陽が傾き、流石の暑さも少しだけ落ち着いた頃。久々に黒玉湯に行きませんか、と提案すると「いいっすね!」と道後も楽しそうに乗ってきた。
黒玉湯に着くと、慣れ親しんだ脱衣所を抜け、風呂場の引き戸を開ける。
「……貸し切り状態ですね」
「よっし、久しぶりに一番風呂だ! ハッピー!」
「あんまりはしゃぐと転びますよ。……まったく」
あっという間に、【あの頃】に戻ったような気がする。体をささっと洗うと、道後は湯船に飛び込んでいった。素早いことだ。余程楽しみにしていたんだろうか。くすりと笑ってから、和倉は丁寧に髪を洗い始めた。
「しかし、ここは変わってませんね。時間が止まっているみたいです」
「確かに。これで龍馬先輩とか、太子とか入ってきたら完璧ですね!」
「湯船に沈んでないですか、鏡太郎くん」
「沈んでないっす!」
「それは何よりです。龍馬くんのいない今、僕たちが鏡太郎くんの命を守らないとですから」
「……」
「……一六くん?」
賑やかな相槌が聞こえなくなって、和倉はシャワーを一旦止めた。聞き逃したんだろうか、いや、そんなわけない。
濡れ髪から水気を切る間もなく、椅子から立ち上がると、湯船に向かって駆け出す。転ぶかもしれない、という可能性は全く考えないまま。
「っ、一六くん!」
湯船の底、当時はよく修善寺がいた位置に、こぽこぽと呼気を零しながら、道後が沈んでいた。
大慌てで湯船に踏み入ると、腕を引いて水上へ顔を出させる。大きく何度もむせながら、道後が目を開けた。
「七緒、先輩。俺、沈んでました?」
「沈んでました……! どういうつもりですか!」
「す、すいません。ちょっと、何か眠くて」
「……もしかして、本当は疲れてたのに、無理して来たんですか?」
思い当たった可能性に、無意識のうちに眉がつり上がっていく。何も言わずに逸らされた視線が、何よりの答えで、和倉はぐっと唇を噛んだ。
「……とりあえず、出ましょう。動けますか?」
「あ、は……わっ」
道後は立ち上がろうとしたが、ふらりと揺らいだ。倒れかかった体を無言で支えると、「すいません」と小さく謝られた。
一旦脱衣所の椅子に座らせると、何か飲み物を、と冷蔵ケースへ向かう。その途中、がらりと戸が開いて、番台が顔を出した。
「すみませんっ。これから団体のお客さんが来るんで、もう上がったなら、ちょっと空けてもらってもいいっすか?」
「そうなんですか? ……困りましたね」
「何かあったんすか?」
心配そうに見上げてくる番台に、簡単に説明すると、「うーん」と腕を組まれた。
「……なんて、すみません。できるだけすぐに帰ります」
「……ひらめいたっす! お客さん、ちょっと待っててくださいっすー!」
「……はい?」
何をひらめいたのか、番台は脱衣所を飛び出していった。一分と経たないうちに戻ってくると、がっと道後を担いだ。
「えっ、何を」
「うちで休んでくっすよ。あんちゃんもいいって言ってたし、遠慮なくどーぞっす!」
返事をする隙を与えないまま、番台は道後を連れて行ってしまった。慌てて追うと、担がれた道後が目を白黒させているのが見えた。
あっという間に縁側へ到着すると、想像よりも大分ソフトに、道後を座らせた。その足で麦茶の入ったボトルとグラスを持ってきて、どんと置く。
「帰る前に声かけてほしいっす。ごゆっくりっす〜♪」
「ど、どうも……」
……何だったんだ、あのパワーは。何か疲れた。
和倉は、道後の横に座ると、麦茶を注いで渡した。
「あ、ありがとうございます……」
「いえ、別に。元々は黒玉湯のものですし」
「……」
素っ気ない返事に、道後は何も言わずに麦茶を飲んだ。気まずそうに視線を泳がせた後、意を決して和倉を呼ぶ。
「あの、七緒先輩、」
「一六くん」
被せて名前を呼ばれ、怯んだように返事をした。
「は、はい」
「膝枕、してあげます」
「は、は…………えっっ!?」
一瞬理解できなかったのか、普通に返事しようとしていたが、コンマ二秒で真っ赤になった。
「えっ、な、ななな七緒先輩がっ、俺に、ひざ、膝枕!?」
「うるさいですね、嫌なんですか?」
「嫌じゃないです!」
「ならとっとと寝てください」
腕をぐいっと引っ張って、頭を膝に乗せてやると、「はわー!」と叫んだ。うるさい。
まだ落ち着かない様子だったが、「一六くん」と改めて呼べば、空気が変わったことには気づいたようで、とりあえず大人しくなった。
「僕は怒っています。どうしてか判りますか」
「……俺が、無理したから」
「そうです。判ってるんじゃないですか」
膝の上で横を向いている道後の髪を、そっと撫でる。僅かに耳に触れたのか、ぴくっと体が跳ねた。
「……本当に、心臓が止まるかと思ったんですよ」
道後の耳に額をつけるように俯くと、心からの言葉が零れた。
「無事で、よかった」
「っ」
道後の頭が九十度回転した。不意にかち合った瞳から、灼けつくような光を見た。
ゆるゆると手が伸びてきて、和倉の頬を撫でる。
「ごめん、なさい。七緒先輩」
「……っ」
「ごめん、なさい……」
ぽろぽろと大粒の涙を零しながら、道後の手が頬を撫でる。まるで見えない涙を拭っているような動作に、胸がきゅぅっと痛んだ。
「泣くと水分出ちゃいますからね。……麦茶、もう一杯いただきましょうか」
追加で麦茶を注いでやると、道後は起き上がって麦茶を飲み干した。それから、何かを覚悟したような面持ちで、えいやっと再び和倉の膝に頭を乗せた。
「……もうちょっとだけ……なら、いいですか?」
「……ふふっ、そうですね。いくらでも、と言いたいところですが、他所のおうちであんまりいちゃいちゃしているわけにもいきませんし。もう少し休んだら帰りましょうか」
「い、いちゃいちゃ……! は、はいっ!」
声を裏返らせるのが可愛らしくて、和倉はもう一度笑うと、近くにあったうちわで、熱くなっているであろう頭を扇いだ。
空気でも読んでいたのか、ずっと黙っていた風鈴が、ちりん、と小さく笑った。