別にそういうつもりじゃない。誓う、絶対誓う、誰にか判らないけど。
がちがちに緊張した道後を見ながら、くすくす笑った和倉は、積まれていたタオルを渡してくれた。お礼言わなきゃと口を開いたら、三回転くらいした感じの声で「ありがとうございます!」と叫んでしまった。
「よくあることじゃないですか」
「えっ、よ、よくあるんですか、七緒先輩……」
「いえ、お話的には、ということです。急に雨が降ってきて、雨宿りできそうなところがラブホテルしかない、なんて」
憧れの先輩の口から出てきた「ラブホテル」という単語に、どうしようもなく顔が赤くなった。とりあえず落ち着け、と深呼吸をしていると、和倉がさらっと聞いてきた。
「一六くん、雨ざらしで体が冷えたでしょう? お風呂入ってきたらどうですか? 折角お金を払うんですから、多少は使わないと勿体ないですし。……僕が先に入ってもいいですけど」
どうします?と言わんばかりに顔を覗き込まれ、固まる。和倉が、先に風呂へ入る。風呂上がりの和倉が、部屋で、待っている。
「おっ、俺先入りますからー!」
ぴん!と飛び上がると、叫びながらバスルームへ駆け込んだ。落ち着け落ち着け落ち着けと唱えながらシャワーを引っ被り、体を雑に温める。
「お、お待たせしました!」
湿った制服の代わりにバスローブを羽織って出ると、和倉は入れ違いにバスルームへ向かった。はぁ、と息をついてから改めて体を丁寧に拭いていると、あることに気づいてしまった。
バスルームの扉は、半透明のガラスでできていた。つまり、今和倉がどこを洗っているのか、筒抜けだということで。
「……違う違う違う! 何考えてんだよ俺のばか!」
枕に顔を押しつけると、道後はばたばた暴れながら呻いた。
これ、生きて帰れるかな、俺。
「お待たせしました」
「うわーっ!」
「くっ、何ですかその悲鳴」
突然後ろから聞こえてきた声に、道後は枕を放り投げた。
和倉は笑いながら、ベッドに近づいてきて腰かけた。マットレスが上下して、今同じベッドにいる、という事実を叩きつけられて動悸が激しくなる。
「このベッド」
「は、はひっ!?」
「寝心地良さそうですね。僕も横になろうかなぁ」
「へっ!?」
道後が動揺している間に、和倉はころんと横たわってしまった。動けずにベッドの上に倒れていた道後と、ばっちりと向き合う。横になったことで僅かにはだけてしまったバスローブの胸元から、白い肌が覗いているのが。
「おや、どうかしましたか? 一六くん。そんなに顔を赤くして」
「……へ……ち、違います見てないですから!」
「何をですか?」
はて、と首を傾げる和倉から目を逸らすと、道後はベッドから飛び退いた。何か、何か気を紛らわせないと、と部屋の中を見回していると、テレビが備えてあることに気づいた。
「あ、あの、テレビ、テレビ点けますね!」
「あっ、いや止めた方が、」
なぜか制止してきた和倉に、内心首を傾げた。いつもなら和倉の言うことだし、と一考する余地もあるのだが今日は状況が違う。とにかく、今は別の何かで気を紛らせたい一心でリモコンで電源を入れる。
『あぁん!』
「きゃぁぁぁぁぁ!?」
途端に大画面に映し出された女性の淫らな姿に、道後はびっくりしすぎてリモコンを放り投げてしまった。今日は物をよく投げる日だ。いや、そんなことを言っている場合じゃない。リモコンを投げてしまった所為で、電源が、画面が、女性の姿と声が消せない。
「リモコンリモコンリモコン! ないどうしよぉぉぉ!」
「くくくっ……だから言ったのに」
「おねーさん待って、おねーさん! 俺見えちゃってるんで! 俺がいないところでやってください!」
「君は何をAVに語りかけてるんですか」
「そうだ、ホテルの人に聞いてみれば!」
「『テレビの消し方が判らなくてAVが止められません』って? 笑われそうですね」
「はっ、いっそテレビを壊せば!」
「こらこら、リモコンならここにありますから。その構えた椅子は下ろしてください」
あー、お腹痛いと笑いながら、和倉はリモコンで電源を切ってくれた。ブツっ、と小さな音がして、画面は真っ暗になった。
「はぁ、はぁ、はぁぁぁ……びっっっくりした……」
「中々楽しい慌てぶりでしたよ、一六くん」
「全然楽しくないです……」
はぁ、ともう一度ため息をついてから、道後はかけておいた制服を確認してみた。少し湿っているような気がしないでもないが、着れないことはないだろう。
「じゃ、じゃああの、七緒先輩。俺、先帰ります。制服、乾いたんで」
「え……っと、多分帰れないと思いますけど」
「へ?」
和倉はたんたん、とスマホを操作すると、画面を見せてくれた。そこには眉難市が映っていて、その上には真っ赤な点が見事すぎるくらいに被っていた。
「台風来てますよ、今」
「たい、ふう」
「うーん……フロントに電話して、休憩じゃなくて宿泊にしてもらいますね」
さっさと電話へ向かう和倉を呆然と見送った。外は台風で出られない。休憩だったのが宿泊になった。入浴済みの憧れの先輩。ラブホテルで、一泊。
ひゅっ、と喉が鳴った。酸欠になっているのか呼吸が苦しい。何だこれは、何の拷問だ。一体道後が何をしたというんだろう。もしかして、昨日親に内緒でアイスを食べた所為だろうか。それとも、万座から本を一冊借りパクしている所為だろうか。それとも、急いでたからって廊下を走った所為だろうか。それとも、それとも、それとも。
