こんなの、あんまりだ。
 今日も今日とて働いて働いて残業して残業して、やっとの思いで帰ってきて。さぁ彼女と布団に癒してもらおうと上掛けを取った瞬間。
 ――ふ、と知らない匂いがした。
 彼女の使うシャンプーでもボディークリームでも、柔軟剤でも香水でもない。知らない、おとこの、におい。
「おい」
「なに?」
 独歩はベッドの上で正座し、彼女をじっとりと睨む。睨まれている本人は何も判らなそうに困った顔をしていて、薄暗い優越を覚える――が、それは一瞬で申し訳なさに変わり、再び瞬く間に焦りへ変わった。
「あ……えぇと……」
 なんて聞けばいいのだろう。「布団から知らない匂いがするんだが、男でも連れ込んだのか」? それでもし「うん」って言われたらどうすればいいんだよ、ボツ。
 まずは遠回しに、と言葉を絞り出す。
「……シャ、シャンプー、変えたか?」
「えっ、変えてない……けど」
「じゃあ、えっと……柔軟剤」
「……も、変えてない」
 嫌な沈黙が降りる。明らかに困惑している様子の彼女を、じっと見つめた。
 浮気されても仕方ないと思う。殆ど休めない所為でまともにデートできない。忙しさで家事を手伝うこともなく、彼女にほぼ丸投げ。挙句偶の休みも「折角のお休みなんだから、ゆっくり休んで」と気を遣われる始末。俺がもし女性だったとしたら、俺だけは絶対に選ばない。
 でも、だけど。
 彼女は、独歩を選んでくれた。物好きだとか変わってるだとか色々な言葉で保険をかけ、彼女をずっとずっと試し続けてしまった独歩の手を取ってくれた。大好きと伝えてくれた。
 噛み締めた唇と、握り締めた手のひらが痛い。
「……独歩。言ってくれなきゃ、判らないよ」
「……すまん」
「言いたくないなら、今すぐ言わなくてもいいけど。そんな顔するくらいなら、言ってほしいなぁ」
「どんな、顔、してるんだ。俺は」
「うーんと……、すっごく悲しい顔。泣きたいけど、泣くの我慢してるみたいな、顔……?」
「ははっ、……結局お前に心配かけて……心配じゃなくて、迷惑か。俺はどうしてこうなんだ。悩むなら悩むで一人で悩めばいいのに、目の前で悩んでますとばかりのツラを晒して。お前の優しさに甘えてるんだ。そりゃ捨てられても当然……、」
「ちょっ、ストップストップ!」
 ぎゅっと手を握られ、反射的に言葉が止まった。
「えっと……、『捨てられる』って何?」
「何、って」
 彼女が身動ぐ度に、誰かの影がちらつく。どんな風に彼女に触れたのだろう。彼女は、どんな反応をしたのだろう。笑顔も、照れた表情も、膨れた頬も、涙も、とろけた瞳も。
 全部ぜんぶ、俺だけのモノに、できたはずだったのに。
「……嫌だ」
「独歩……?」
「っ、いや、だ」
 昂る感情の赴くままに、ぐっと抱き寄せた。離れないように、逃がさないように力を込める度、彼女の香りと男の匂いが混ざってむせ返る。嫌だ、嫌だ、嫌だ。
「絶対に、別れてなんかやらない。体の関係があるとかないとか、そんなのどうでもいい。お前が、本当は、もう俺のことなんか好きじゃなくても、逃がしてやらない。渡してたまるか……!」
「独歩、痛い、いたい! ……痛いって、言ってるでしょ!」
「いっ!?」
 胸の中心部に強烈な痛みを感じ、力が緩む。その隙に独歩から離れた彼女は、暫し荒く呼吸を繰り返していたが、きっと眉を吊り上げた。
「『体の関係がある』ってどういう意味!? あと私が独歩のこと『本当はもう好きじゃない』とか言ってなかった!?」
「だ、だって……その、匂い、が」
「匂い?」
 勢いで開けた口は思いの外滑らかに動き、独歩は漸く問いかけることができた。
「布団から、知らない匂いがして。香水に詳しいわけじゃないが……、それ、男物じゃないのか」
 再び嫌な沈黙が降りる。険しい顔の彼女を祈るような気持ちで見つめていると、ぱちんと弾けるように表情が変わった。
「あっ、これ!? これ、独歩の匂いだよ?」
「俺の匂い? ……いや、流石に無理が」
「いやいや嘘でも気遣いでも誤魔化しでもなくて! ほら、今日発売日だったでしょ。独歩の香水」
「俺の……………………あっ!」
 思い出した。確かディビジョンバトルの広告の一環で香水を作らされた。いくつかの中から一つ選ぶ形式だったのだが、正直どれも【俺のイメージとはかけ離れたいい匂い】としか思えず、最終的に利き手の一番傍にあったものを選んだ――のだが、そうか、あれ今日が発売日だったのか。
「で、早速つけたかったから寝る前に使ったの。本当はお出かけの時にって思ったんだけど、ちょっとでも早く使いたくて」
「そ、うなのか」 
「そう。ご納得いただけましたでしょうか」
「納得した。痛かったよな、さっきの。すまん」
「別に。……っていうか、私が浮気するような人間だと思われてたことの方が辛い」
「うっ」
「あと、『もう好きじゃないのかも』って思われてたのも辛い」
「……」
 そっと伏せられた瞳は、言い表せない悲しみを湛えていた。いつもならふわりと弧を描く唇も、今は固く結ばれている。まるで、泣きたいのを我慢しているような。
 ――嗚呼、さっきこんな顔をしてたのかもしれないな。
 迷いながらも手を伸ばすと、今度は優しく抱き寄せた。彼女の香りと、知らない――けれど、自分の香りが漂う。
「……独歩」
「なんだ?」
「別れない?」
「わ、別れたいのか」
「違う、別れるって言わないよねの確認」
「あぁ、そういうことか……。うん。言わない。言うわけない」
「……私も、言わないからね」
「判った。……言質は、取ったからな」
「ふふっ、怖」
 怖いと口にしながらも、彼女は独歩の胸へそっと頬を寄せた。結ばった唇がやっと解けたのが見えて、独歩は静かに息を吐いた。