道後が部室に着くと、そこにはまだ誰もいなかった。椅子に座ると、横に置いた鞄から一枚の板チョコを取り出した。
 これはお昼に購買の人から、いつもありがとうね、と渡されたものだった。本当は持って帰るつもりだったのだが、まだ誰も来そうにないし、お腹はすいてきたし食べてしまおうと思い立ったわけだ。
 包装を剥がすと、薄茶色のチョコレートが顔を覗かせ、ほのかに甘い匂いが漂う。ごくり、と唾を飲み込むと、あーっと大口を開けた。
「こんにちは。……おや」
「あっ」
 ……その瞬間に、和倉がドアを開けた。大口を開いた何とも間抜けな顔をじっと見つめられ、道後は真っ赤な顔で慌ててチョコレートを下ろした。
「あの、えっとえっとえっと! これ、あのもらったんです! で、でも一枚しかないし、今お腹すいてきたんであのすいません!」
「君は何を謝ってるんですか。別に咎めてはいませんよ」
 苦笑いを浮かべられ、益々恥ずかしくなる。
「それに、それ今から戻せないでしょう? 早目に食べてしまった方がいいと思いますけど」
「あ、で、ですよね! いただきます!」
 大慌てでチョコレートに齧りつくと、よく知った甘い味がして、思わず目を細めた。
「あんまーい……!」
「……ふふっ、美味しそうに食べますね」
「はいっ、超超超美味いです!」
「そうですか」
 和倉がお茶の支度を始めた横で、ぱくぱくとチョコレートを食べ進めていく。元々そんなに大きいわけではない板チョコだ、あっという間になくなる。ぱくん、と最後の一列を口に入れた時、背を向けた和倉が「一六くん」と呼んだ。
「僕にも分けてくれませんか、チョコレート」
「えっ!? す、すいません、今最後の食べちゃいました……」
 ひと足遅かった。もっと早く言ってくれれば、とは思うけれど、やっぱ食べたくなることってあるよな、と納得する。今度板チョコ買ってこよう、と決心していると和倉が振り向いた。
「そうでしたか」
 すっと指が顎にかけられ、戸惑う間もなく口づけられた。しかも、触れ合うだけの優しいものではなく、味わうような深いものを。
 見開いた瞳に、和倉の表情はぼやけてよく見えない。舌先を、息を、残っていた甘味を絡め取られ、くらくらしてきた。
「……ふふ、ごちそうさまでした」
「あ……、え……?」
「美味しかったですよ、チョコレート」
 にこり、と笑った顔はいつも通りで、混乱と熱がじわじわと回っていく。正解もヒントも答えも出してくれないまま、部室にはいつもの面子が集まってしまい、結局真意は聞けずじまいだった。








「こんにちは、お邪魔します」
「どうぞっす!」
 今日は、道後の家に和倉が遊びに来た。いつもは和倉の家に行くことが多いから、こうして自宅に和倉がいる、というのは新鮮な感じだ。
 ひとまずお茶だけ用意してから部屋へ向かうと、和倉が待っていた。テキトーに座ってください、と促してから、道後は机にお盆を置いた。
「そうそう、これ、手土産です。よければご家族で食べてください」
「えっ、そんなわざわざ! ありがとうございます、みんなすげすげすげー喜びます!」
 差し出された紙袋は高級そうな気配がして、意味もなく緊張した。いつも手ぶらな道後だから、こういう気配りに「流石七緒先輩……!」と更なる尊敬を禁じ得ない。
「あ、一応二つ買ってきたので、今一つ食べませんか?」
「え、いいんですか!? じゃ、こっちだけ置いてきちゃいますね!」
 袋に入っていたうちの一つを机に置くと、残りをリビングへ置きに行った。ダッシュで戻ると、丁度和倉が包装を剥がしたところだった。
「うわうわうわ〜! すげーきれーなチョコっすね!」
「はい。ここのチョコレートは、飾りつけが綺麗で気に入っているんです」
「美味そう……一個いいですか!?」
「一つと言わず、沢山……と言っても限りはありますが、まあ好きなだけ食べてください」
 軽やかに笑いながら促され、一つを手に取った。粒の割に重ためのチョコレートを口に運べば、いつも食べるチョコレートとは全く違う味がした。知っているのに、まるで違う食べ物みたいだ。
「…………!」
「ふふっ、流石の一六くんも黙らせてしまうとは恐れ入りますね」
「え、だってだってだって! 何かよく判んないっすけど、これめちゃくちゃ美味いです!」
「そうですか。それは買ってきた甲斐がありました」
 美味しくて、ついぱくぱく食べてしまいたくなるけれど、そこは堪えて味わって食べる。多分、これは滅多に食べられる味じゃない。多分、いや絶対。少なくとも自力で買いに行く感じじゃない。
 そんな必死さがにじみ出ていたのか、和倉が笑いを噛み殺すような表情を浮かべていた。ちょっと、恥ずかしい。
 最後の一つを口に入れた時、和倉のまとう雰囲気が変わった。もしやこのチョコレートを狙っていたのか、と慌てて謝ろうとすると、腕を引かれた。
