何がというわけではないけれど、ただ一言にするなら、すごく疲れた。
 帰ってくるなり、和倉は玄関に座り込んでため息をついた。体を休める為にしなければいけないことは沢山あるのに、どれも今やるのは億劫だ。
 鍵と扉が開く音がしたのに、上がってこないのを不思議に思ったのか、部屋から道後がぱたぱたと駆けてきた。
「七緒先輩? 帰ってきたん……ですよね?」
「あぁ、一六くん。ただいま帰りました」
「お、お帰りなさい……ってかてかてか、大丈夫すか!? どっか辛いっすか!?」
「いえ、ただちょっと疲れちゃっただけですよ」
「そっすか……。今日もお疲れさまですっ」
「ふふっ、ありがとうございます」
 心配そうに見つめていた道後だったが、ふと和倉の手を取ると軽く引いた。立ち上がらせようとしているけれど、意思を確認していないから本気ではない、という具合の力だ。
「とりあえず風呂入りましょ。俺、頭洗いますから」
「え」
「あ、あの、やだったら、やんないっすけど」
 ちらっと目が合って、慌てて逸らされる。何だか介護っぽいが、折角の申し出を断るのも心が痛むし、それに髪を洗ってもらえるなら大分手間が省ける。
「お願いしてもいいんですか?」
 きゅ、と手を握り返せば、至極嬉しそうに「はいっ!」と返事された。
 少しだけ頑張ってスーツをハンガーにかけてから、薄着のまま風呂場へ向かう。道後はひと足先に風呂に入ったそうだから、ズボンだけまくって入るのかと思っていたら、まさかの全裸だった。濡れないように気をつければいいとか、そういう考えは全くないらしい。こういう時は思い切りいいよなぁ、と妙なところを感心した。
 風呂場の椅子に腰かけると、道後がシャワーとシャンプー片手に後ろへ回った。
「じゃ、行きまーす」
「お願いします」
 返事をすると丁度いい温度のお湯がかけられ、髪全体がびしゃびしゃになった。次いでシャンプーを手に取ると、わしわしとかき混ぜられていく。
「痛くないですか?」
「ええ、大丈夫ですよ。寧ろ気持ちいいくらいです。シャンプー上手になりましたね」
「あれからちょっと気にするようにしたんで!」
 えへん、と聞こえてきそうな声音に、つい笑ってしまう。以前一緒に風呂に入った時、髪を洗ってもらったのだが、その時は力加減も指の腹で洗うことも判っていなくて、少し痛かった。それから比べると、目覚ましい進化だ。
 髪を丁寧に濯ぐと、シャワーが止まる。
「よし、終わりました!」
「ありがとうございました。あとは頑張ります」
「はいっ! あ、七緒先輩、湯船入りますか?」
「うーん……、そうしたいのは山々ですが、今入ると沈んじゃいそうなんですよね」
「そ、それヤバいっすね……。なら」
 言葉を途中で止めると、道後が先に湯船に入った。少し狭かった浴室が、適当な広さに戻る。
「俺、ここにいるんで。体洗ったら、俺の前どうぞっす!」
「……なるほど」
 支えてくれる、ということらしい。体を洗い終えると、勧められた通りに道後の前に座った。背を向ける形になったが、こうでもしないと成人男性二人は入れないから、仕方のないことではある。思い切って背中を預けてみると、抱きしめるように腕が回された。
「……はぁ……」
 再びため息が零れたが、今度はさっきとは違って、心地よさから出たものだった。どうも冷たい気がしていた足先まで、じんわりと温まっていく。風呂で眠ってしまう修善寺の気持ちが、今更判ったような気がした。
 暫くのんびりとお湯に浸かってから、和倉は少しだけ首を捻って後ろの道後に声をかけた。
「そろそろ上がりましょうか」
「あったまりました?」
「ええ、充分に」
 にこ、と笑えば、それが本心であることが伝わったらしく、ざばりとお湯から上がった。
 用意されていたバスタオルで体を拭いてから、とっととパジャマに着替えてしまう。髪を乾かしていると、一度洗面所から出ていた道後が戻ってきた。
「七緒先輩、ご飯って食べました?」
「……食べてないですね」
「じゃあ、用意しときますね!」
 実は昼から食べていなかったのだが、そこは隠蔽することにした。
 ドライヤーを止めてから、リビングへ近づいていくと美味しそうな匂いがしてきて、体が急に空腹を主張し出した。さっきまではあんなに大人しかったというのに、ご丁寧にお腹まで鳴っている。バレませんように、と口の中で呟く。
「もうちょいであったまるんで、先味噌汁飲んでてください!」
「いただきますね」
「どうぞっ」
 テーブルの上にぽつん、と置かれていたお椀と箸を取ると、一口飲む。温かな味噌汁が空っぽの胃に落ちて、ゆっくりと体内を温めた。同じように作っているはずなのに、何でこんなに美味しく感じるのか、未だによく判らない。同じ味噌に、同じ顆粒出汁、場合によっては同じ具材の時だってあるのに。
