湯気が、ゆらりと揺れた。
元々目が悪い鬼怒川にとって、眼鏡を外さなければならない風呂場は、うっすらとしか見えない。更にそこへ湯気が入ってくるのだから、どうしたって視界不良な感じは否めない。ただ、それが嫌だというわけではない。寧ろ好ましいとさえ思っている。普段の生活で、ここまで見えなかったら、感じるのはただの不安だ。でも、風呂だったら普通のことで。
裸眼でいることに恐怖のようなものを感じずにいられる、特別な場所――のような気がする。
薄く白い視界の外、すぐ隣からいつもの通り、由布院が口を開いた。
「すごかったな」
「え、何が?」
「いやぁ、まさか俺たちがあんなことになって、生徒会とVEPPerがああなるとはな」
「ねぇ煙ちゃん、本当に何の話してんの、っていうか俺たちと錦ちゃんたちに何が起きたの」
「仕方ねぇだろ、ここは時空の歪みなんだよ」
「時空の歪みって何」
「これを読むタイミング次第で、俺たちは未来にも過去にもされるってことだよ。よくあっただろ、時空の歪み放送」
「いやないし、だから時空の歪みって何!?」
「そういや、俺ちょっと考えてることがあるんだけど」
「俺が今一番考えてるのは煙ちゃんの発言だけど、なに煙ちゃん」
 多分議題を戻す気はないだろう、と踏んで普通に返す。気になるけども、時空の歪み。
「おせちってさぁ……、微妙じゃね?」
「微妙って?」
「何つうか、嫌いなものしかないわけじゃねぇけど、微妙にテンション上がらないというか。嬉々として食べるのは栗きんとんと黒豆くらいで、あとは気まぐれに箸をつけるのみ。同じ重箱でも、運動会の弁当とおせちじゃ雲泥の差があるよな」
「煙ちゃんの家、お重持ってきてたの?」
「いや? 何となくイメージ。いねぇ? 運動会に重箱で来られて食べすぎて、午後は腹押さえて走ってる奴」
「それは切ないね……」
 ざぶ、と鬼怒川がお湯を被ると同時に、鳴子と蔵王が入ってきた。
「ういっすー、何の話っすか?」
「外まで聞こえていましたよ」
 不思議そうな蔵王と、苦笑ぎみの鳴子に、現在の議題を伝える。体を洗いながら、鳴子は「そうですね、」と答えた。
「実家に戻ると用意されている、以上の感情は特に。もし今年からなくす、と言われたとしても、さしたるダメージはないです」
「マジ? 俺は割と好きだけどなー、おせち」
 蔵王は髪を濯ぐと、鳴子に倣うように体を洗い出した。水音が止み、声がクリアに聞こえるようになったところで、由布院が驚いたように声を上げた。
「え、まさかのおせち肯定派?」
「肯定派って何すか。別に不味くねーし、一個一個の意味判ってると、女の子からのウケいいし!」
「やはりそういうことでしたか」
 呆れたような、知っていたような。
 鳴子と蔵王も湯船に入ると、今度は随分と勢いよく戸が開いた。と言っても、バーン!というわけではなく、戸が壁にぶつかる寸前で勢いを殺しているから、シュンッという感じだ。
「俺も好きっす、おせち!」
「なに、ユモトも聞いてたわけ?」
「うっす。ずーっと混ざりたくてうずうずしてたっす」
 さっきまで、番台の仕事をしていたはずの有基が入ってきた。
 手早く体を洗うと、勢いよく――と見せかけて、そっと湯船に飛び込んできた。最早飛び込むという言葉も、微妙に違う気がしないでもないくらいの勢いだ。
「で、ユモトはおせち好きなの?」
「好きっす。なんかこう、お正月!って感じして。それに、あんちゃんの作るご飯は、何でも美味いっすから!」
「愛だねぇ」
 何となく劣勢のおせちに、有基はぐっと眉を寄せた。
