※共学設定
燻くんと出会ったのは、生徒会庶務に任命された時だ。
うちの生徒会は美形さん揃いだったから、並ぶのが恐れ多すぎて、いっつもみんなの三歩くらい後ろを歩いてた。
で、そしたらある時、迷子になった。衝撃的すぎた。迷子って、高校生にもなって迷子って。みんなに迷惑をかけるのが嫌で、情けなくて、うろうろと彷徨っていた私を、燻くんが見つけてくれた。
普段あんなに飄々としているのに、その時はすごく必死に、私の名前を呼んでいて。そんな張り詰めた声に、思わず泣いていた。
『ごめんなさい……っ、ごめん、なさい……!』
『……っ、はぁ……。水羽ちゃんがいないって気づいた時、心臓止まるかと思ったよ』
『ごめんなさい……』
『もう迷子にならないように……、罰として、手をつないでもらおうかな』
『えっ、あ、ええと、もう迷子になりません!』
『ごめん、嘘。僕がつなぎたいからつながせて』
『…………えっ?』
一瞬意味が判らなくて、反応が遅れた。そうこうしてる間に、私の手は燻くんの手に包まれていた。本当に心臓が止まりそうだったのかな、と思ったのは、彼の手がうっすらと汗ばんでいたからかもしれない。
それから沢山の日々を過ごした。好きで好きで仕方なかった。お揃いのアクセサリーがほしいってなって、どちらともなく指輪を指した時は笑った。
『これってプロポーズ?』
『ちょっと格好悪いから、今度仕切り直させて。というか、水羽にプロポーズなんてさせないよ。それは俺の役目』
『え、いいじゃん、私からしたって。あ、じゃあこうしよ、次燻くんがプロポーズしてきた時、上手く決まらなかったら、今度は私からプロポーズするってことで』
『決まらないこと前提にするのやめてくれないかな』
『ちょ、圧怖い! 怖いから!』
とりあえず今日のところは、と決めた指輪を、お互いの右手の薬指にした。左は、とっておきだ。
燻くんの瞳の色だからとガーネットを選んだら、燻くんも何だかムキになって、私の目の色にそっくりな石を探してた。結果、最早眼球なんじゃないかってくらい、そっくりな色の石になったんだっけ。
『燻くんへ
お元気ですか? こうして手紙を書くのも久しぶりだね。まあそのくらい忙しかったってことなんだけどさ。
念願の教師、しかも眉難高校の先生になることができた私でしたが、このたびなんと! 生徒会の顧問になりました!
なんていうか、すごい縁だよね。
今までは役員として走り回ってた生徒会室に、先生としているのはめちゃくちゃ変な感じだけど。でも、懐かしくて楽しいよ。
そうそう、今年の生徒会長、何だか草津先輩に似てるかもしれない。こう、真面目で融通利かなそうなところが。……いや、褒めてるから。でも草津先輩には内緒ね。
みんなすごくいい子だし、優秀だし、正直私の出る幕なくて困ってる(笑)。まあでも、楽しくやってるよ。
燻くんは、どうですか?』
書き上げた手紙にきちんと封をしてから、私は小さく頷いて。
ゴミ箱に入れた。
「あれ、まだ残ってたんですか?」
夕方、というより夜に近くなった時間。流石にもう誰もいないだろうと思いながら開けた生徒会室のドアの向こうに、宇奈月くんが立っていた。
私に声をかけながら、持っていたファイルを棚に戻す。
「それはこっちのセリフだよ。宇奈月くん、まだいたの? 早く帰らないと危ないよ」
「それは先生こそですよ。俺は男だからいいですけど、先生はか弱い女性なんですから」
「か弱いってほどか弱くないよ。まあ強くもないのは確かだけど」
こう改まって女性扱いされることなんてないから、地味に恥ずかしい。あはは、と茶化すように笑う。
「ほら、宇奈月くんも帰ろう?」
私が生徒会室を出ると、宇奈月くんもあっさり出た。校門まで向かうと、そこには外車が一台止まっていた。
「ああ、あれうちの車なんです。お送りしますよ」
「えっ、いや流石にそれは」
「いいですから、俺が安心できないだけ、なんでっ」
「へっ!?」
最後の一言と共に、ぐぐっと車内に押し込められた。降りようとしたそばから、宇奈月くんが隣に座ってきて、逃げ道を塞いだ。
「うぅ……いや、あの、本当にすみません……」
運転手さんに申し訳なくてペコペコしてたけど、「いいえ、わたくしも女性の一人歩きはいかがと思いますから」と優しく返してくれた。運転手さんかっこいい。
車が動き出すと、「すみません」と宇奈月くんが何やら謝ってきた。
「それは何に対する謝罪なのかな?」
「恋人と約束していたんだとしたら、邪魔してしまったなと思い直したんですよ」
「……別にいないよ?」
「嘘ですよね」
やけにはっきりと言い切った宇奈月くんから、思わず視線を逸らす。すっ、と右手が掬い上げられて、私は逸らした目をすぐに戻すことになった。宇奈月くんの指先が、私の右手を滑っていき、薬指で止まった。
「いつもこの指輪、大切にしてらっしゃるようだったんで」
「……鋭いなぁ」
「判りますよ、そのくらい」
にこ、と微笑まれて、小さく息を吐く。
「で、どんな人なんですか。先生の恋人」
「えぇ? それ聞く?」
「聞きますよ、先生の話は何でも聞きたいので」
「ううーん……えっと、紅茶淹れるのが上手」
「それは素敵ですね」
「でしょ? またサマになってるんだよね。で、いっつも飄々としてて……」
宇奈月くんがうんうん、って聞いてくれるから、私は燻くんとの出会いやら思い出やら、燻くんのことを片っ端から話した。話していくうちに、段々とあまり考えないようにしている部分に、自分が近づいていくのが判った。
「――本当に素敵な人なんですね。それじゃあ、いつか結婚されるんですか」
視界が、一瞬だけ点滅した。ゆっくりと俯くと、私は小さく首を横に振った。
「…………ううん、しないよ」
「どうして?」
宇奈月くんが、少しだけ顔を覗き込んできた。瞳に、とろりとした優しさが湛えられているような気がして、私は、今まで誰にも言ってこなかったことを、口にした。
「だって、燻くん、今どこにいるか判らないから」
「……それは、どういうこと?」
ぎゅうっと握り締めた手を、宇奈月くんが掬った。力を込めまくった指を、一本一本剥がしてくれる。
「急に連絡取れなくなったの。それで、家にも行ってみたんだけど、行き先は言えないけど、遠くに連れて行ったって言われて……」
私はすごく愚かだった。私と燻くんの間にあった格差に、気づかないフリをしていた。私と燻くんが、本当に結婚できると思い上がっていた。
あの日、燻くんの家に行ったあの日、私は自分が思っているよりもずっと、有馬家に歓迎されてなかったことを、知った。それから、もうずっと燻くんについて調べてない。知らない、知りたくない。
今の燻くんは、どこで誰と一緒に生きているかなんて。
「どのくらい、会ってないの?」
「…………もう、」
五年に、なる。
「……水羽さん」
宇奈月くんの声がして、はっとした。ダメだ、しっかりしろ先生!
