――あれって。
空却と歩く最中、一郎はある女性の後ろ姿を見つけた。
彼女は一郎たちがまだNBだった頃からの知り合いであり、一郎が密かに想いを寄せている相手でもあった。まさか自分がそんなことを考える日が来るとは夢にも思っていなかっただけに衝撃は凄まじく、自覚したその日は空却に蹴られても、左馬刻に額を押されても、簓にツッコまれても何の反応もできなかった。故にその時は【一日バトル禁止令】が布かれたのだが――その辺りは割愛する。
――さて見つけたはいいが、どうすればいいか。
声をかけるべきなのは判るが、何を話せばいいのか見当もつかない。参考がてら合歓との会話を思い出したが、大抵が左馬刻のことだったことに気づき、完全に詰んだ。不自然に足を止めた一郎に、空却も「あ?」と立ち止まる。
「お、あいつじゃねぇか! おい!」
「っ、空却!」
呼びかけるなり走り出した空却を追いかける。自分の方が先に彼女を見つけたと言うのに、こうしていつも通り出し抜かれた。
「おーい、何やって、」
「ちょっ、今、私に触らないで!」
「はぁ?」
いつもなら挨拶を返してくれるはずの彼女が、歩みを止めることさえなくぴしゃりと空却を跳ね除けた。反射的に足が竦んだ一郎を置いて、空却は彼女に食ってかかった。メンタルが強い。
「何でだよ」
「い、今止まったら二度と歩けなくなりそうだから……」
「ンだそれ」
彼女からの返事を聞いて、一郎は漸く彼女の持つ大荷物の存在に気づいた。両手を塞ぐビニール袋はぎちぎちと延びていて、中身が重たいことが一目で判った。
「貸してください、それ」
「えっ……! お、重いからいいよ!」
「遠慮すんなって。いい修行にもなるしな」
なぜか空却が返事した。いやそうだけど。遠慮しなくていいけど。なんでお前が言うんだよ。
何となく釈然としない気持ちではあったが、それを聞いて彼女は漸く足を止めた。そろそろと視線と荷物が一郎へ向けられる。
「じゃあ……お言葉に甘えて」
「……っす」
「ありがとね、一郎くん」
上目遣い、笑顔。あまりにも重いツーパンチが入り、一郎はぱっと視線を逸らした。渡された荷物はそこそこ重かったがそんなことはどうでもいい。なんだ今の、俺の目潰れたんじゃねぇか? ゼロ距離で浴びていい威力じゃなかったぞ。
黙り込んだ一郎とは対称的に、空却が彼女へ話しかけた。
「つーか何買ったら立ち止まれねぇほど重くなんだよ」
「お米を五キロほどと、あと玉ねぎが安かったので一箱」
「一箱だ? お前、今度は玉ねぎ強化月間開催すんのかよ」
「いいでしょうよ玉ねぎ美味しいし!」
「ハッ、どうだか。前の人参は飽きたって半泣きだったじゃねぇか。『過去に学べぬ者は愚か者なり』ってな」
「空却には悪いけど、今回はいける気しかしない」
「前も言ってたけどな」
「くっ……!」
「……おっ、牛肉も買ってんじゃねぇか! 拙僧あれ食いてぇ、ハヤシライス」
「えっ牛丼の予定だったんですが」
「明日にすりゃいいだろ。この前の、美味かったからまた食いてぇんだよ」
「うわ、その言い方ズルすぎ……了解、ハヤシね」
「っしゃ! 一郎も食ってくだろ?」
「……」
続けざまに放り込まれた爆弾発言に、一郎は思わず瞠った。確かに空却は誰に対しても遠慮のない奴ではあったが、まさかここまでとは思っていなかった。そもそも俺「この前の」ハヤシライス食ってねぇけど。聞いてねぇけど。えっ、もしかしてこいつ結構家上がり込んでんのか? 俺より親しくねぇか? ってかなんでお前が「食ってくだろ?」って聞いてくんだよ家主か!
