呼んでるな、と思う。
深い眠りから一段だけ覚めたような意識の中、修善寺はゆっくりその声を聞いていた。よく馴染んだ、落ち着く声だ。
「……。……ってば。鏡太郎、起きてよ」
もう一回だけ、と心の中でねだる。勿論瞼は開いていない。
「鏡太郎――」
はぁい。
「……ふぁぁ……、りょーちん、おはよう」
「おはよう、じゃないよ! もう、道端で寝たらダメって今朝言ったじゃん!」
「そうだっけ?」
「そうだよ!」
「……判った、次から気をつけるかも」
「かもって自分のことだろ……」
ちょっとの呆れと、仕方ないなぁという色を感じ取ると、修善寺はそっと安心する。できれば怒ってほしくはないが、怒っていてさえ何だかほっとしてしまう。いつからそこにいたのかあまり覚えていないけれど、もうずっとずっと傍にいた声。
「……聞いてる?」
「聞いてない」
「そこ素直に言うとこじゃないから」
霧島は割とよく喋る。それは修善寺が相槌を打とうが打つまいが関係なく、だ。だから、わざと相槌を打つことなく、霧島の声をただ聞いていることも多い。勿論、いや、まあ半分くらいは内容も聞いているのだが。
「で、なんだっけ」
「今日は黒玉湯行かないのって話」
「あぁ。……うーん……、行く」
「珍しく悩んだね」
「めんどいなーとは思ったんだけど」
「けど?」
歩みを止めると、修善寺は霧島をじっと見つめた。
風呂場で聞く霧島の声は、それはもう格別だ。元々柔らかい声質だから、反響させると溶けてしまいそうな音に変わる。やや輪郭を失い、体の中へ直接流れ込むような、そんな感じに。
というのを説明するのは面倒だったので、霧島の問いかけに答えることなく、そのまま黒玉湯へ向かって歩き出した。速度こそ出ていないものの、急な動きに驚いた霧島は一瞬出遅れ、「えっ、鏡太郎!?」と走ってきた。
「なに、りょーちん」
「なにじゃない、急に止まったり動いたりマイペースが過ぎるよ……!」
「え、でもりょーちんならついてきてくれるし……」
「そ、それは、まあ、そう、だけど……」
きょとんと首を傾げてみせると、霧島は急にしどろもどろになって、恥ずかしそうに俯いた。徐々に赤くなっていく頬を見ていると、きっと内部構造が自分とは違うんだろうな、という気がしてくる。
黒玉湯に着いたものの、他の面子は誰も来ていなかった。
「今日誰もいないね。みんな何かあるのかな」
「どうだろ。あるんじゃない? 俺はのんびりできていいけど」
「鏡太郎はいつものんびりしてるだろ」
「違うよ」
「?」
「のんびり、りょーちんの声だけ聞いてられるし」
「あぁそう……………………えっ!?」
あまりにも急転直下な言葉に、霧島は脱いでいたワイシャツを落とした。
そんなことなど気にも留めず、修善寺はさっさと制服を脱ぐと風呂場へ向かっていた。
「来ないの?」
「えっ、いや、えっと……い、行きます!」
「そう、ならいいや」
からら、と軽い音を立てて扉が開いて、そして閉まった。扉の向こう、脱衣場からは「えっ、いやあれってどういう……っていうか、これから喋りづらい……!」と苦悩している声が聞こえてきた。
誰にも知られずそっと笑うと、修善寺はふらふらと蛇口の方へ向かった。