「お待たせしましたっ! 今日は肉じゃがっすよー!」
「肉じゃが、ですか」
 メニューを聞いて、思わず顔がほころぶ。初日からしっかり味の染みた道後の肉じゃがは、和倉の好物の一つだ。お肉は別に決まっていなくて、牛肉の時もあれば鶏肉の時もある。因みに、今日は豚肉らしい。
 熱々のじゃがいもを口に運べば、中心部までつゆが染みていて、ぼんやりと「ハッピーだなぁ」なんて思った。
「美味しいです」
「えへへっ、良かったです!」
「でも、毎回よくこんなにちゃんと染みますね。結構煮ているんですか?」
「そんなには。太子に聞いただけなんで、俺仕組みとかはよく判んないっすけど」
 ご飯はまだだったようで、正面で同じように肉じゃがを頬張りながら、道後が説明する。
「何か煮物って、冷める時に味染みるらしくて。煮えたら冷まして、食べる時にあっためたら、出来立てなのにしみしみの肉じゃがの完成です!」
「そうなんですか。流石太子くん、よく知ってますね」
 空腹も手伝って、いつもより少しだけぱくぱくと食べてしまう。あっという間に完食すると、促されたわけでもなく手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでしたっ!」
 お腹も満たされ、疲れも大分和らいだけれど、ふと時計を見ればそろそろ寝た方がいい時間だった。残念ながら明日も明後日も仕事で、休みの日はまだ遠い。折角回復したのに、まためげてしまいそうだ。とりあえず歯磨きだけして寝支度を整えると、道後の方をちらりと見た。
「あ、七緒先輩もう寝ますか? お休みなさいっ」
「……あの、一六くんはまだ寝ないんですか?」
 お休みなさい、とあっさり見送られてしまい、急に寂しくなった。別に今からどこかへ行ってしまうわけでもないのに、おかしなことだ。もごもごと尋ねると、道後は目をぱちぱちさせてから「そっすねー」と返した。
「俺、片づけ残ってるんで。終わったら寝ます」
「……なら、僕も手伝います」
「え、いいっすよ! 七緒先輩、今日すげー疲れてたし、明日も仕事じゃないですか! 早く寝た方がいいです」
 そんなの判っている。だからこれは、ただのわがままだ。
 和倉はパジャマの裾をぎゅっと握ると、俯きがちに呟いた。
「……いっしょに、寝たいです」
「え……」
「抱きしめて、ほしくて」
 呟いたそばから恥ずかしくなってきて、唇を結ぶ。顔を上げられないから表情を窺うこともできなくて、視界に入る足だけをじっと見ていた。
 ぺた、と足が一歩踏み出したと思ったら、物凄い勢いで近づいてきた。後退りするよりも早く、ぎゅぅっと抱きしめられて、ぱちぱちとまばたく。
「すぐ、終わらせるんで。待っててください」
「は、はい……」
 腕が離れて、道後は宣言通りの素早さで台所を片づけ出した。コンロ周りを軽く拭いて、シンクを流して、布巾類を洗濯機まで持っていって。手出ししない方が良さそうだな、と思うくらいの手際の良さで、恐らく最短タイム更新だ。計ったことないから知らないけど。
「お待たせ、しました」
「……いえ、全然」
 本当にね。
 二人でベッドまで行くと、先に道後が横になった。ずいと体を動かして隣にスペースを作ってから、少しだけ遠慮がちに腕を広げた。
「ど、……どうぞ」
「……はい」
 もそもそと布団に入ると、腕の中に身を寄せた。ゆっくり伸ばされた手が背中に回って、ゆるやかに二人の隙間を減らしていく。ぴったりと体が合わされば、心臓が随分と早鐘を打っているのが聞こえて、見かけよりもずっと緊張していると知って微笑んだ。
「……心臓、大分ばくばくしてますね」
「し、仕方ないじゃないですか……。そ、そういう七緒先輩だって、ばくばくしてるじゃないっすか」
 くっついた胸からバレているのが判って、少しだけ恥ずかしくなったけれど、それこそ【仕方ないじゃない】か。今度は和倉の方からしがみつくように腕を回せば、ぴくっと体が跳ねた。
「……不思議です。君とくっついているとこんなに落ち着くのに、こんなにどきどきしてしまうんです。何でしょうね、この矛盾」
「ドMなんですかね俺たち……」
「雰囲気ぶち壊しですね」
「すいません!」
「ふふっ……、いいですよ、別に。ちょっと元気になりました」
 ありがとうございます、と言えば、「どういたしまして? あれあれあれ?」と困惑した声が聞こえた。
 心地いいぬくもりの中、和倉は一つ欠伸をした。
「……もう寝ましょ、せんぱい」
「……はい。お休みなさい、一六くん」
「お休みなさいっ」
 同じ言葉なのに、今度はもう、寂しくなかった。