fingertips

Off The Record

 


  誕生日の朝は、少しだけ空が澄んで見える。
 いつもの時間に、いつもの場所で目が覚める。冬の朝の寒さは兎角厳しい。慣れているはずの私でも、起きた瞬間全身に染み渡る寒さに、思わずぶるりと震えてしまう。時期的に、明日の朝には明けの明星が見えるだろう。
ふと、カレンダーが視界に入る。6の文字が大きな赤い丸で囲まれており、あまりの勢いの良さに心が和む。
 3ヶ月ほど前、ナミが航海日誌をつけている時にあっと突然大きな声を上げた。一体何事かと思うと、ナミはぱたぱたとカレンダーに駆け寄って赤ペンで丸をつけた。
「この日! 予定空けといて」
 少しの間の後、私は頷いた。
 何も特別なことではない。一つ歳を重ねたところで、何かがドラマチックに変わるということも簡単には起こらない。ただいつものように夜が明けて日付が変わる、それだけのことである。それを彼女は大切に覚えている、その事実が何よりも嬉しかった。
 隣ではナミが寝息を立てている。まだ夢の中にいるのか、無防備な表情を晒している。この様子だとしばらくは起きないだろう。音を立てないように起き上がり、私はゆっくりとドレッサーへ向かった。
 ぴかぴかに磨かれた鏡に寝起きの私が映る。母の面影を感じるようになったのはつい最近のことだ。毎日見ているけれど、日々少しずつ変わっていくからか自分ではなかなか気付けない。けれど、ある日突然目の前に映る景色が変わることがある。
 時薬、という言葉がある。過去の痛みや悲しみに対して、時間に比例してまた違った目で振り返ることができることだと解釈している。過去に負った傷が完全に消えることはないかもしれない。けれどその痛みが和らぐ瞬間があるということを、今の私は知っている。
 ドレッサーの引き出しを開けると色とりどりのコスメが並んでいる。各地のブランドもののパッケージのアイシャドウやチーク、同一のブランドの色違いのグロスはどれも魅惑的だ。一目惚れして買ったものから吟味して買ったものまで全てが揃っている。元々決まったものを長く使うのが好みだったけれど、ナミがもったいない!と言うので手持ちの色が一段と増えたのだ。リップのキャップを撫でると、たちまちその時の思い出がよみがえってくるみたいだ。
 今日はどれをつけようと迷っていると、目覚ましが鳴る。思わずびっくりして振り返ると、ナミはまだぐっすり眠っている。毛布にくるまれて微動だにしない姿は、私が起きた時から何一つ変わっていない。
 目覚ましを止め、とんとんと肩に触れながら名前を呼んだ。今日はもし起きられなかったら起こして、と頼まれている。自力で起きられずに落ち込む姿をよく見るので、細心の注意を払わなければならない。
 少しずつ声を大きくしながら声をかけること三回。ナミはようやくもぞもぞと身をよじり目を覚ました。
「起きた?」
「ん……おはよう」
 見たところ機嫌は良さそうだ。ほっとしているのも束の間、またうとうとと目を閉じそうになっているので慌てて声をかける。暖かな地域で生まれ育った彼女にとって冬の気候は厳しいものだろう。起きられなくても仕方ない。
「もう少し寝たら?」
「だめ、絶対起きる……」
 眠そうな目をこすりながらナミが言った。この調子だと完全に起きるまでにもう少し時間がかかるだろう。そう思っていると、ナミがおもむろに身体を起こして、はっとしたように飛び起きる。視線の先にはカレンダーがあった。
「ごめん!! 今急いで起きるから!」
 ナミはそう言ってベッドから離れて身支度を始めた。
 目覚ましでは全く目が覚めないというのに私の声ではすぐに起きる。本人には言わないけれど、ナミの好きなところの一つである。
「そんなに慌てなくてもいいのに」
「ロビンちょっとごめん、コーヒーとか飲んでてゆっくりしてて!」
 同じ部屋にいるのに二人の間に流れる時間が全く違うみたいで思わず笑ってしまう。私はそんな日常を愛している。