「一六くん」
「きゃぁぁぁ!?」
「だから何なんですかその悲鳴」
今度はやや呆れ気味に言いながら、和倉はラミネートされた紙を渡してきた。メニュー表、と書かれたその紙には、ちょっと高価ではあるが食べ物の名前が羅列されていた。
「泊まる羽目になったわけですし、何か食べませんか? 少しお腹がすきました」
「あ……俺も、です」
そう言えば、今は夕方だった。部室でおやつを食べたきり何も食べていない所為か、体が急に空腹を訴え出した。
「何か全体的に高いっすね……美味しいのかな」
「そうですね……一つを分けられるようなものにして、軽く食べる感じにしますか?」
「あ、それいいですね! じゃあじゃあじゃあ、サンドイッチとかどうですか?」
「いいですね。頼んできます」
和倉がフロントに頼むと、割とすぐにサンドイッチを持ってきてくれた。あのメニューの中でもそこそこ高い方ではあったが、割り勘にしてしまえばぶっちぎりで安いし、お腹に溜まるはずだ。
「何か美味そう! いただきます!」
ぱんっ、と手を合わせてから、サンドイッチにかぶりつく。
「うまっ!」
「そんなにですか?」
「はいっ! 何かこれパン美味いし、野菜苦くないし美味いです!」
「そうですか。では、僕もいただきます」
食事が高いのは場所代とかそういう感じで、要は不当な価格設定なんだろうと思い込んでいたのだが、そうでもなかったらしい。まず、食パンがふわふわのもちもちで甘い。野菜は生っぽいのに苦みがなく、しかししゃきしゃきの新鮮さは残っていて、野菜が苦手でも美味しく食べられてしまいそうだ。挟まっているハムも薄くはないし、パンに塗られている辛子マヨネーズもいいアクセントになっている。
夢中で食べていると、和倉が小さく笑ったのが聞こえた。
「ん?」
「ふふっ、口の端にマヨネーズついてますよ」
すっと指が伸びてきて、殆ど唇に触れるように拭われる。ぽとり、とサンドイッチを皿に落としてしまった。
折角、折角気が紛れていたのに、また意識してしまう。この部屋には、今和倉と自分しかいなくて、この部屋は、この部屋は、【そういうこと】が許される部屋だということを。
思わず視線を逸らすと、落としたサンドイッチを口に押し込んだ。そうだ、とっとと寝てしまおう。同じ部屋の中というのは緊張材料だが、テレビの前には座り心地の良さそうなソファーがあったし、そこで寝かせてもらえば大丈夫だ。多分。
洗面所のアメニティは潤沢で、歯ブラシとコップも置かれていた。虫歯にならないように丁寧に歯を磨いてから、一応トイレに行って、よし、と頷く。
「じゃ、じゃあ、先輩。おやすみなさい、俺もう寝ます」
「もう? いつも何時に寝てるんですか」
「八時くらいには寝てます」
「早寝ですね」
「そうですか? いっつもそうなんで判んないです」
八時に寝るのは早寝なんだろうか、と思いながらソファーに寝転ぼうとしたら、なぜか呼び止められた。
「一六くん、そっちで寝るんですか?」
「は、はい」
「風邪引いたらどうするんですか。ベッドで寝ましょう?」
「べ、ベッドは、七緒先輩が使ってください。俺、風邪引かないんで」
「一緒に寝たらいいじゃないですか、こんなに広いんですから」
まあ、それはそうだけど。ただ、道後はそのベッドが『なぜそんなに広々しているのか』を知っている。だから、そういうわけにもいかない。
「だ、ダメです! い、一緒に、とか……、そんな、ダメです」
「何でですか? 男女ならともかく、男同士ですよ」
「男同士でも、ダメです」
「何ですか」
「何でって……」
そんなの。
道後はぐっと拳を握ると、振り絞るような声で投げかけた。
「先輩、警戒心とか危機感とかなさすぎます! 俺が七緒先輩に酷いことしたらどうするんですか!」
「酷いこと、って?」
「え」
カラになった皿をテーブルに置いて、和倉がこっちに向かってきた。まばたきしかできないうちにどんどん近づかれ、仰け反ってみせたところで大して距離は稼げなかった。
「一六くんは、僕にどんな酷いことをしちゃうかもって思ったんですか?」
「え、っと」
「殴ったり蹴ったりするつもりでした?」
「そんなことしません!」
「なら、何を?」
「なに、を」
甘い香りがする。多分、ここのシャンプーの匂いだ。さっきバスルームで道後も使ったのだが、甘ったるい匂いに内心動揺したから、よく覚えている。元々甘い香りだったのに、和倉から漂ってくると、それは格別で、くらくらするほど甘くなった。
何を、なんて。そんなの決まっている。そんなつもりじゃなかったとしても、そんなつもりじゃなかったけど、期待しなかったわけじゃないから。
「……まあいいです」
「……へっ?」
あっさりと道後から離れた和倉は、一人でベッドまで戻っていった。エアコンの温度をいじってから、ばさりと毛布を被る。
「一六くんがそこまで言うなら、僕がベッドを使わせてもらいますね。おやすみなさい」
「お、やすみ、なさい」
あまりにもな急展開に、若干取り残された感はあるが、とりあえず危機を回避したと言えるだろう。頭の片隅で、何か悪態を吐いている奴がいるような気もするけれど。
道後は今日何度目か判らないため息をついてから、ベッドから拝借した毛布に包まった。