ぱちり、と目を覚ますと、和倉は辺りを見回した。景色は変わっていない、ということは、残念ながら夢ではなかったらしい。
 のろのろと立ち上がり、ドアノブに手をかけると、あっさりとドアが開いた。ちらっと見た限り、知らない道ではなさそうだった。
 ベッドまで戻ると、道後が赤い目で見上げていた。そう言えば手首を縛ったままだったと気づいて、しゅるりと解く。暫くぶりの自由を手にしたというのに、道後は一切動かなかった。ただ、黙って和倉を見つめてまばたきするだけだ。
 視線を逸らすと、和倉はあえて道後に背を向けた。
「少しシャワーを浴びてきます。君もあとでどうぞ」
「……」
 返事はない。
 道後と探索したバスルームへ辿り着くと、蛇口を捻った。お湯は少し熱すぎるくらいだったが、水を足すこともなく、ただ浴び続ける。
「……っ……」
 ぽたり、と涙が落ちて、慌てて拭った。ダメだ、泣くな。泣きたいのは道後の方だろうに、自分が泣くなんて、ダメだ。
 そう思えば思うほど、涙が止まらなかった。

 初恋は、今日を持って永遠に失われた。

 流しっぱなしのお湯は、あらゆる音をかき消している。和倉の声も、外にいる道後の音も、何一つ聞こえなかった。
「……いちろ、くん」
 ごめんなさい、なんて今更言えないから。
 内腿を伝った【何か】が流れていくのを感じながら、和倉は蹲って泣いた。



 バスルームの横に置かれていたタオルで体を拭き、制服に改めて袖を通してから、ベッドが置かれた部屋へ戻った。
 道後は相変わらずベッドにいたが、とりあえず起き上がってはいた。和倉と違って、上は脱いでいなかったから、涙と汗でぐしょぐしょになってしまっている。
「……バスルームのところに一応着替えがあったので、気にならなければ着てください。洗濯乾燥機もあったので、洗うこともできると思います。僕は先にお暇しますから、ゆっくり帰ってくださいね」
「七緒先輩」
 言うだけ言って逃げようとしたのはバレバレだったようで、道後の固い声に呼ばれた。無視したってよかったんだろうけど、そんなことは今できそうにない。
「待っててください」
「……はい」
 引導を渡してくれるらしい。何て親切で残酷で、自業自得なことだろう。
 ベッドに座った数十分間が、あまりにも長くて、死んでしまった方がマシな気がした。
「……お待たせ、しました」
「……いえ」
 ぽす、と隣に座られて、和倉の肩がぴくりと震えた。僅かに距離を取るとその分を詰められて、益々逃げ場がなくなった。
「……俺、聞きたいことがあるんですけど」
「何でしょう」
「……なんで、こんなことしたんですか」
 そう来るだろうな、とは思っていた。
 和倉は短く息を吐くと、唇を歪めた。
「別に理由なんてありませんよ。ただ、早くこんな部屋から出たかっただけです」
「……」
 多分、今道後の為にできることは、優しい彼が一厘の躊躇いもなく自分を嫌えるように振る舞うことだけだ。
「君が中々その気になってくれないので、随分と時間を無駄にしてしまいました。まあ、でも、中々悪くはなかったと思いますよ。及第点です」
「……」
「……まだ、何か。ないなら帰りますけど」
 じっと見つめてくる視線に耐えきれず、終わりのセリフを促してみせると、道後は目を逸らさないまま呟いた。
「うそ、ですよね」
 信じたくなくて、というよりも、嘘だと確信しているような口ぶりだった。思わず反応が遅れると、追撃するように「もし、」と続いた。