言葉がぐるぐるして何も言えずにいると、困っていると判断したのか彼女が慌てて口を開いた。
「急に言われても迷惑だよね! ごめんね一郎くん、」
「行きます」
「えっ」
「行きます。食わしてください、アンタの作るハヤシライス」
「う、うん……過度な期待はしないでね……?」
勢いなのか何なのか、なぜかしっかりと目を合わせて言うことができた。驚きに見開かれた瞳が、ゆったりと逸らされる。
途中何を話したのか、実は何も話していないのか判らない状態ではあったが、一郎はどうにか彼女の家まで辿り着けた。開かれた扉から漂う香りが何となく甘く、心臓が最高速で走り出した。荷物を玄関に置くと、案内されるままに洗面所で手を洗わせてもらう。彼女がいなくなった瞬間に顔も洗って、少しばかり頭を冷やした。因みに空却にはばっちり見られた。
空却は勝手知ったる様子でコップと麦茶を取り出すと、どすんとテレビの前に座った。完全に家主のそれだ。こいつ、やっぱ結構上がり込んでんな。
「手伝います」
「えっ、いいよ。空却とテレビ見てて」
「いや、そういうわけにもいかねぇっつぅか……、落ち着かねぇし」
「……あははっ、初めて来る人のうちじゃあ寛げないよね。空却くらいだよそんなの」
「あいつ初回からあんな感じだったんすか……」
「そうそう。『食うもんねぇのか』っていきなり冷蔵庫開けたからねあいつ」
「……なんか、すいません」
「いいよ、慣れたし。……えっと、皮むき手伝ってくれる?」
笑顔と共に差し出された玉ねぎを受け取ると、一郎はぱっと俯いた。玉ねぎに集中する為だ。断じて笑顔に目を焼かれたわけでない。
こうして皮むきから始め、切って炒めての作業も手伝いつつ彼女と話した。会話の内容は主に、と言うか全部空却の話だった。何せこれが一番間違いなく盛り上がるのだ。彼女も彼女でエピソードが尽きず、どんどん彼女と過ごす空却のディテールがすごくなってきた。何なんだよ。
味付けを終えると、彼女はひと匙味を見た。ん、と満足げに頷いた後、一郎へ笑いかける。
「味見する?」
「はっ」
いつの間にか掬われたひと匙が向けられ、一郎の体温がぐわっと上がった。それって【あーん】ってやつじゃ、ってかそれアンタが使ったスプーン、間接キス的なあれじゃ、いいのかそれ、アンタはいいのか!?
視線を逸らしてみたところで赤くなった顔は隠せず、そうこうしている間に彼女の方があっと声を上げた。
「ごめんごめん、空却にやってるテンションだった」
――カチン、と来た。
一郎は引っ込めようとしていた彼女の手を掴むと、ぐいっと自分の方へ寄せた。そのまま、スプーンの先へ食らいつく。ブラウンルーのコクと玉ねぎの甘さが口の中に広がった。
「ん、美味いっすね」
「……い、ちろう、くん……」
「……アンタが俺をどういう風に見てんのかは知らないっすけど」
掴んだ手首の細さに、温かさに、不確かさに、胸が鷲掴まれる。視線がどれだけ深く絡んでも、逸らさない。逸らせない。
見下ろした彼女の頬は見たことがないほど赤くて、期待しそうになる。ごく、と喉を鳴らしたのは、果たしてどちらか。
「俺は、アンタのこと――」
「――腹減ったぁ。まだできねぇのか?」
「く、空却っ!」
一郎の手が僅かに緩んだ隙に、彼女が脱出した。さっさと自分のご飯とルーをよそった彼女は、「好きなだけよそってかけて!」と言い残しリビングの方へ歩き去ってしまった。
「…………………………」
「ンだよもうできてんじゃねぇか。……ヒャハハッ、今日も美味そうな匂いしやがんなぁ」
「…………………………」
「一郎? なぁに突っ立ってんだ?」
空却の声も聞こえないほど、一郎は酷く、深く、後悔していた。
やって、しまった。
無理に手を掴んでしまったし、脅しかけるような雰囲気を出してしまった気がする。せめて最後まで言わせてもらえていれば可能性はあったかもしれないが、言えなかった為彼女に見せたのは『突然キレながら手を掴んで睨みつける年下の男』の姿だ。もう絶対家には呼んでもらえないし、何なら二人きりになることさえ警戒されるかもしれない。詰んだ。完全に詰んだ。
「…………空却〜〜〜!」
「あ? なんだよ、大盛りにしてぇならてめぇでやれ!」
自分の分をよそい終え、空却もリビングへ戻ってしまった。美味しそうな匂いを漂わせるハヤシライスのルーを横目に、一郎は声にならない嘆きを零した。
「……一郎くん、男の子だなぁ……」
「はぁ? 何当たり前のこと言ってやがる、女なわけねぇだろ」
「そうじゃなくて。なんか、どきどき、したなぁと」
「……ほぉ〜?」
「うっわ、最悪なツラしてるじゃん……」
「拙僧が一つ言葉をくれてやる。『当たって砕けろ』ってな」
「それもう説法ですらないよね!?」
「ヒャハハ! とっととくっつけ阿呆ども!」