あ、と思った。
 二人とも休みの夜、先に風呂へ入った道後は、小さく「やっべー……」と呟いた。手には、いくら振っても中身の出てこないシャンプーのボトルがある。
 少し前から軽くなっていたことは知っていたのだが、もう少しもう少しと引き延ばしていたのが仇となった。いつもはこういう時、詰め替え用のパウチを準備してから風呂へ入るのだが、まだ行けるっぽいなぁなんて考えていた所為で出していない。
「すいませーん、七緒せんぱーい」
 風呂場の扉を少し開けて、リビングへ向かって呼びかける。
「何ですかー?」
「シャンプー切れちゃって! 詰め替え出してもらってもいいっすかー?」
「すみませーん、今手が離せないんですー」
「えぇ……そっかぁ……」
 それならば仕方ない。準備を怠った自分が悪いし、そもそも体をちゃんと拭いて出れば何の問題もないことだ。よし、と意を決した時、和倉の声が返ってきた。
「僕のシャンプー、使っていいですよー」
「……えっっ!?」
 中々の音量だったはずだが、和倉からの返事はなかった。風呂場の方へ向き直ると、和倉が愛用しているシャンプーが目に飛び込んでくる。いくら嗅いでも慣れることなくどきどきしてしまう、【あの】シャンパンローズの香りを閉じ込めたシャンプーだ。
 さて、と。
「……な、七緒先輩がいいって言ったんだし、シャンプーないと困るし、しょうがないよな。うん、しょうがないしょうがない。フカコーリョクってやつです」
 一体誰に向かって言っているのか判らない言い訳を零しながら、道後は少しばかり震える手でシャンプーを取った。手のひらに広げただけで漂う香りに一瞬だけくらっとしたが、とりあえず負けないように髪を洗い始めた。
 そう言えば同棲を始める前は、時々和倉のシャンプーを借りることがあった。急に泊まりに来ないか誘われた時はついつい気持ちが急いてしまって、よくシャンプーやら洗面道具を忘れていた。思い出せる日は取りに行くこともあったが、概ねは拝借していたわけだ。
 あの頃はもう少し落ち着いて借りられた気がするのだが、耐性がなくなったということか。
 風呂場からどうにか無事に帰還すると、リビングにいた和倉が振り返った。
「お帰りなさい。すみませんでした、行けなくて。大丈夫でしたか?」
「えーっと……まあ、大丈夫、です」
「そうですか。では、僕もお風呂に入ってきますね」
 めちゃくちゃ含みのある感じになってしまったが、特に気にする様子もなく、今度は和倉が風呂場へ向かった。出て来る前に髪を乾かそうと洗面所へ行き、カチリとドライヤーの電源を入れた。がーがー音を立てて熱風が吹きつけてくるというのに、香りが何だか優雅な感じで、そのアンバランスさが少しだけ面白かった。和倉が髪を乾かしている時はそんな風には見えないから、多分道後の所為だ。やっぱこの香り、七緒先輩のだよなぁ。
 短い髪はあっという間に乾いたので、ドライヤーをしまってからリビングに戻る。それと同時に扉が開く音がしたから、ナイスタイミングだ。
「戻りました」
「お帰りなさい、七緒先輩。もう寝ますか?」
「そうですね、明日は仕事ですし。……あ、お風呂場の掃除はしてきたので、安心してください」
「ありがとうございますっ!」
「ふふっ、ちゃんとやらないと一六くんに叱られちゃいますからねぇ?」
「うっ、いや、べ、別に叱っては……!」
「冗談ですよ。お布団行きましょうか」
「……はい」
 最後にひとからかいできて満足なのか、和倉は上機嫌でベッドに寝転んだ。その隣に寝転ぶと、電気を消そうとして――何かが引っかかった。物理的にではなく、心に。
「……ねぇ、一六くん。僕、今日いつもと違いませんか?」
「え? ど、どっか違うんすか?」
「えぇ。どうぞ、じっくり確認してください」
 にこり、と微笑まれ、どきまぎしながらも丹念に和倉を見つめる。透き通るような琥珀色の瞳も、白く滑らかな肌も、薄く色づいた頬もいつもと同じに見えて首を傾げた。和倉が僅かに体を動かしたから、ひょっとしてパジャマが違うとか、と視線を下げようとした時、また何かが引っかかった。
「んー……?」
 何だろう、一体何が気になっているんだろう。考えてみると、引っかかるのは決まって和倉が動いた時だった。動くと判るけど、止まってたら判りにくいもの。
「……匂い?」
「おや、早かったですね。正解です」
「あ、あのあのあの、これ俺のシャンプーの匂いじゃ……」
「流石一六くん、犬並みの嗅覚ですね」
「いやいつも使ってるんで……って、何で俺のシャンプー使ってるんすか!」
「えーっと……間違えちゃいました。すみません」
「間違っちゃったんすか? んー、じゃあ仕方ないっすね……」
 絶対嘘だが、道後は素直に納得してしまった。いたずらが上手くいった子供みたいに笑う和倉は、ぐい、と道後の手を引いて抱きしめてきた。すん、と匂いを嗅ぐような音がして、一気に顔が熱くなる。
「な、七緒先輩……」
「うん……君から僕の香りがするのは、悪くないですね」
「七緒先輩の、香り……」
「あぁ、そう言えば今、僕からは君の香りがしているんでしょうか……?」
 確かめて、くれますか?
 耳元に直接流し込まれた声が何なく熱を孕んでいるような気がして、道後はそろそろと顔を上げた。どきどきうるさい心臓を宥めながら、ゆっくりと和倉の髪に触れて、一度だけ息を吸い込んだ。
「……あ」
「……しましたか?」
 いつもの、よく知った匂いだ。何だったらさっきも嗅いだ匂い。でも、さっきまでは空間に匂いが漂っていただけだったけど、今度は和倉から香ってくるのが判る――そう、和倉自身から、自分の匂いが。
「何か……俺のモノ、って感じします……」
「……え」
 少し戸惑うような声がして、我に返る。狭いベッドの上で「違うんです!」と手をぶんぶん振ると「埃立つんでやめてください」とさくっと止められた。
「ほ、ほんとに違うんです! 何か、七緒先輩なのに俺の匂いして、何か、俺で染まってる感じするっていうか……って、さっきと何も変わってないし! えっとえっとえっと……!」
「……締まりませんねぇ、本当に」
 はぁ、とため息をつくと、和倉は道後の肩に額を押しつけた。
「……考えることは同じか」
「え、何ですか?」
「何でもありません。もう寝ましょう」
「はーい……?」
 急にそっぽを向かれ、何となく納得いかない気持ちで電気を消す。暗闇の中、和倉が身動ぎするたびに自分の匂いがした。見知ったもののはずなのに、やけにどきどきと心臓が騒ぐ。
 落ち着け、落ち着けと唱えながら、道後はぎゅっと目を瞑って、眠気が来るのを待った。