 おせちは楽しい。一年に一回しか出てこないし、大きな重箱をつつくのもわくわくする。生まれてこの方、強羅の作るおせち一筋で来た有基は、おせちが美味しくないことがなかった。
 そこまで考えた時、ぱっとひらめいてしまった。
「みんな、あんちゃんのおせち食べればいいんだ!」
「……ん?」
「そしたら、おせち好きになるっすよ! 俺、あんちゃんのとこ行って来るっす!」
 ざばっと立ち上がると、有基は今度こそ、凄い勢いですっ飛んでいった。
 取り残された四人は、少々思考停止していたが、はっと我に返った。
「いや待て待て、おせちってそんなすぐできるもんじゃねぇだろ」
「う、うん。用意結構大変だよ」
「でも、ユモトが言ったら何とかしようとしてくださるのでは?」
「…………やべー!」
 強羅への負担が大きすぎる。鳴子が言った通り、有基が「あんちゃんお願い!」と言ったら、何かしらの手を打ってくれようとするかもしれない。四人は立ち上がると、湯船から上がった。
「本気で準備される前に止めねぇとな」
「そうだね。また来年、お邪魔させてもらおうよ」
「来年もここに、集まればいいんですよね」
「ってか勝手に集まってんじゃねー? またいる、的な」
 意識してしまえば、気恥ずかしくなってしまうような約束を交わし、四人は脱衣場へ駆け込んだ。



「……間に合うと思ってた頃が、俺たちにもあったな」
「……そう、だね」
 正直甘く見ていた。
 身支度の最速記録を叩き出し、箱根兄弟のもとへ向かうと、既に強羅は、おせちを用意していた。企業もびっくりの早業である。「時間がなくて一の重だけだが……」と恐縮されたが、こっちが恐縮だ。というか、なんて無茶やってのけるんだ。
「さ、食べるっす!」
 有基が箸を配る。ぱちりと手を合わせて、一言。
『いただきます!』
「ああ、沢山食べてくれ」
 どれを取ろう、と箸を片手に、重箱へ目を走らせた。一番目立つところに、大きな海老フライが鎮座している。
「……海老フライ?」
 鬼怒川は思わず呟いてしまった。
 よくよく見れば、ごぼうたたきではなく、きんぴらが入っていたり、花の形に切られたかまぼこがあったり、ちょっとしたアレンジが加えられている。ただ、それだけではなくて、黒豆や栗きんとんなど、そのままのものもある。
 ふと、有基が強羅のご飯は何でも美味しい、と力説していたことを思い出した。
「……なるほどねぇ」
 由布院も判ったようで、小さく苦笑した。これは美味しいはずだ。
 さっさと食べ始めていた蔵王が、「おっ」と声を上げた。
「この玉子焼きすげー美味い!」
「栗きんとん、甘すぎなくていいですね」
 ゆるりと笑う鳴子に続いて、有基もいつも通り楽しそうに、色々なものを食べている。
 三人に倣うように、由布院と鬼怒川も箸をつけた。
「アツシー、海老フライ取って」
「もう一本食べたでしょ。……強羅さん、このきんぴら、あとで作り方教えてもらえませんか?」
 強羅が「勿論」と答えると、有基は目を輝かせた。
「そしたら、アツシ先輩もあんちゃんのきんぴら、作れるようになるんすか? すっげー!」
「アツシの女子力がまた上がると」
「女子力言うな、偏見だろそれ」
「っていうかセクハラ?」
「鬼怒川先輩、訴訟を起こすなら協力しますよ」
「待て待て、急な仲間外れはやめろ」
「え、宣言すればいいの?」
「アツシさん」
 おせちは楽しい。強羅の作るおせちは美味しいから、というのも勿論あるけれど、もうひとつ。
 またこうして、【今年】を過ごせるという、約束な気がするから。
 いつもよりも賑やかな食卓を見つめ、有基は大きく頷いた。
「やっぱり、おせち好きっす!」