「あ、太子」
 家に着く直前に呼ばれ、太子は声の方を向いた。声で誰かは判っていたが、それでも姿を見ると驚きが湧く。
「水羽さん。こんばんは」
「こんばんは。今帰り?」
「はい。いつも通り、黒玉湯に行ってきたところで」
「そっか。お帰り」
「……ただいま」
 何でこんなやり取りを、と思っていると、彼女が「なんでって思ってるでしょ」と笑った。そんなに顔に出ていただろうか。
「ふふ、さては携帯見てないな」
「携帯?」
 見てない、という言葉から嫌な予感を察知して、太子は慌てて鞄から携帯を取り出した。電源を押すと、通知画面に彼女の名前とメッセージが映った。そう言えば見ていなかった。
「……すみません、今気づきました」
「全然。だろうなって思ったから来たし。太子、」
 ふふ、と楽しそうに微笑むと、彼女はいとも簡単にこう告げた。

「私とデートしようよ」
「で、デート!?」

 なんてことのない風にさらりと投げられた言葉に、太子は落ちてもないメガネを上げた。声が勝手に上擦る。
「で、デートって、今から、こんな時間から何しようって言うんですか!?」
「えっ、普通にご飯でも食べに行きたいなって」
「最初からそう言ってください!」
「でもデートでしょ。デートって男女が日付や時間を決めて会うこと、じゃなかったっけ?」
「確かに、デートという言葉には、日付・年代という意味の他にそういう意味もありますが……。今日は日付も時間も今決めましたし、厳密にはデートではないはずです!」
 何言ってんだ、俺。
 理性が至極冷静にツッコんでくるが、言ってしまった以上どうしようもない。綸言汗の如しである。別に俺は偉くねぇけど。
「……ごめん、ちょっとからかいすぎちゃったかな。嫌だった?」
 謝る彼女の表情は、どことなく寂しげに見えた。太子は少しだけ視線を逸らしながら「……別に」と呟く。
「別に、嫌だったわけではありません。ただ、驚いたというか、戸惑っただけです」
「本当? よかった、嫌われちゃったかなって思った」
「このくらいで嫌ったりしません。軽口を真に受けるほど子供ではないので」
「……ふぅん?」
 明らかに何か言いたげの目を向けられ、太子は今度こそ完全に視線を逸らした。若干耳が熱い気がする。なんでこうも歯が立たないのか。先輩である和倉七緒と相対する時とはまた違う敵わなさを感じる。ぜってぇいつかお礼参りキメてやる、と思いながら、太子は口を開いた。
「少し待っていてください、今親に聞いてきます」
「ん、オッケー」
 軽く手を振り見送る彼女に背を向け、太子は家へ入った。挨拶もそこそこに、ご飯の支度をしている母親に問いかけるとすぐに承諾を得られた。早速飛び出そうとして、玄関で足踏みする。姿見の前で軽く髪を整えてから、何食わぬ顔で出ていく。
「お待たせしました。良いそうです」
「よし。じゃ、行こっか。どこにするかな〜」
 彼女の隣へ行くと、表情を盗み見た。さっきまでの寂しげな雰囲気は消え、楽しそうに和らいでいる。よかった、と内心胸を撫で下ろした。
 遅くなるのも、と手近なファミレスに入ると、彼女はいそいそとメニューを広げた。
「お腹すいたー、何食べよう。……お、これオムライスにハンバーグ乗ってる。これにしようかな」
「それは……この時間からだと、カロリーの摂りすぎじゃないですか?」
「太子……、女の子にカロリーの話をする奴はモテないぞ」
「女性はそういったことに興味があるのでは?」
「あのねぇ……興味があると言われて腹立たないはイコールじゃないのよ……」
「……水羽さんも、腹が立つんですか?」
「私はいいけど、他の子にやっちゃダメだからね。恋始まる前に終わる可能性すらあるからね」
「はあ」
 覚えておこう、一応。彼女が腹を立てないのなら、別に構わないけれど。
 彼女はもう注文を決めたようで、メニューをぱたんと閉じた。少しだけ身を乗り出すと、太子の持っているメニューを覗き込む。
「太子、どれにするか決めた? 私はさっきのオムライスハンバーグ乗せにするけど。あ、カロリーは帰り歩くって決めたから気にしなくて良し」
「それだけですか? 野菜も摂ってください」
「えー……」
「えー、じゃないです。取り分けてあげますから、このサラダ一緒に食べましょう」
「はーい。メインは?」
「メインは……」
 正直悩んでいる。ハンバーグプレートにするか、焼き鯖定食にするか、二つに一つだ。がっつり肉を食べるか、少しばかり大人らしいものにすべきか。
 考えた挙句、太子は「焼き鯖定食にします」と告げた。彼女は頷くと呼び鈴を押して店員を呼び、さっさと注文してくれた。
 すぐに運ばれてきたサラダを取り分けて渡すと、彼女は漠然と「学校どう?」と聞いてきた。漠然としすぎだ。
「楽しいですよ。部活も、悪くないですし」
「そう。因みに今日はどんな感じだったの?」
「今日ですか? 今日は、」
 こうして地球防衛部の話や授業の話、学食の話から全く関係ない蘊蓄まで、何でも――魔法騎士になって怪人と戦っている話はできていないが――話す時間が結構好きだ。彼女曰く、話している時の表情がとても柔らかくなっているらしい。好きなんだねぇ、と言われて、ちょっとだけ照れてしまった。
