何だ、それ。
 和倉はぐっと手を握りしめた。
 柔らかな思慕はあっという間に冷え固まり、あとに残ったのは、ずんと重たい岩のような――。

「ただいま〜っす!」
 道後が楽屋に駆け込んでくると、霧島が振り返って「お帰り」と声をかけた。
「一六、よく頑張ってたね! すっごい跳躍力だったよ!」
「あざっす! えへへ、頑張りました!」
「本当に、バネでも仕込んでんのかと思った」
「仕込んでねーし! あっ、次鏡太郎先輩の曲ですよね! 行ってらっしゃい!」
「ふぁぁぁ……そうだっけ?」
 あまりにもやる気のない返事に、霧島は大仰に眉を吊り上げた。
「そうだよ! ほら、早く準備しないと!」
「えぇ……もうちょっと寝てたい……」
「ダメだよ。俺も一緒に行くから、ね?」
「では私も行きます。修善寺先輩の次は、私の曲ですから」
 次、出番の修善寺と、それを介護する霧島、更にその次の出番の万座が連れ立って楽屋を出て行った。きっと霧島一人では大変だろうが、万座がいれば多少は楽になるはずだ。万座は、何だかんだでこういう時手を貸してくれる男だから。
 まずは水分補給、と道後は手元にあったペットボトルを取った。ごくごくと飲み干してから、万座の分だったことに気づく。……あとで謝っとこ。
「七緒先輩も、お疲れさまでした! 七緒先輩の歌、めちゃくちゃかっこよかったです!」
「そうですか。ありがとうございます」
 返ってきた言葉は普通の言葉だったけど、何となくおや?と思った。何となく、だけど。
 怒って、いるような。
「……七緒先輩?」
「何か用ですか?」
「用って言うか……、あ、あのあのあのっ。もしかして、何か怒ってますか?」
 ここで「怒ってますか?」とストレートに聞いてしまうのが道後の道後たる所以だが、とにかくストレートにそう聞くと、和倉はちらりと道後を一瞥した。
「怒ってないですよ、別に」
「その言い方、絶対怒ってるじゃないですか! 何ですか!」
「だから、怒ってないって言ってるでしょう。あっち行ってください」
「!」
 あまりにも冷たく言い捨てられ、道後はぎゅっと眉を寄せた。普段、和倉は滅多なことでは怒らない。怒ったとしても「あっちへ行け」とまでは絶対に言わない、のに。
 これは本当に何か怒らせるようなことをしたらしい。
「……俺、七緒先輩に嫌われたくないです」
「……」
「七緒先輩のこと怒らせちゃうのも嫌です。嫌なことしちゃったならちゃんと謝りたいです」
「……謝って、どうなるって言うんですか?」
「謝って、七緒先輩が許してくれたら……。また、一緒にいられます」
 じっ、と見つめながら言うと、不意に和倉は唇を歪めた。
「じゃあ僕が許さなかったら、僕たちは永遠に離れ離れということですね」
 永遠に、離れ離れ。
 唐突に突きつけられた言葉は、まるで刃のように鋭く胸を抉った。どこか現実味のないセリフなのに、辛くて堪らなかった。
 でも、確かにそうだ。許せない相手とずっといたって、ストレスが溜まるだけでいいことなんてない。嫌な思いをし続けるのに傍に置いておく意味も、ない。
「……七緒先輩が、どーしても俺のこと嫌で、嫌いで、許せないって言うなら……仕方……」
 仕方ない、と言おうとして。
 道後はきっと顔を上げた。
「……やだ。やっぱりやです! 仕方ないかもしれないけど、仕方ないってしたくない! 七緒先輩と永遠に離れ離れなんてやです!」
「……無茶苦茶ですね」
「無茶苦茶なこと言ってるって判ってます! 七緒先輩の為って思うなら俺がいない方が、離れ離れになった方がいいってのも判ってます! でもでもでも、そんなの嫌だ! 離れたくない! だから、俺、何したのか教えてください! 謝らせてください! そんで、許してください!」
 合わない視線にだって負けず、道後はただただ真っ直ぐに和倉を見つめる。
 届け、届け、――届け!
 そんな思いが通じたのか、和倉がまた一瞥した。でも、今度はすぐに視線をこちらに戻してくれた。
「……すみません」
「え」
「ちょっと、ムキになりました」
 ぼそりと呟かれ、道後は一気に肩の力が抜けた。だが、まだ終わりではない。まだ、何を怒っていたのか聞いていない。
 道後は気を再度引き締めると、和倉の方へ身を乗り出した。
「で、で、で! 七緒先輩、何怒ってたんですか?」
「別に、もういいです」
「俺が良くないです! またおんなじことしちゃったら、また七緒先輩に嫌な思いさせるじゃないですか! そんなのやです!」
「…………」
 小さなため息、一つ。
 やがて和倉は諦めたように微笑んでから、道後の目を覆った。急に訪れた暗闇に、動揺以外の感情がなくなる。
「な、七緒先輩っ!?」
「……君が、『みんなの為に歌う』とか言うから」
「へ?」
「言ったじゃないですか、『僕の為に歌う』って。なのに、舌の根も乾かぬうちに『みんなの為』とか言い出すわ、しかも最後は太子くんのこと呼ぶわで散々ですよ」
「あ、あれは元々そーゆー歌詞で!」
「……ちょっとだけ、嬉しかったのに」
 相変わらず視界を奪われたままだから、表情までは伺えないが、和倉の声は何となく恥ずかしそうに聞こえた。
「……えへへ」
「何ですか。何がおかしいんですか」
「あ、いやおかしいんじゃなくて! ……だって先輩、俺に『先輩の為だけに』歌ってほしかったってことですよね?」
「……」
「それで……やきもち、焼いたってことですよね?」
「……そうですよ」
 ほんの少し手がズレて、やっと顔が見えた。何となく予想はついていた気もするけど、予想したよりも何倍も可愛らしく見えて、道後はえへへと頬を緩めた。
「一六くんのばか」
「すいませんでした」
「一六くんの浮気者」
「浮気はしてません! 七緒先輩一筋です!」
「知ってます」
「あっ……、そーですか……」
「……嘘です、信じません」
「えっ!? ど、どうしたら信じてくれますか!? い、痛そうですけど指詰めたりした方がいいですか!?」
「太子くんの影響かな、その残虐思考回路は」
「え、え、え……!?」
 一難去ってまた一難、とはよく言ったものだ。どうしたらいいんだろう、と頭を悩ませていると、和倉がくすりと笑った。そのまま、ふわりと香りが近づいて。
 ちゅ、と口づけられた。
「…………へっ」
「頑張ったご褒美、あげてなかったなと思いまして」
「〜〜〜っ!?」
 触れ合った唇をぎゅぅっと押さえていると、和倉は何てことのないように立ち上がった。
「さて、鏡太郎くんと太子くん……あと、介護中の龍馬くんの応援でもして来ましょう。一六くんはまだここにいますか?」
「………………あっ、い、行きます! 行きます行きます行きます! た、太子の奴、しっかりやってるかな〜!」
 ばたばたと楽屋を飛び出す道後の背中を、あっという間に置いていかれた和倉は静かに眺めた。

「……これで、暫くは僕のことだけ考えててくれるかな」