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「目、閉じて」
 閉じられた目蓋にアイシャドウのチップを乗せる。パールが馴染み、ロビンの肌がたちまち明るくなる。綺麗な肌を活かすためにファンデは薄づきのものを少しだけ。仕上げに大粒のラメを目尻に乗せたら目元は完成。あとはリップとそれに合うチークを軽くつけたら完璧だ。今日の主役のメイクアップに腕が鳴る。
 写真を撮りたい、と言ったのは私からだ。普段自分たちではなかなか撮らないので、ロビンの誕生日を機に撮ろうと思ったのだ。ならばその日のメイクをしてほしいとお願いされたのはその時だった。ロビンは表情に自信がないと言っていたけれど、全くそんなことはないと思う。自分で気付いていないだけで、皆彼女の魅力を知っている。彼女の魅力を一番に知っているであろう私に任せてほしいと、二つ返事でオーケーした。
 ブラシで撫でるようにハイライトを乗せる。まあるく整った額には、彼女の知識と経験と、それらによって形成された知性がうかがえる。
 私はつくづく思うのだ。真の美しさは知性なのではないかと。言わばその人を最も美しく彩る、一生もののアクセサリーだ。小手先のテクニックでは繕えない、彼女にしか出せないものがある。その最たる例が言葉である。彼女の言葉からは、人生の中で何度も擦り切れるほど考え抜いたことによって生み出された重みが感じられるのだ。彼女の言葉に触れる度、私は心が穏やかになる。それと同時に、言葉で伝えることの難しさに頭を抱えてしまう。ああ、本当の思いを伝えるのって難しい。私もロビンと同じくらい歳を重ねたら素敵な言葉を生み出せるようになるのだろうか。そう考えると、歳を重ねていくことが楽しみだ。
 仕上げにリップを塗り、指で軽くなじませる。少しマットな深い赤がよく似合う。普段の薄化粧のロビンも好きだけれど、大事な時にばっちり決めた姿もまた魅力的だ。今日は一段と大人っぽく見える。
「できた!」
 鏡に映る自分の姿を見たロビンは目の奥を輝かせている。声に出さなくても分かるくらいの反応に、私はガッツポーズをした。
「流石ナミね」
「一番近くで見ているもの! とても楽しかったわ」
「だったら毎日お願いしてしまおうかしら」
「毎朝起こしてくれるならいいわよ」
 そうこうしているうちに日が昇る。今日の主役をじっと見つめていると、ロビンが何やら言いたげにこちらを見ている。 「少しだけ目を閉じていて」
 言われるがままに目を閉じる。ロビンが近付く気配を感じて、ほんの少しだけ期待をした。後でリップを塗り直さないと、などと考えている間に前髪に指が触れる。
「こっちの方がいいみたい」
 目を開けるとロビンがいつもの表情で佇んでいる。これから出かけるのだから致し方ない。
「ずるい」
「何が?」
「ううん。後でのお楽しみにしておく!」
 手を取って駆け出していく。からりと乾いた空気が頬を撫で、思わず身震いする。冷たくなった指先にロビンの手が重なると、たちまちスキップしたくなる。今日のお気に入りのBGMは何にしよう。
「ちょっと出かけてくる!」
 ロビンへのおめでとうの言葉たちを背に進む。まるでパレードの中を歩いているみたいだ。
 人生はパレードである。自分が主役でなければ意味がない。ましてや今日は大好きな人の誕生日。大切な日をどのように彩ろうかと胸を躍らせながら、目的地へと走り出した。


