放課後、いつもだったら黒玉湯に向かうはずだったが、その日は偶々違っていた。ついさっきまでいた、由布院に鬼怒川、有基はとうにいない。
「イオー、今日行かねーの?」
「リュウこそ行かないんですか? 先輩方もユモトも、もう行ってしまいましたよ」
 メッセのやり取りをしていたスマホから目線を上げると、鳴子も同じようにタブレットから目を離し、蔵王を見ていた。
 んー、と唸ると、蔵王はゆるく頭を振った。別に何か用があるわけではないし、落ち込んでいるわけでもないけれど、何となく気分じゃない。
「……そうですか。……まあ、私も今日は、何となく気分ではないので」
 ぴたりと合った答えに、目を数度瞬かせたあと、唇が綻んだ。急な笑みに、鳴子も数度瞬く。
「……あ、わり。俺も今日気分じゃねーんだよなって思ってたから、」
 ――嬉しくて。
 は、飲み込んだ。
「……驚いてさ」
「そうですか」
「イオ、さっきから同じことしか言ってねーしっ」
「そうです……って、本当ですね」
 零れたように滲んだ苦笑に、ふっと目を奪われる。だが、どうにか気づかれないうちに逸らすと、蔵王は鞄を手に取った。
「じゃあさ、今日は俺と出かけね? 俺、ちょっとイオと行きてー店あるんだよ!」
 なんてことのない誘いなはずなのに、女の子を誘うよりずっと心臓が暴れた。気の遠くなりそうな沈黙――実際には数秒だったのだろうが――の後、鳴子は「いいですよ」と立ち上がった。
「私も、リュウに付き合ってほしいところがあったので」
「……マジ? よっしゃ、なら早く行こうぜっ、イオ!」
 跳ねるようにドアを開けると、ひと足先に部室を飛び出す。
 その後ろで、鳴子の表情が安堵したようにゆるんだことは、まだ知らない。