 メインが来ると、彼女は残りのサラダを片付けてからスプーンを手に取った。
「来た来た〜、いただきますっ」
「いただきます」
 きちんと挨拶してから、スプーンでオムライスを掬った。湯気の立つオムライスに、たっぷりのデミグラスソースを絡めてから口に入れる。
「ん〜……うま……」
「よかったですね」
「よかったですよ……。ところで、太子なんで鯖? 美味しいけど、肉じゃなくてよかったの?」
 良くぞ聞いてくれた、とばかりにメガネを押し上げると、滔々と説明し始めた。
「鯖などの青魚にはDHAが豊富に含まれているのですが、この成分は脳の海馬にあり、シナプスの働きをスムーズにします。一般的に『魚を食べると頭が良くなる』と言われているのはその為です」
「へぇ、よく知ってるねぇ」
 覚えておかないと、と呟くと、彼女はスプーンでハンバーグを切って太子の皿へ乗せた。
「え」
「さっき迷ってたでしょ。ちょっとあげるよ」
 気づいていたのか。よく見ている、本当に。
 皿の端に乗せられたハンバーグを眺める。ちょっと、にしては随分大きなひと塊だ。
「いらなかった?」
「……いえ、ありがとうございます。いただきます」
「ん」
 分けてもらったハンバーグを頬張ると、彼女は満足げに微笑んだ。「いっぱい食べな〜」なんて、ゆるい声が添えられて、太子はもぐもぐと口を動かしながら頷いた。
 メインを平らげ、最後にデザートも食べると満腹になった。暫くはドリンクバーのジュース片手にだらだらと話していたのだが、彼女が時計を見た瞬間、この時間が終わりになろうとしたのが判った。
「そろそろ帰ろうか。あんま遅くなると心配させちゃうし」
「……はい」
 伝票を取った彼女が席を立った。財布を探しながら追いかけ、レジの前で並ぶ。
「お会計お分けしますか?」
「あ、一緒で」
「は!?」
 お願いします、と太子が言うより先に、彼女がさっさとお金を取り出し支払いを済ませてしまった。鞄に中途半端に突っ込まれた手を見て、彼女はけらけら笑った。
「いいよいいよ、しまっときな」
「ただご馳走になるなんてフェアじゃないです! 私も出します、いくらですか!?」
「フェアって。これでも社会人なんだから、ここは甘えときなさい」
「し、しかし……」
 大人しく退く気がないと判ったようで、彼女は「うーん」と唸ってから手を打った。
「ならさ、今度は太子がなんかご馳走してよ。それならフェアじゃない?」
「……判りました。次は、必ず私が奢ります」
「あはは、覚えてたらでいいよ」
「絶対に忘れません、書いておきます」
「ふふ……っ、書かなくても」
 有言実行、すぐに手帳へメモしていると、彼女は堪え切れないとばかりに大笑いしていた。律儀だねぇ、なんて頭を撫でられ、何となく釈然としない気分になる。
 元々そこまで遠くないファミレスだった為に、あっという間に家に着いてしまった。
「付き合ってくれてありがとうね」
「いえ。こちらこそありがとうございます、ご馳走さまでした」
「いーえ。じゃあ、」
「あの」
「ん?」
「本当に、歩いて帰るんですか」
 地味に気になっていたことを尋ねる。彼女はぽかんとした顔をしてから、ああと頷いた。
「歩くよ〜、まあ二駅くらいだし」
「なら、私も同行します」
「え?」
「夜道を女性一人で歩くなんて危険です。何かあったらどうするんですか」
「あら紳士だこと、ありがと。でも、未成年遅くまで連れ回してる方がやばいでしょ。下手すりゃ捕まるわ」
 あはは、と明るく笑い飛ばし、彼女は手を振ってから太子へ背を向けた。
 ――それが、どうしようもなく障った。
 気づくと、彼女の手首を掴んで引き止めていた。
「……太子?」
 戸惑うような声がする。手のひらから、細さと温かさが強く感じられた。

「……もし、俺が未成年じゃなかったら。未成年じゃなかったなら、送らせてくれましたか」

 真っ直ぐに見つめる。僅かな表情の変化すら見落とさない為に。この言葉が、この想いが、ほんの少しでも伝わればいいと願って。
 彼女が、そっと目を伏せた。

「……多分、太子が未成年じゃなかったら、私を送りたいなんて言わなかったんじゃないかな」

 小さく、絞り出すような声だった。
 静かに手を剥がし、彼女はまた寂しげに笑って「今日は大人しく電車で帰るよ」と来た道を戻っていった。
 掴んでいた手を、強く握りしめる。
 彼女はいつもそうだった。太子のことが大切だと、大好きだと全身で伝えてくるくせに、こちらが触れようとすると途端に線を引く。未成年だから、社会人だから。様々な理由で、線を引く。笑顔の裏で、何かを怖がっているみたいに。
「……くそっ」
 本当はもう少し話していたかった。笑っていてほしかった。どれもこれも、今の太子では伝えられない。伝えさせてくれない。

 ――ぜってぇ、いつか。

 小さな決意を込め、小さな背中を見つめる。しっかりとした足取りの彼女は、あっという間に夜へ消えてしまった。