予想はついていたのだ。あからさまにしょんぼりした様子の恋人から「今日はうちで遊びませんか……」と言われた段階で。
「君、まだ宿題やってるんですか?」
「うう……」
部屋に散らばったノートやプリントを見つめ、和倉がため息を吐くと道後は小柄の体を益々小さくした。勉強道具を適当に退かし、道後の正面に座ると手元を眺める。進捗は四分の一、いや六分の一くらいだろう。最終日でないだけマシか。
「な、なんかつい、明日やろう明日やろうって延ばしちゃって……」
「『明日やろうは馬鹿野郎』」
「ば、ばか……! 七緒先輩に、馬鹿って言われた……!」
「なんて言葉もありますねってだけですよ。……仕方ないですねぇ」
堪え切れずふ、と笑みを零してしまった。道後の傍にあったテキトーなノートを拾い上げ、パラパラと捲りながら話す。
「このまま宿題を提出できず留年、一六くんはまた来年も一年生……なんてことになったら可哀想ですからね。少しだけなら教えてあげますよ」
「こ、高校って宿題出さないと留年なんですか!?」
「そういうこともあるかと」
「それマジでヤバいやつじゃないっすか! が、頑張ります!」
「はい頑張って。困った時はさっさとヘルプ出してくださいね、時間が勿体ないので」
「はいっ!」
返事だけは優等生そのものなのだが。よし、と気合いを入れた道後は、ノートに書かれた計算式に挑む――為の集中力は、僅か二分で切れたのが判ってしまった。悲しいことに。
「で、今度はどんなロクでもないことを考えてるんですか?」
「へ、えぇっ!?」
道後は驚いていたが、無理な想像ではない。ちらりと和倉を見てはぼんやりした顔をして、はっとしたと思ったら首を振って、また和倉を見て。これでは『良からぬことを考えています』と言っているようなものだ。じっと見下ろすと、道後は観念したように口をもごもごさせた。
「……七緒先輩の宿題、俺が隠しちゃったら先輩は留年してくれるのかなって。でもでもでも、そんなのすげー困るだろうし、嫌われちゃうかもしれないし……、でもでもでも……」
「……まさか、本当に留年するわけないじゃないですか」
「えっ、しないんですか!? なーんだ!」
「『じゃあ宿題やらなくてもいいんだ!』って顔してますけどダメですよ?」
「……はーい……、って、嘘だったんですか!?」
「随分周回遅れな反応ですねぇ。はい」
「はいって……」
「ふふっ、一六くんは本当に面白いですね」
真剣な顔をしたいのに、ついつい笑ってしまう。小さく息をついてから、和倉はまだ唸っている道後の頭をぽん、ぽんと撫でた。
「留年してほしかったんですか、僕に」
「……ちょっとだけ」
「寂しくなっちゃいました?」
「……ちょっと、だけ」
「宿題隠してまで留年させようとした癖に『ちょっとだけ』とは、随分往生際が悪いことで」
「……判ってるんです。卒業しても、終わりじゃないって」
「……」
道後は撫でていた手をそっと掴むと、自分の頬に押し付けた。日焼けの割に木目の細かい手触りが心地良い。気の赴くままにさらりと滑らせると、少しだけくすぐったそうに笑ってくれた。
「俺、中学の時にすげー好きな先輩がいて」
「へぇ、今の恋人の前で昔の男の話をするなんて、君はいい根性してますねぇ」
「す、好きでしたけど七緒先輩の好きとは全然、まっっったくの別物なんで! ……えーっと、それで。卒業しちゃうの超超超寂しかったんですけど、その先輩、俺が卒業するまで何回も会いに来てくれて。その時教えてもらったんです、卒業しても終わりじゃないって」
「……いい先輩さんですね」
「はいっ」
先輩を褒められて嬉しいのだろう、彼はぱぁっと笑顔になった。和倉の手にすりすりと頬を寄せる動作は小動物のそれで、胸に『可愛い』が溶ける。
――なのに。
「? ……七緒先輩――」
道後をぐいと引き寄せると、身を乗り出して口付けた。大きく見開かれるマゼンタが暈けて見える。ほんの一瞬触れ合わせた唇を、そっと離す。
道後はあわあわと赤くなっていたが、それは束の間で、すぐに凪いだ。とたとたとこちらへ回り込んできて、何も言わないまま和倉の頭を抱きしめる。思わぬ動きに少し驚いてしまったが、脈打つ鼓動はどこか安心できて、そのまま身を委ねることにした。
「……どうしたんですか、いきなり」
「それこっちのセリフです……、なんでき、キス、したんですか。いや嬉しいですけど!」
「ふふっ……、大した理由じゃないですよ。ただ……、感情は伝播するものだなぁと思っただけで」
「感情が電波……、……やっぱ山奥とかだとダメなんですか?」
「そっちじゃない」
「あれあれあれ……?」
どんどん首が斜めになっていく道後に笑いながら、小さな体に弱く縋った。ぽん、ぽん、と頭を撫でていく手のひらに、これじゃさっきと逆だと自嘲する。なんでこんなに勘がいいのか。それだけよく見てくれている、ということだろうか。
道後をからかいはしたが、和倉だって寂しい気持ちがないわけではない。それこそ会いに行けばいいし、道後が会いに来たっていい、そうすれば【終わり】になんてならないと判っている。
でも、惜しくなった。何の約束もなしで、道後の傍にいられる今が。
「……一六くんは、僕の卒業式で泣きそうですね」
「な、泣いてほしいんですか」
「いえ、ただどうかなって」
「ど、どうってそりゃ……!」
頬をぽかぽかにしながら口ごもった道後が、何か閃いた顔をした。それからふふんと唇を波打たす。
「泣かないです!」
「えっ」
何が来るかくらい薄々想像がついていたのに、思ったより衝撃だったようだ。反射的に戸惑う声が出てしまって、何となく恥ずかしくなる。明け透けに表しすぎた。
そんな胸の内を知ってか知らずか、道後が少しだけ腕の力を強めた。さっきより近くなった鼓動に紛れて、笑い声がする。
「……君、本当にいい根性してますねぇ」
同じくらい、少しだけ強く縋ってみせると、道後は笑みを混ぜながら囁いた。
「『嘘ですよ』」