「七緒せ、っ!?」
 少しだけ開いていた唇に、和倉の舌が這入ってきた。二人分の熱にチョコレートがあっという間に溶けて、していたはずの甘さが遠くなる。
 ちゅ、と音を立てて離すと、和倉は自分の唇を舐めた。その姿があまりにも扇情的で、ごくりと喉を鳴らしてしまった。
「甘い、ですね?」
「は……い……」
 無意識で頷くと、和倉を見つめる。ふらふらと手を伸ばせば、笑みを浮かべながら取られた。








 今日のお茶菓子は何ですか?と聞くのは、霧島の役目だ。別に誰がそう決めたわけでも、ましてや本人がそう言ったわけでもないけれど、なぜかそうなのだ。
 そんなわけで、今日も今日とて霧島は和倉に尋ねた。
「和倉先輩、今日のお茶菓子は何ですか?」
「龍馬くんには教えてあげません」
「えぇっ!?」
「嘘ですよ。今日は、太子くんが持ってきてくれたチョコレートです」
 とん、と机の上に置かれたチョコレートの箱を見て、道後は少しだけそわっとしてしまった。何だろう今の、と思う間もなく、霧島が「チョコレート!」と嬉しそうに瞳を輝かせた。
「太子が持ってきてくれたの?」
「はい。親が中々の箱数をもらってきたので」
「そうなんだ! じゃあ開けちゃいますね!」
 霧島がいそいそと箱を開けると、チョコレートの甘い香りがふわっと漂った。真っ先に霧島が手を伸ばし、ついで修善寺、万座、和倉とチョコレートを食べていく中、道後はじっとしていた。いつもなら一番を霧島と争っているはずなのに、と不思議に思ったようで、万座が顔を覗き込んできた。
「どうした? これ、お前も好きなやつだろ」
「えっ!? あー、うん。そう、だよな……」
 霧島は初めて見たらしいが、道後は知っているチョコレートだった。万座の家に行くとよく出してもらっていて、気に入っているものだ。ある程度は自分たちで消化できてしまうはずだから、持ってくるなんて余程の箱数だったのだろう。なんて、現実逃避を交える。
「……もしかして、どこか体調でも悪いのか?」
「……あっ、そうかも! そう言われてみれば何か頭とか!」
「つまり、頭が悪いと」
「違う違う違う! 悪いのは体調で頭じゃない! 別によくはないけど悪くもねーし!」
「いや、悪いだろ」
「だーかーらーっ!」
 そっぽを向くと、とりあえず問題ないとは思ってくれたらしい。また全員の輪に戻っていくのを見送ってから、道後はこっそりため息をついた。恐る恐る一粒取って口に入れたが、ただのチョコレートの味だ、何てこともない。
 はず、なのに。
「ねぇねぇ! ボクもチョコレート食べたーい!」
「え、カワウソってチョコレート食べていいの?」
「カワウソじゃなくて王子さまなんだってば!」
「でも、体はカワウソでしょ。これでカルが死んだりしたら寝覚め悪いんだけど」
「鏡太郎の【寝覚めが悪い】は相当レアだね」
「そうかも。いつも、どんな時に寝ても快眠だし」
「そう言えば、近頃では本来の言葉である【寝覚めが悪い】ではなく、【目覚めが悪い】という誤った言葉が広まっているようですね。目覚めというのは、眠りから覚めること自体を指す言葉であり、悪事を働くとよく眠れなくなる、などの意味を持つこの言葉には適していません」
「へぇ、流石太子」
 いつも通りのやり取りを繰り広げている隙に、カルルスがチョコレートを取り、食べていた。
「美味しい〜! これ美味しいね!」
「あっカルルス食べてる! どうしよ、動物病院でいいのかな!? まずは吐かせた方がいい!?」
「落ち着いてください霧島先輩、まだ生きてます」
「まだって何それ、ボク死なないよ!?」
「まあ生きてるなら、いつかは死ぬんだよね。カルだけじゃなくて、俺たちも」
「あの、そんなこの世の真理みたいな話してましたっけ」
 三人と一匹が話しているのを見ていると、小さく「一六くん」と呼ばれた。口の中のチョコレートを飲み込むと、顔を向ける。
 ふに、と唇が合わさった。
 こんな、いつ誰が気づくかも判らない部室の中で。
 口を閉じていたおかげなのか、それとも流石にそこまではする気がなかったのか、深いキスにはならなかった。が、唇を離す寸前にぺろりと舐められ、思わず唇を開いてしまいそうになった。
「っっっ!」
 勢いよく立ち上がると、カルルスと話していた三人の目が、一斉にこちらへ戻ってきた。沸騰しかかった顔を見て、「和倉に何かされたらしい」ということだけは判ってくれたようで、霧島が大いに苦笑いした。
「和倉先輩、一六であんまり遊ばないであげてください」
「別に遊んでなんかないですよ。ねぇ、」
 和倉がこちらを見つめて、かたんと小首を傾げた。
「一六くん」
 柔らかな、つやつやとした唇が名前を紡ぐ。返事をしなきゃ、と思うよりも先に、道後は部室から飛び出していた。