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 眩しい光に、思わず瞬きをした。コンマ一秒単位に集められた閃光は太陽の光とは違い、いつまで経っても慣れない。人工的な光と不自然なほどに白い背景布は、日頃私たちが身を置く環境とは正反対だ。
「ロビン笑って!」
「ごめんなさい、少し眩しくて」
 困ったように笑うと、また軽妙な音が響く。隙を突かれたと呆気に取られている間に、モニターには数秒前の私たちが映し出されている。そこにはしたり顔のナミと両眉が下がった私が映っている。
「うん。やっぱりこうやって撮った方がいい表情で撮れる」
 今この空間にいるのは私とナミの二人だ。カメラマンはいない。プライベートが守られた空間で、自分たちで自由にシャッターを切ることができる。
「不意打ちすぎない?」
「だってカメラに向かって笑うのって、らしくないでしょう?」
「そうかしら」
 ナミが言うのもおかしな話である。世界的に最も有名であろう彼女の写真たちは、どれもこちらを見ている。計算し尽くされた表情で、写りも完璧である。こういった類の写真は気付かれない間に撮られるものだと思っていたけれど、一体、どこでカメラマンに気付くのだろう。
 そういえば、以前パパラッチ――巷で有名なゴシップ誌の記者だと記憶している――に追われていた時も、ナミは写真の写りを気にしていた。光の加減は、服に皺はないか、表情は平気か、など入念に確認をした上で使用料を請求するほどの強気ぶりだ。
「だって今日はロビンの誕生日でしょう? 何気ない瞬間の方がいいかなって思って」
 ほら今日は貴女が主役だから、と言ってナミは再びリモコンを手に取ると、たちまちストロボが私たちに降り注ぐ。まるで、スポットライトのように。今私は、彼女の目にどのように映っているのだろう。

「……それでね、雨の中段ボールにいる仔猫があまりにも可哀想だったから拾って持って帰ったの。ミルクとツナ缶を用意して身体も拭いてあげて、毛布まで用意して。それだというのに翌日もぬけの殻! それだけじゃない、お宝まで盗られててこれはやられたわね、なんてこともあったっけ」
 レンズ越しに相槌を打つ度にナミがシャッターを切る。自分のことを話しながら笑っているナミを見ていると、自然とこちらも笑ってしまう。
「やっと笑った! もう少しでネタが尽きるところだったのよ」
「全部面白く聞いていたわ」
 誰かの話に耳を傾けるのは好きだ。本を読むこともだけれど、自分が経験したことのない出来事を追体験できる。だから私は人と話す時間を惜しまない。それは目の前にいる彼女に対しても言えることだ。
「ならよかった」
 ナミの話は面白くてつい聞き入ってしまう。一人でラジオパーソナリティができてしまうのではないかと思うくらい軽快にテンポよく進む。タフな交渉に臨む姿を何度も見てきたけれど、その賜物だろう。若さと美しさだけではない、彼女の磨き抜かれた知性と賢さを、私は守っていきたい。
「ちゃんと撮れてる?」
「ばっちりよ! でもね、もっと素敵なのが撮れると思うの」
 モニターを確認しながらナミが言う。彼女がそう言うのならば努力次第でもっといい表情で撮れるかもしれない。頬を上げる? 目の奥にもう少し力を入れる? まだまだ研究が足りないみたいだ。
「もっと笑いたいけれど、もう口元が痛いわ」
「大丈夫。一瞬目を閉じて」
 ナミは身を乗り出し、まるでこれから魔法をかけると言わんばかりにウインクをした。強い光と共に目を閉じると、唇にあたたかな何かが触れる。
「ハッピーバースデー! 生まれてきてくれてありがとう」
 祝福の言葉にじんわりと胸が温かくなる。噛み締めるようにうなずくと、また光が降り注ぐ。
「!」
「隙あり」
 今度は正面から抱き着かれる。危うくバランスを崩しそうになるところで腕たちの力を借りる。
「危なっかしいんだから」
「ごめんごめん。でもここからはカメラなしで♡」
「こういう時だけすばしっこいんだから」
 ナミは目を閉じてその時を待っている。今朝と全く同じ表情をしていることに、思わず笑ってしまう。実は朝も迷っていたけれど、その後の予定を鑑みてぎりぎりのところで髪を撫でるまでにとどめたのだ。私はいつの間にか、ずるい大人になっていたようだ。
「ロビンまだ〜?」
 私はこの時を一生忘れないだろう。目の前の眩しい光に、再び目を閉じた。