羨ましかった。
 だから僕は、純粋で、まだ何色にも染まっていない君に呪いをかけた。



 ちら、と時計を確認してから、和倉は席を立った。
「すみません、お先に失礼します」
「えぇーっ! 今日ももう帰っちゃうんですかっ?」
「一六。おうちの事情なんだから、仕方ないでしょ?」
 霧島に宥められ、不服そうな表情をいくらか緩和させると、道後は和倉を見つめた。
 月に一度、和倉は一週間ほど家庭の事情で少し早く帰る。これは万座や道後だけではなく、修善寺や霧島が入部する以前からのことだ。すっかり慣れてしまっている二年生組と万座に対し、道後はいつまで経っても全く納得してくれない。まるで子供だ。
「明日も学校なんですから、どうせすぐ会えますよ?」
「それはそうっすけどー……」
「そんなに言うなら、今日はもう少し居残りしてもいいですけど」
「マジっすか!」
「その代わり、明日は僕に会いに来ないでくださいね」
「えっ!? そ、そんなのやです!」
「はい、じゃあまた明日」
「えっ、あっ、は、はい……また、明日……」
 ぷくっと頬を膨らませる姿が可愛らしくて、軽やかに笑う。ドS、と呟いたのは恐らく万座だろう。にこ、と微笑みかけるといかにも気まずそうに目を逸らされた。
 眠っていたはずの修善寺に「家まで気をつけてください」と見送られ、和倉は部室を出た。廊下を抜け、校門を過ぎ、足早に帰路へ着く。
 鍵を開け、家に入ると同時に、くらりと視界が揺らいだ。どうにか鍵は閉めたが、和倉はすぐに玄関へ膝をついてしまった。しん、と静かな家の中に、荒い呼吸が響く。
「……っ、あ……ぁ……っ」
 家庭の事情、なんて便利な言葉だろう。言われてしまえば何事も強制しづらくなり、確実に【逃げ切れる】。
 ふらふらと立ち上がると、自室へ移動した。やけに熱くて、汗が滲む。震える体を抱きしめるように両腕を交差させ、それぞれの腕に爪を立てた。
 容姿端麗、成績優秀。人当たりもよく親しみやすさもあるが、時々人をからかう悪癖がある。特に、同じ防衛部部員には中々当たりの強い面子がいて、「意地悪が過ぎるのでは」と苦笑されるほどだ。
 でも、本当は誰よりも部員のことを見ていて、支えてくれて。優しくて、強くて、大人っぽくて、かっこいい和倉は――Ωだった。
 その【性】を知ったのは、小学生の時だ。男女の体の違いがはっきりし出した頃、先生に呼び出された教室で、とんでもない【授業】を受けたことがきっかけだった。
 要約するならば、『君たちはとても数の少ない、貴重で、疎ましくて、危険な生き物です。自分の身は自分で守ってください』という内容だった。この恐ろしい事実を叩きつけられた和倉は、至極冷静に、自らを徹底的に管理することにした。
 月に一度検査を受け、その都度ヒートの周期が変わっていないか確認し、適切な抑制剤を処方してもらった。該当時期には早めに帰宅し、引きこもってやり過ごす習慣も身につけた。一般的に、Ωは劣っているということだったから、そこから悟られないように勉強も運動も人一倍努力して、実際に成果を残してみせた。その結果、中学に上がる頃には、和倉をΩだと思うような人は一人もいなかった。
「…………はぁ……」
 そこそこ長い時間が経った頃、大きく、熱い息を吐くと、和倉は立ち上がった。頭も落ち着いているし、とりあえず今月分のヒートは消化しきれたようだ。
 薬で完璧に抑える、という手を考えなかったわけではない。ただ、ああいうものは常習していると効きが悪くなってくるものだ。いざという時に効きませんでした、では済まされないのだから、こうして引きこもってどうにかしている。
 ふと、視界の端が明るく光った。光っていたのは放っておいていたスマホで、画面には防衛部のグループが表示されていた。
《明日の宿題なんだっけ?》
《ちろ、ここグループ》
《あっ、ほんとだ!? 太子太子太子、明日の宿題なんだっけ?》
《いや仕切り直せよ、何でここで続行するんだ》
《まあ別にいいんじゃない? そう言えば鏡太郎、一昨日出されたプリントやった? 提出明日だよ?》
《鏡太郎?》
《鏡太郎ってば》
《え、もしかして画面開いたまま寝てる!? ど、どうしよう!》
《落ち着いてください龍馬先輩! こんな時はスタ連です!》
《判った!》
《りょーまがスタンプを送信しました》
《りょーまがスタンプを送信しました》
《りょーまがスタンプを送信しました》
《すみません霧島先輩、鬱陶しいです》
「……ふふっ」
 和倉は笑うと、《確かに鬱陶しいですね》とだけ送ってから、電源を落とした。