「ほんとなら、どうして俺に好きって言ったんですか」

「……え?」
「先輩、言いましたよね。好き、って」
「冗談、でしょう?」
「冗談じゃないです」
 思考の一切が停止した。
 そんなはずはない、だってこの言葉はもう一生飲み込んでいこうと決めたのだから。だって、でも、なら、いつ?
「七緒先輩、もう一個だけ聞きたいことがあるんです」
「……」
「七緒先輩は俺のこと、好き、ですか?」
 言わなくちゃ。別にそんなことないですよ、とか、こう言っておけば大事に抱いてもらえるかなって思っただけです、とか言えば、きっと嫌ってくれるから。
「………………はい……」
 そう頭では判っていても、心がついて来なかった。
 小さく零れ落ちた返事と一緒に、涙まで落ちてきて、慌てて手で覆って隠した。
 けれど、その手を柔らかく取られてしまい、泣き顔のまま道後を見た。
「……えへへっ、よかったぁ」
 瞳の縁に雫を湛えて、道後が笑った。
 零れる涙を拭いもせずに見つめていると、あわあわしながらもう片方の手で拭われた。力加減が雑で正直痛かったけれども、やけに幸せだった。
「俺、七緒先輩が何でこんなことするんだろって考えたんですけど、判んなくって。早く出たいからかなって、そんな理由で俺とせ……セックス、していいのかなって、思って」
 涙をせっせと拭いながら、道後は話し続ける。
「そしたら、七緒先輩が好きって言ってくれた気がして。……七緒先輩、俺のこと好きなのかな、こーなったのは成り行きだけど、でもでもでも、俺とシたくてシてるのかなって思ったら……、何かすごいぐわーってきて……あの、最後、すいませんでした……」
「…………」
 何だ、それ。
 瞼が開かなくなる寸前まで開いていくのが判った。何だそれ、何だそれ。
 そんなの、まるで。
「……僕が君を好きだったら、いいみたいじゃないですか……」
「え? いいっすよ?」
「……はぁ?」
 ぱちぱちとまばたくと、残っていた涙がいくつか落ちていった。涙を拭っていた手をぺたりと頬に置くと、道後は至極真面目な目で言う。
「だってだってだって、俺、ずっと七緒先輩はここから出る為に、好きでも何でもない、ただの後輩の俺とシてるんだって思ってたから、何か申し訳なくて辛くてやだったんです。でも、もし俺のこと好きでシてたなら、それって両思いってことじゃないっすか?」
「え?」
「あれ?」
 何か噛み合わないぞ、と言わんばかりに首を傾げた道後は、不意に「あーっ!」と大声を上げた。
「そっか、俺まだ七緒先輩に好きって言ってない!」
「……え」
「ってあーっ! 今の! 今のノーカンで! ちゃんと言うんで!」
「…………ふっ」
「へっ」
「……ふふっ……ははっ……」
「そ、そんなに笑わ、」
 言葉が不自然に途切れた。
 止まっていたはずの涙が、ぽたりと落ちて、もう今度は止まりそうになかった。しゃくり上げて泣いていると、道後の手がそろそろと背中に回る。
 ぽん、ぽん、と恐る恐る撫でてくれる手が優しくて、また泣けてきた。
「ひっ……くっ……、いちろ、くん……一六くん……」
 遠慮がちにしがみつけば、弱かった力がきゅうっと込められて、距離が縮まった。
「七緒先輩」
 至近距離で見つめた瞳は、恥ずかしそうで、でもあったかくて柔らかいもので満ちているのが判った。
「俺、七緒先輩が好きです」
「…………僕も、……好き、です……」
「っ……あ……」
 ぱっと目を逸らさせ、何だろうと視界の中へ入ると、また逸らされた。
「……何で逃げるんですか」
 少し膨れてみせると、道後はやっぱり目を合わせないまま、髪を少しだけ掻いた。
「えっとえっとえっと……な、なんか、その……。さ、さっきと同じ顔で言うんで、なんか、ちょっと……、」
 思い出したというか。
 首筋まで真っ赤になった道後は、意味が判ったことを判ったのか、はっとした顔をしてから捲し立てた。
「や、へ、変ですよね! 俺、ちょっと前まで男同士でできる方法があるかどうかも判んなかったのに! 何かこう、どきどきしてるっつーか、またシたいなーとか、……えっ!? いやあの、そうじゃなくて! まあ両思いならいいのかなーって、そうでもなくて!」
「……なるほど?」
「うわーっ、違うんですー!」
 うう、と俯く道後の肩を叩くと、少しだけ視線が上がった。無意識だとは思うが、可愛らしい上目遣いに、今からしようとしている提案の恥ずかしさを思い知る。
「……えっと。あの、一六くんに提案があるんですけど」
「はい……?」
「………………なら、いいんじゃないですか」
「え?」
「だから……っ」
 熱い。
 ぎゅっと手を握りしめ、睨むように見つめると、一息で放った。
「恋人同士ならそういうこと思ってもいいんじゃないですかって言いました」
「……恋人、同士………………え、え、えーっ!?」
「そんなに嫌がらなくても」
「い、嫌とかじゃなくて! え、マジで、マジでマジでマジで、七緒先輩、俺と、こっ、恋人、同士してくれるんですか!?」
「恋人同士するって何ですか」
「えっ、いや、これ夢かもしんない、ちょっと思いっきりほっぺ叩いてみるんでちょっと待っててください!」
「いやいや君の思い切り、思い切りすぎそうで怖いんでやめてください」
 代わりに手を伸ばして、柔らかい頬をぐいーっと伸ばしてやると、やけに広がった口で「いひゃいっす……ってころは、これうえじゃない!?」と叫んでいた。
「夢、じゃない……ですよね。……ちょっと一六くん、僕の頬も引っ張ってもらえますか」
「えっ!? そんな、七緒先輩のほっぺを!」
「もっと凄いことしちゃったんですしそのくらい簡単でしょう、さあ」
「じゃ、じゃあ失礼します……!」
 そろそろと伸びてきた手が、頬に触れる。遠慮がちに引き伸ばされ、これ何してるんだろうなとふと冷静になった。
「……ふくっ、七緒先輩、変な顔っす……」
「君がやってるんじゃないですか……仕返しです」
「う、うわっ!?」
 飛びついてくすぐってやると、げらげら笑いながら「ギブ! ギブアップです!」とベッドをばしばし叩いていた。
「はぁー……、何か、疲れましたね」
「ですねー……、あ、黒玉湯! 黒玉湯寄りましょ!」
「正気ですか」
「えっ」
 多分道後のことだから、このあと和倉が目の前で脱いだらとんでもないことになりそうだけど。
 まあ、本人気づいてないし、いっか。
「……いいですよ、行きましょう」
 ベッドから降りると、カラの手を道後へ伸ばす。一瞬きょとんとした道後は、すぐに意図を汲んでくれたらしくて、そっと指先が絡んだ。