寝つきは悪い方ではない。というより、ベッドに倒れた瞬間に寝落ちするくらい疲れている、の方が正しいような気もする。
 とにかく、眠る時は大抵一瞬なのだが、今夜に限ってはそうもいかなかった。眠ろうと目を閉じる度、瞼の裏側に影がちらつく。かつて切り捨ててきたもの、蹴落としてきたもの、都合良く利用したもの――そういう澱みのような積み重ねが、今になって襲いかかってきているらしい。近頃は本当に随分忙しく過ごしていたから、ここぞとばかりにトドメでも刺そうとしているのかもしれない。
 後暗い過去たちが勝つか、疲労による眠気が勝つか。ロクでもない勝負には違いないが、避けることはどうもできなさそうだ。長期戦を密かに覚悟した瞬間、そっと寝室のドアが開いた。
「……あれ、銃兎さん。まだ起きてたんですか?」
 顔を覗かせた恋人の瞳に驚きが浮かぶ。てっきり寝てると思ってたのに、と呟く声はなぜか悔しそうだった。ドアの前で二の足を踏んでいる彼女を手招きすると、大人しく布団に潜り込んできた。
「ところで。あなた、『今日は一人で寝る』と言ってませんでしたか?」
 その発言を受けてそれぞれの部屋に分かれたはずなのに、彼女は結局銃兎の腕の中にいる。痛いところを突かれたようで、彼女はもごもごと口を動かした。
「……それは、その、なんか……。……それより、銃兎さんが起きてるのって珍しいですよね。寝れなかったんですか?」
 はぐらかしやがった。
 尋問するかとも思ったが、銃兎は静かに半眼で見つめる程度に留めた。
 寝れなかったのかと問われるなら、そうだと答えるしかない。ただ、その理由を話す気にはどうしてもなれなかった。薄々は銃兎が正しく清廉なだけの存在でないことに気づいているだろうが、だからと言って全面的に打ち明けるつもりもない。
 できることなら、汚れも暗がりも知らないところで、笑っていてほしいから。
「別に、眠る気にならなかっただけです」
「……そうなんですか?」
 真っ直ぐに視線が注がれる。そっかぁと納得している眼差しだ。素直で助かる。
「なら、ちょっとだけ試してみたいことがあるんですけど。いいですか?」
「試してみたいこと……? 構いませんが」
 彼女から何か提案されるなんて久々だ。何をする気だと見守っていると、彼女の手が銃兎の髪に触れた。いい子、というように撫でてから、頭の後ろ辺りに手が添えられる。ゆっくり彼女の方へ引き寄せられ、胸元に頬を寄せる形になった。
「っ」
「……やっぱりちょっと恥ずかしいなぁ」
「何、を」
「心臓の音、聞こえますか?」
「心臓……?」
 言われるままに耳をそばだてる。とく、とく、と穏やかな鼓動が聞こえた。彼女が囁く声が、それに重なる。
「心臓の音、聞いてるとよく眠れるんです。銃兎さんはどうかなぁと思って、試してみました。……どうですか? 寝れそうですか?」
「……」
 なるほど、あの眼差しに含まれた【納得】は、銃兎の発言を鵜呑みにした結果の納得ではなかったらしい。眠れないことなんて、とっくに見抜かれていた、と。
「……や、やっぱり個人差ありますよね! ごめんなさい、すぐに、」
 やめます、と続く前にぎゅぅ、と抱きついた。言葉がなくとも伝わるだろうか。伝わっていてほしい、ちょっと恥ずかしいから。
「……お休みなさい、銃兎さん」
 優しい声が耳朶を打つ。規則正しい鼓動の傍で、銃兎はいつもよりずっと穏やかに眠りに落ちていった。