 走って、走って、走って。息が切れても、足が痛くても走り続け、家の中に駆け込んだ。幸いなことに家族は不在で、漸く満足に酸素を吸う。
「……あ、鞄忘れた」
 取りに行くべきなんだろうけれど、というより、取りに行かないとダメなんだけれど、行きたくない。行けない。何も言わずに飛び出してしまった以上、事情の説明は必至だ。
「ムリムリムリ……!」
 呟くように唸ると、玄関にへたり込む。――チャイムが鳴ったのは、その瞬間だった。
 反射的にドアを開けると、そこには和倉が立っていた。
「一六くん、誰が来たのか確認してから開けるくせをつけた方がいいと思いますよ」
「っ、きゃーっ!?」
「こらこら、閉め出さないでください」
 更に反射的にドアを閉めようとしたら、がっと押さえられた。あちこち動かした視線の先に、ふと見慣れた鞄が目に入った。どうやら、鞄を持ってきてくれたらしい。
「あ、ありがとうございます……」
「いえいえ。……上がっても?」
「あ……えっと……、はい」
 小さく頷くと、和倉が家に入ってきた。お茶出さないと、とコップを出す。
「さっきはすみません、少しからかいすぎましたよね」
 和倉がいるリビングから声がする。本題はこっちか、と大きく息をついてから「ほんとですよ!」と叫ぶ。
「俺、誰かに見られたらどうしようって、めちゃくちゃぐるぐるしたんすから!」
「すみません、つい。お詫びにお菓子買ってきましたから、機嫌直してください」
「お菓子! ……って!」
 子供扱いして、とぷんすかした気分でリビングに戻る。
「俺、お菓子くらいで許したり……しな……い……」
 声が段々と消えていく。リビングのテーブルに置かれたお菓子――チョコレートの箱を、見て。
「え……」
「……おや、どうしましたか? チョコレート、好きですよね?」
「……えっと……」
 戸惑う道後をよそに、和倉は包装を綺麗に剥がした。僅かに甘い匂いがして、視界が眩み出す。
「食べないんですか?」
「……いただき、ます」
 本当に具合が悪いのかもしれない、とは思いながらも、すとんと横に座るとチョコレートを一つ取った。そっと口に含めば、甘い甘いチョコレートの味がする――そう、当たり前のことだ。何も特別なことなんかじゃない。
 なのに、どうして。
「……何だか顔が赤いですよ」
「ひゃっ!?」
 さっきよりもずっと近くに和倉の顔があって、情けない声が出た。逃げようにも力が入らなくて、どうしようもない。打つ手のないまま、和倉が微笑んだ。
「どうしたんですか、一六くん」
「……判り、ません……。俺、チョコ食べてると……何か……何か……その……」
「……キス、したくなっちゃいましたか?」
「っ!?」
 はっきりと核心をつかれ、全身の血が沸騰するような感じがした。返事、というか何かしらを口に出すよりも早く、唇が重なる。部室でのものとは違う、深いキスだ。ひたすらに甘くて甘くて、これはチョコレートの甘さなのか、それとも和倉が持つ甘さのか判らなくなっていく。
 散々に味わい尽くしてから、和倉の唇が離れる。
「美味しいですね、……チョコレート」
「……」
「僕も食べたいなぁ。食べさせてくれますか?」
 すい、と口元にチョコレートを差し出される。多分これは、「あーん」すればいいとか、そんな生易しい意味ではない。
 そろそろと唇を開くと、チョコレートを半分ほど咥える。ゆっくり視線を上げれば、和倉がうっとりと微笑んだ。
「……いい子ですね」
 残り半分のチョコレートごと食らいつくようにキスをされ、呼吸が苦しくなる。息が上手くできないのに、甘さだけは十二分にあって、何だか変になりそうだ。
「……ふふっ、物足りない顔」
「七緒、先輩……」
 手を伸ばして、絡みつくように抱きしめてから再び口づける。もっともっともっと、どこまでも、この甘さと熱と柔らかさを味わっていたい。ふは、と息を一瞬だけ整えると、また口づけて。何度でも、繰り返す。
「っ、あつく、ないですか?」
「……あつい、です」
 ネクタイをわざとらしく緩めると、道後の方へ手を差し出す。まるで誘い込まれているみたいだ、と判っていたけれど、そんなことはどうだってよかった。
 ただ、目の前の【チョコレート】を心の底から欲していたから。








「ねぇ一六くん、【パブロフの犬】って知ってますか?」
 隣で寝転ぶ和倉からそう聞かれ、道後は「え」と考えた。
「し、知らないですけど……。パブロフさんちの犬の話ですか? 何か感動系の話とか?」
「いえ、まあ知らないだろうなと思って聞いたんですけど」
「んん?」
 じゃあ何で聞いてきたんだろう、と首を傾げていると、和倉がふふっと笑った。
「僕も暫くチョコレートは食べたくないなぁ」