「ごめん、何を語ってるんだろうね? 忘れ……てくれると有り難いけど、難しいだろうから、せめて内緒にしといて!」
上手いこと笑ってみせると、宇奈月くんは苦笑した。
「先生は、本当にいつも先生なんですね」
「当然でしょ。そこに生徒がいるなら、いつだって先生に変身するんだから」
「ということは、俺といる間は先生でしかいてくれないんですか?」
「それは……そう、だね」
「……困ったな」
何が?と聞き返そうとしたら、宇奈月くんは遮るように「一旦止めて」と運転手さんに声をかけた。
「少し歩くから」
「え、宇奈月くん、」
「行こう」
ぐいと手を引かれ、私はワタワタと車を降りた。
夜の公園はしんと静かで、アスレチックの鮮やかさだけがやけに賑々しかった。ベンチまで行くと、宇奈月くんは私を見つめた。
「ごめんね、こんなところまで連れてきて」
「びっくりはしてるけど……っていうか宇奈月くん、先生一応先生なんだけど」
「知ってるよ」
「じゃなくて敬語! 一応先生なんだって言ってるでしょ」
「そこで一応って言うのが水羽さんらしいな」
「ちょっと、宇奈月くん怒るよ」
「好きなんだ」
あまりにも普通に言われて、私は反応ができなかった。
「……なにが?」
ばかみたいだ、とは思ったけど、こう聞くしかなかった。声がみっともなく震える。たった三文字だってのに。
「水羽さんが好きなんだ」
「……どうして?」
「理由が必要なら、いくらでも」
違う、私は理由を聞くべきじゃない。毅然と、断らなくちゃいけない。
判っているのに、私は宇奈月くんが語る【理由】を聞いていた。
笑顔、声。話し方。真面目さ、ズボラさ。優しさに甘さ。
私が、【私】であること。
宇奈月くんの言葉は、じわじわと私を侵食していった。段々と冷静さも理性も姿を消し、子供みたいな心だけが残っている。
「……水羽さんは、俺に誑かされているんだ。だから、何も悪くない。悪くないよ」
「悪く、ない?」
「そう。悪いのは、弱ってるところに付け入る俺だからね」
ずっと怖かった。
いつ帰ってくるのか判らない燻くんを待ち続けることも、帰ってきたところで一緒にいられないかもしれないことも。
手紙だって、どこに送ればいいのか判らなくて、全部ゴミ箱へ入れ続けた。燻くんに一言も伝えられなかった。決定打を食らうのは怖いくせに、終わりを告げられなかったことが嫌だった。
それに、私はちゃんと知っていた。
紅茶の味も、あの日の呼ぶ声も、手の温度も、ムキになった横顔も、とっくに思い出せないことを。
「宇奈月、くん」
震える声で呼ぶと、宇奈月くんは私をそっと抱き寄せて、耳元で楽しそうに囁いた。
「大樹だよ、大樹」
「……本当に、私は、悪くない?」
「悪くないよ」
毒みたいだ、とギリギリ冷静な私が言う。
燻くんみたいに優しくて、そしてずっと甘い。甘くて、深い。多分、許してしまえば、私は二度と【正しい道】には帰って来られない。
「昔の男のことなんて忘れて、呼んでよ、水羽さん」
「…………」
私の何かしらかが観念した。多分、最後の支えを失った感じだ。
忘れてしまえれば、きっと。
「……――」
観念して、騙されたフリをして、私は、宇奈月くんの名前を。
呼ぼうとした。
「――昔の男になったつもりはないんだけど」
思い出せなかったはずの記憶は、一瞬で色と質量をまとって押し寄せた。
宇奈月くんの腕が私から離れる。……違う、離れてるのは私だ。ぐい、と後ろに引っ張られて、甘やかなぬくもりが遠くなる。間もなく別の温度に包まれて、私は頭が上手く回らなくなった。
「……どうして?」
「どうしてってことはないと思うんだけど、強いて言うなら上手いこと言いくるめてきたって感じかな」
五年も空いたくせにいつも通りな言い草に、どうしようもなく君を感じた。嗚呼、間違いない。
「ごめんね、時間かかりすぎた」