「君の所為だ! どうしてくれるんだね!」
聞き慣れた叫び声が頭の上からする。このハゲ、と心の中で罵りながら、独歩は機械的に「すみません」を繰り返した。これはある種の嵐なのだ。避けることはできず、備え、耐えることしかできない。とにかく過ぎ去るまで耐え抜く他はない。これ見よがしにため息を吐いてやりたい衝動を殺しながら、繰り返し繰り返し頭を下げ続ける。
「お前の所為だ」
突然、背後から懐かしい声がした。
課長に怒鳴られているのも忘れて振り返る。
「な……んで……」
そこには、両親と弟が立っていた。怒鳴り声をBGMにしているというのに、全く動じることなくただ独歩を見つめている。課長は課長で、突然現れた三人には目もくれず叫び続けているのだけれど。
「お前の所為で、失敗した」
「お前がいたからこんなことになった」
「独歩の所為で」
「え、あ……」
淡々と語られる言葉は、懐かしさと裏腹に刃よりも鋭く独歩を抉った。きっと憎く思われているのだろうとは思っていたが、こうもはっきりと怒りを向けられたのは初めてで、瞳の奥がじん、と痛む。
「――独歩」
隣から聞こえてきた声は、独歩が愛して愛して愛して止まない、その声で。
視線を向けるのが恐ろしい。いつだって「いつ捨てられてもおかしくない」と口にしながらも、本当になるなんて考えてはなかったような気がする。心のどこかで、彼女が自分を見捨てることなんてないと慢心していたのだろうか。そんなこと、ないのに。
見たくない。怒声、詰る言葉、その渦中から抜け出したいと願うのに、動くのが怖い。見たら、どうなるのかが判る。容易く想像できる。見たくない、見たくない、みたく、ない。
脳は確かに拒絶しているのに、体は軋みながらゆっくりと動き出す。体の向きが変わり、首が持ち上がり、視線が合う。
彼女の瞳から、一筋の涙が落ちた。
「あなたの所為で、私は――」
声は聞こえなかった。けれど、判ってしまった。怒声、詰る言葉、それから、泣き声。
「あ……あぁ……っ、あぁ……!」
独歩は頭を強く抑えつけ、慟哭した――。
「――っあ!?」
叫び声に目を覚ますと、ばっと飛び起きた。辺りはしんと静かで、聞こえた叫び声が自らの上げたものだとすぐに判った。もそ、と隣の温度が動き、独歩へ擦り寄った。
「……独歩? どうしたの、すごく叫んでたけど……っ!?」
彼女の体がびくりと跳ねた。それもそうだ、質問に答える間もなく抱きしめてきたのだから。
「夢……夢、だったのか……」
「夢? 夢見てたの?」
体が震えている。布団の中にいるはずなのに、極寒の外へ放り出されたようだ。彼女は暫くじっとしていたが、やがて独歩の背中を優しくさすった。宥めるようなテンポで、幾度となく往復する。
「……怖い夢、だった?」
「あぁ……俺は、俺の所為で何もかもが上手くいかないんだ。いつもそうだ。何かしようとすれば裏目に出て、優秀な誰かの足を引っ張ることしかできない。貧乏くじばかり引かされて、でも断ることができないのは俺が弱い所為で、つまり全部俺が悪いんだ。俺が、俺は俺は、俺が……」
「そうかな?」
「そうなんだ。なのにまた自分に一厘くらい期待して、結局裏切って。俺は何がしたいんだ? 自分をめちゃくちゃに傷つけるだけだって判ってるのに、こんな、こんな」
「……そっかぁ……」
彼女の相槌はかなりのほほんとしていたが、一つとして独歩の言葉を否定するものはなかった。流れるままに泣き言や愚痴や世迷言を吐き続け、支離滅裂な言葉が多少まともになる頃には随分夜が深くなっていた。
「……すまん。今からじゃいくらも寝れない、よな。本当に俺は、生きているだけでお前に迷惑を……」
「大丈夫だよ、私ショートスリーパーだから、睡眠時間そんなにいらないし。心配してくれてありがとうね」
ぽん、ぽんと優しく髪を撫でられる。子供のあやし方だと判るが、心地良さには敵わない。大人しくされるがままになっていると、彼女は腕を伸ばして枕元のランプを点けた。二人の傍に柔らかな光が灯る。
「とりあえず横にはなっておこうか。体は休まるから」
「そう、か。判った」
こくんと頷いてから、独歩は言われる通りに体を横に倒した。彼女も同じように横になると、独歩の頭を抱くように包んだ。頭から背中の上側をそっと撫でる。
「いっぱい、いっぱい頑張ったんだね」
「っ」
「独歩はえらいね」
「えらく、ない」
「えらいよ。一生懸命頑張った独歩が、えらくないわけないでしょ」
「……」
「今日も一日、よく頑張りました」
「……夢で」
「ん?」
優しい言葉、手、ぬくもり。その全てがかけがえのないもので、失くしたくなくて、また瞳の奥が痛くなってきた。恐れを再び身に宿して堪え切れなくって、口から零れる。
「夢で、お前に言われたんだ。俺の所為で『不幸になる』って」
「……不幸」
「聞いて、そうだよなと思った。毎日毎日残業ばかりで家には殆どいられなくて、休みも偶にしかなくてどこも連れて行ってやれないし、家事もまともにできない。考えれば考えるほど、お前が俺の所為で不幸になるっていうのは納得だった」
「……」
「今すぐお前に捨てられるんだと思った。捨ててくれと思った。だって、だって俺は判ってるのに、」
きっと不幸にすると予想ができたのに。今すぐ離れるべきなのに、捨ててほしいと願ったのは、単純な理由だ。
「自分からは、お前を離してやれないから。……すまん」
「……、独歩」
彼女がため息をついた。呆れた色のため息を聞いたのは初めてな気がする。記憶の限りではあるが。まさか、今のが決定打になったのか。どうしてこんなことを言ってしまったのか。やっぱり俺は――と思考回路に淀みが這ってきた時、彼女の手が頬を包んだ。
「独歩の考える不幸がどういうものなのかは判らないよ。判らないけど……、私にとっての不幸は判る。私の不幸は、独歩が悲しいこと。一緒にいられないこと。だいすきって伝えられなくなること」
「は、え?」
「……つまり、私は独歩が一緒にいてくれれば幸せってこと、かな」
彼女は少しだけはにかむと、そっと独歩を抱きしめた。とく、とく、と規則正しい命の音がする。
「ちょっと不謹慎だけど……、独歩が『離してやれない』って言ってくれたの、ちょっと嬉しかった。離さないでくれるんだなぁって」
「あ、当たり前だろ。お前に捨てられることはあっても、俺が手放すことは絶対にない」
「ふふ、私が捨てることもないんだけどねぇ」
柔らかく目を細め、彼女が額に口付けを落とした。ぱちん、とまばたきしてから、彼女の頬に口付ける。味なんかするはずもないのに、口の中が甘くなった気がした。
「すき。だいすきだよ、独歩。大丈夫、大丈夫……」
「……俺も、……好き、だ……」
「そっか。よかった……」
嬉しそうに微笑む彼女に堪らない気持ちになって、独歩は細い体を強く強く抱きしめた。痛いよ、と笑い声がする。やがて諦めたのか、寝かしつけるように背中をぽん、ぽんと叩かれた。
ランプの淡い光が夜を照らす。優しいぬくもりも、この腕の中にある。さっきまでとは全然違う。
独歩は深く息を吐いてから、ゆっくり目を閉じてみた。今度は悪夢を見ることもなく、起床時刻の六時まですとんと眠ることができていた。