駆け足で部屋に入ると、道後は後ろ手にドアを閉めた。大急ぎで風呂に入り、ご飯を食べて、携帯の前で正座待機する。時計を見る頻度は徐々に高くなり、時刻が午後九時五十九分になる頃にはもうガン見だった。
「……はち、なな、ろく、ごー、よんっ、さんっ、にぃっ、いちっ!」
 かちり、と秒針が天辺を向いた正にその瞬間、携帯が振動した――が、一回で切れた。飛びつくようにリダイヤルすると、電話口から苦笑が漏れてきた。
『もう十時ですけど』
「まだ十時です!」
『……まあ、折り返されてしまった以上、今更切るのも野暮ですね』
 ふふっ、といつも通りの優しい笑い声を上げながら、和倉は諦めたように返した。
『こんばんは、一六くん』
「こんばんはっ、七緒先輩!」
 和倉には見えていないけれど、道後はぱぁっと眩しく笑った。
 道後が上司から二週間の出張を命じられたのは、先週のことだ。そこそこ遠方への出張となる為、社宅の利用を余儀なくされ、道後は随分久々に和倉と離れて生活することになったのである。
 できることなら毎日でも電話して声が聞きたかったが、物理的に難しいことは重々判っていた。そこで【十時までに和倉の仕事が終わっていたら電話、十時を過ぎてしまった時は道後からメールをする。但し、返信は翌朝以降にすること】と取り決め、今日まで守り合ってきた。そんなわけで、今日は通算三回目の電話だった。
『そちらでの生活には慣れましたか? 体調を崩してないといいんですけど』
「はいっ! 元気です! ……でもでもでも、仕事がまだ慣れなくて。……おんなじことしてるんだし、さっさと慣れないとっすよね!」
 あはは、と笑ってみせたものの、少しだけ力が入っていなかった。
 仕事内容は全く同じなのだからいつも通りにこなしたいのに、何か一つする度に戸惑ってしまう。そうした積み重ねが道後の足を確実に引っ張っていて、休みの日だって部屋で寝てばかりだ。本当はほんの少しくらい観光して、和倉に土産話の一つや二つ、と考えていたのに。
『……一六くん、焦りは禁物ですよ』
 そっと返ってきた言葉は、今の道後の状況にぴったりと合ったものだった。ぱちぱちとまばたいていると、和倉は続けた。
『同僚や上司など、仕事をする上で接する顔触れががらりと変わったのであれば、それは本当の意味で【全く同じ仕事】ではないんです。僕だって、急によく知らない面々と仕事をしろと言われたところで、上手くできませんよ』
「七緒先輩でも?」
『ええ、誰だってそうです。ですから、一六くんは焦らず、一つひとつと全力で向き合ってください。君の仕事ぶりが評価されたからこそ、今回だって白羽の矢が立ったんですよ』
 道後は声にならない声を零すと、床に座り込んだ。和倉が見ていてくれていると判って、胸がきゅぅっとしてあったかくなる。
「……ありがとうございますっ、俺、頑張ります!」
『はい。頑張ってくださいね。……折角ですし、前払いで何かご褒美をあげましょうか。何がいいですか?』
「ご褒美、なら、」
 会いたいです。
 思わず零してしまいそうになった言葉を、口を押さえることで封じ込めた。それは、ダメだ。言えるわけがない。
 今、道後は気軽に出かけられるほどの気力がない。つまり、ここで会いたいと言ってしまえば、和倉をわざわざ出向かせることになってしまう。和倉だって仕事があって泊まりは難しいだろうし、しかもそこそこ遠方と来ているから、日帰りというのも一苦労だ。
「……えーっと、あっ、じゃあじゃあじゃあ! 褒めてください! いっぱい!」
『ふふっ、判りました。お仕事頑張ってえらいですね、一六くん。大変だろうに、投げ出さないなんて凄いですよ』
「えへへっ、ありがとうございます……!」
 いつまでも聞いていたくなったけれども、そうもいかない。あっという間に三十分は経過していたことに気づくと、道後は意を決して別れの挨拶を口にした。
「それじゃ、もうそろそろ寝た方がいいっすよね。七緒先輩っ、おやすみなさい!」
『そう、ですね。……あ、一六くん、ちょっと待ってください』
「え?」
『目を瞑ってもらえますか?』
「え、え?」
 急なお願いに戸惑ったものの、大人しく目を瞑った。電話の向こう側で、和倉が小さく息をついたのが聞こえたあと。
 ちゅ、と耳元にリップ音が吹き込まれた。
 ぶわりと熱が耳から全身を駆け巡り、一瞬で沸騰しそうなくらい熱くなった。
「なっ、なな七緒先輩っ!?」
『今どんな顔してるのか見えないのは、ちょっと悔しいですね。……それでは、お休みなさい』
 最後に仕掛けるだけ仕掛けると、和倉は一方的に電話を切った。とっくにつながっていない携帯を握りしめ、道後はへにゃへにゃと倒れた。



