正しい価値というものがある。それをおいそれと変えては、この翡翠の輝きも曇ってしまう。この桃も然り。それと同等であるからこそ、これをお前に渡すのだ」
それは河北の一帯を治める立場としての言葉だった。人の上に生まれてきた袁紹は、幼い頃より己の立場をよくよく理解していた。河北の主としての立場や生じる責務、己がしなければいけないこと、なんのために政をするのかを。
「今後もしかと己の職掌に精を出すのだぞ」
店主の男は満ちた顔して頷き、袁紹は品を受け取ってその場を後にした。

仕事を終え、城を出る頃には空はすっかり暮れていた。沈みゆく陽の残照が西方を朱く染め、対する東方の空は濃紺を引き連れて月が顔を出していた。薄ぼけた月の輪郭が明瞭となるに時間はそう要さないだろうと判断し、帰路を急く。そして見慣れた居邸の門とその脇を固める守衛の者が出迎える。開けられたその奥からは我が妻―――名前が現れた。
「おかえりをお待ちしておりました、旦那様」
「お前はまた……」
以前と違い幾分か斜陽があるとはいえ、寒さが厳しいことには変わりない。にも関わらず外で待っていたことに呆れるも、笑みを浮かべた相好に変化はない。
「中で待てばよいと言っただろう」
「少しでも早く旦那様の無事なお姿を見たいのですよ」
「中で見ようと変わりあるまい」
「ええ、そうですわね」
にこにことしたまま自分に向けて言うので、それ以上の言葉はやめておくことにした。心無しか不毛な時間を過ごした気がする、と袁紹の胸中は苦くなる。
「―――それで。旦那様」
彼女のまとう雰囲気が一転する。穏やかと見える笑みに底冷えする影が滲み出し、自分を捉える眼差しが嘘は許さないと語る。来た、と袁紹は身構えた。酒宴に招かれた以降、袁紹はこれに付き合い続けてきた。ゆえにわかるのだ。次に投げられる言葉を、己が執るべき行動を。しかし今日もそれに倣うわけにはいかなかった。
「そ、それよりもだ!お前に渡したい物がある」
「渡したい物?」
出し抜けの提案に、それまでまとっていた刺すような雰囲気ががらりと変わる。目を丸くして首を傾げる彼女へ、午に購った簪を懐から出す。
「露店で勧められたのだ」
眩しい陽光を受けて輝いた午とは違い、入り日の光を表面にまとわせ、淡く控えめに手元を彩っている。動かす都度に澄んだ音が微かに立ち、陰りの中でも尚、翡翠は確かに美しかった。魅入っていたのか意表を突かれたのか、自分の手元をしばらく眺めていた名前だったが、不意に瞼を伏せて小さく息をついた。
「……何故、わたくしに?」
再び開けられた二つの瞳が自分の顔を映す。均一に伸ばされた眉目、凛然と見つめる双眸の奥に閉じ込めた僅かな恐れ。何を考えているのか、と一瞬目を見張ったが、意を決して口を開いた。
「お前に似合うだろうと思って買った。それだけのこと。―――良いか、私がこうして自ら簪を贈るのはこれより先、お前だけよ。これ以上の詮索も不安も必要ない」
毅然と言えば、見上げる双眸が衝撃に露わにして揺らめく。それからゆっくり俯き、聞こえたのはいつもの調子の笑い声だった。悠然と肢体を覆う袖が動き、差し出す己の手から簪を抜き取る。
「……ありがとうございます」
そう言って浮かべた笑みに、心臓が張り付き動きが僅かに止む。衝撃を受けたのはこちらも同じだったようだ。
「なんだ、そのような顔もできるのか。そうやって笑っておれば幾分か愛らしいものを」
そのような胸中の思いが口を衝いてしまう。直後に失言だと気づくも、不思議なことに彼女の顔に不機嫌といった色も怒りの色も見えない。目を白黒させて言葉を発さない稀有な反応に、おっかなびっくり様子を窺う私は頭の隅で、このような裏を感じさせない顔を見るためならば、多少は譲歩してやってもよいか、などと考えた。
蕾が開く時