静かな寝息が、凝り固まった胸の奥をほぐしていった。今夜も今夜とて直接「お帰りなさい」を聞くことは叶わなかったが、こうして居てくれるだけで心底ほっとする。
銃兎はネクタイを緩めると、彼女の頬にゆっくりと触れた。ガラス細工のように繊細で壊れやすく思えるのに、伝う温かさは何よりも確かで強い。幸せの塊、日常の象徴、平穏の証。大袈裟な言葉たちだが、どれもが彼女を指し示すと、本気でそう思っている。
「…………ん」
小さな唸り声を上げ、彼女は眉を軽く寄せた。手を離すべきだと判っていたのに離せなかったのは、きっと彼女に飢えていた所為だ。
閉じていた瞼が震えて、透き通った瞳が銃兎を見つめた。
「おや、起こしてしまいましたか。すみません」
「……銃兎、さん」
寝ぼけているのか、両腕がふらふらと伸ばされた。誘われるままに体を近づけると、ぎゅっと抱きしめられる。
「お帰り、なさい……」
「……あぁ。ただいま」
応えるように軽く抱き返し、ぬくもりと香りを堪能する。静かに体を離した時には既に寝入っていた。本当に寝ぼけていたらしい。だが、さっきよりもどことなく安心した表情を浮かべて眠っているように見えるのは、こちらの願望だろうか。
銃兎は静かに息をつくと彼女の手を掬い上げる。無防備に開かれた手のひらが、苦しいくらいに愛おしくて。
思わず唇を触れさせていた。
「……ふふ」
「っ」
幽かな笑い声に、ちらりと視線を動かす。まさか寝たふりを、というのは杞憂だった。
「はぁ……、驚かすな。……ったく」
寝言だと判って安堵する。じわりと照れが滲む顔を、見られずに済んで良かった。――さっきよりも嬉しそうな表情を浮かべて彼女が眠っている。今度は、確実に。
シャワーを浴びて来よう、と腰を上げた時、ふとある一節を思い出した。
――掌の上なら、懇願。
つい苦笑が浮かぶ。そんなつもりではなかったが、深層心理というものは馬鹿にできないらしい。……懇願、か。
「……違いないな」