「……はぁー……」
 スーパーの袋を両手で抱え、道後はため息をついた。ただ、それは暗い気持ちからではなく、寧ろ充足感のあるものだ。
 和倉のアドバイス通り、焦らず一つひとつの仕事を丁寧にこなしていたら、現場の上司から褒められた。慣れよう慣れようと必死になっていた力が抜けて、いつもよりもずっと周りがよく見えたからこその結果だった。今日もし電話がかかってきたらお礼言おう、かかってこなかったらメールしよう、と心に決め、鼻歌混じりに部屋へ向かう。
「……ん?」
 ドアの前に、誰かが立っている。
 何か用ですか、と声をかけようとすると、それよりも先に相手がこっちを向いた。
「……」
「こんばんは、一六くん。来ちゃった♪ ……なーんて、ね」
「…………」
 道後は袋を落とした。中に卵を入れていたような気もするが、そんなことよりも先に確認すべきことがある。
 すっと両手を上げると、自分の両頬の横にセットして。
「りゃぁっ!」
 バッチン!と大きな音がするくらいに力いっぱい叩いた。これには向こうも驚いたらしく、大急ぎで駆け寄ってきた。
「何してるんですか! ああもう、手形がついてます」
 じんじん痛む頬を撫でてくれる手に温度があって、道後はこれが夢ではないらしいことが判った。
 どうやら、本当に和倉がいるらしい、と。
「ななお、せんぱぁい……」
 じわっと零れた涙が、頬と和倉の手を濡らす。何でいるんですか、とか色々聞きたいはずなのに、言葉よりも先に涙が出てきてしまった。
「泣かせるつもりじゃなかったんですが……。サプライズが過ぎましたかね」
 あとからあとから流れる涙をある程度拭うと、和倉は道後に鍵を開けるよう指示した。そういえばここがまだ外なことを思い出し、少しだけ恥ずかしくなりながら和倉を部屋に上げた。
「七緒先輩、何でここに? てかてかてか、いつ帰るんですか? 終電まではまだちょっとありますけど、ここ駅から遠いんで時間気をつけねーと」
「もう帰る話ですか? まだ会って十分も経ってないのに」
「だってだってだって! 明日も仕事っすよね?」
「いえ、その心配はありませんよ」
 どういうことだろう、と首を傾げると、和倉はふふと笑いながら、割とびっくりすることを言い出した。
「七日分、有給取ってきちゃいました」
「えぇっ!?」
「今まで全然使ってなかったので、丁度いいかなと」
「いやいやいや、風邪とか引いたらどうするんすか!」
「そもそも、有給消化を体調不良オンリーで行うこと自体がおかしいんですけどね」
「いや、まあ、確かに……そうっすけど!」
「だって一六くんに会いたくなっちゃったんですから、仕方ないじゃないですか」
「ふぇっ」
 とっ、と距離が詰められ、和倉の顔が近くなる。かたりと傾けられた眉が、いかにも寂しいなぁと言わんばかりで、道後は正直嫌な予感がした。
「一六くんは、こんなわがままな僕のことなんか嫌いになっちゃいますか……?」
「なりません寧ろ好きです!」
「ふふっ、やったぁ」
 今日も今日とて【百万ズルい】を押したくなったが、まあ今日も今日とてそんなボタンはない。
 やってしまった、と思っている間に、和倉は道後の手を両手で包んだ。
「一六くんは頑張り屋さんです。どんなに忙しくても家のことを疎かにしたりしないし、仕事にだって一生懸命です」
「あ、ありがとうございます……何か、恥ずかしいです」
「でも、だからこそ、時々気になるんですよ。無理してないかなって」
 じっとこっちを見つめる眼差しは、本当に心配そうに揺れていた。
「偶には甘えてください。いつも僕ばかり、甘やかしてもらってますから」
「甘やかしてるっていうか、俺が七緒先輩にしたいことしてるだけなんで、気にしないでください……」
「僕には甘えたくないですか?」
 そんなわけない、けれど。道後はぶんぶんとかぶりを振ると、和倉の肩に額を押し付けた。
「……じゃあじゃあじゃあっ、……キス、したいです」
「……」
 反応がなくて、じわりと怖くなってきた。いくら甘えていいと言われたからって、ちょっと調子に乗りすぎたかもしれない。和倉から離れると、道後は誤魔化すように笑った。
「な、なんてダメ、っすよね、すいません……」
「……したらいいと思いますよ」
「い、いいんですか!?」
「甘えてくださいって言ったのは僕ですし。……それに」
 唇が今にも触れそうな距離で、和倉の瞳が細められる。

「僕も一六くんからのキス、ほしいですから」

 ――こんな距離でそんな言葉を言われてしまったら、実行するのに一秒だってかからない。
 噛みつきたくなる気持ちだけ抑えて、唇を塞ぐ。触れ合うだけのキスを繰り返していると、誘うように唇が開かれた。くらくらするほどの渇望に耐えられず、白くなりかかった頭で和倉の舌先を味わった。
 はっ、と荒い息を吐きながら、目を合わせた。潤んだ瞳に、淡く色づいた頬に、どうしようもなく昂ぶる。思わず服へ伸ばした手を、柔く掴まれた。
「ダメですよ。……まだあーげない」
 からかうような響きに、頭が一瞬で冷えた。自分は社宅で何をしようとしていたと言うのか。半分くらいは煽られた所為だと言えるけど。
「す、すいません! あの、えっと、ここ社宅で、そのっ」
「……ふふっ、まあ帰るまではお預けということで」
「は、はい……」
 危ない危ない、と口に出して戒めていると、和倉の唇が耳元に寄せられた。
「その代わり、帰ったらたっぷり可愛がってくださいね……?」
「っっっっっ!?」
 瞬間湯沸かし器といい勝負なくらい一瞬で沸騰した顔で振り向くと、和倉は愉しそうに笑った。
「君、もしかしてあの時もそんな顔してたんですか?」