「どきどきして寝れないから、一緒に寝たくない」

 そう断られたのも随分前のことになる。
 少しずつ一郎の体温に慣れさせ、少しずつ隣で寝転ぶことを許容させ、少しずつ触れ合ってきた結果、今では腕枕で眠ってくれるようになった。大進歩である。どきどきしなくなったわけではないらしいが、それよりも安心感が勝つそうだ。――勿論【そういう時】は別として、だが。
 今日あったことをぼんやりと聞きながら、彼女の髪を撫でる。掬っても落ちていくような、儚い手触りだ。最初は元気だった声音が徐々にトーンダウンし、眠気をやんわりとまとい始めた。
「ははっ、眠いか?」
「……ん、まだ、……っ、寝てない、寝てない……」
「ほら、無理すんな。大丈夫、お前が寝るまでこうしててやるから、な?」
「『寝るまで』?」
 彼女の唇が、む、と不満げに尖る。
 浮かべた笑顔が一瞬固まるほどの衝撃が一郎を襲った。きっと動画サイトだったら、今頃コメントで画面が見えなくなっているに違いない。一人だったら床をばしばし叩いていたし、大暴れしていたし、SNSに「俺の恋人が可愛すぎる件について」とか呟いていたと思う。流石に非公開アカウントでだけど。
 数多の萌えを咳払い一つで無理やり収めると、一郎は彼女に笑いかける。笑いかけられてっかな、にやけてねぇかなと思いつつ。
「あー……、訂正する。お前が寝ても、だ」
「……なら、良し」
 ふにゃり、と口元を緩めた彼女が、一郎に身を寄せてから目を閉じる。すっかり甘え切った動作に、一郎は目元を自由な方の手でばしんと――音はしてない、効果音的なあれだ――押さえた。
 叫びたい。窓から身を乗り出し、「俺の恋人が可愛すぎる件について」と叫びたい。しないけれど。下手したらネットニュースに『MC.B.B、騒音問題を起こし苦情』とか載るし、載ったら二郎にも三郎にもめちゃくちゃ心配されそうな気がする。……いや、叫ばないし載らないけれど。つい妄想が過ぎた。
「……あー……」
 既に眠りの海へ漕ぎ出した彼女を抱きしめると、一郎は大きく息をついてから寝顔を見つめた。幸せそうな、穏やかな表情を浮かべ、静かにゆったりと眠っている。二郎と三郎もそうだったが、身内の寝顔というのはどうしてこうも幸せな気持ちにさせてくれるのか。
「……かわいい。なんでこんな可愛いんだろうな、お前」
 聞こえるはずもない賛辞を零しながら、彼女の温度に心の奥底を溶かす。彼女を連れ去った海が、波が、一郎の足元を濡らしているのが判る。もう時間切れだ。勿体ねぇな、と感じるけれど、明日もあると信じて目を閉じた。
 静寂の合間に、彼女の呼吸が聞こえる。世界で一番静かな子守唄に耳を傾けながら、一郎は意識を手放した。