調理台に弁当袋を置いて開き、弁当箱を取り出す。殆ど使わない為に綺麗なままの流しに、弁当箱がある光景は違和感しかなかった。妙な絵面だ、と思いながら弁当箱を分解していく。
まずはバランとカップを捨てようとゴミ箱の上へ持って行ったところで、ふと気づく。紙でできたカップに紛れて、何だか様子の違うカップが入っている、ような。
該当するカップをそっと摘んでみると、ふにゃりと曲がった。シリコンか何かでできていそうだ。洗えば再利用できるものだろうか。
これは捨てたら不味いんじゃないか?
「……くそ、聞いておけばよかった」
或いは、食べた時に気づけばよかった。とは言え、過ぎたことを言っていてもしょうがない。銃兎は携帯を手に取ると、彼女へ向けてメッセージを飛ばす。カップを写真に収め、送信したのちにメッセージを添えた。
《すみませんが、これは洗ってお返しすべきでしょうか?》
返事が来るまでにと弁当箱を洗っていると、携帯がメッセージの受信を知らせてきた。濡れた手を拭き、画面を操作する。
《洗っていただけると助かります! お手数をおかけしてごめんなさい……》
やはり再利用できるものだったようだ。他は言及されない辺り、カップ以外は捨てても問題なさそうだ。
《判りました。わざわざありがとうございます》
業務連絡はこれで十分だ。十分、だけど。
銃兎はほんの少しだけ考えてから、メッセージを付け足した。
《お恥ずかしい限りですが、弁当箱に触るのが久しぶりだったもので、捨ててしまうところでした。今はこんなカップがあるんですね》
送ったそばから既読がつき、すぐに返事が来た。
《そうなんです。でも、知らなかったらそのまま捨てちゃいますよね》
《危ないところでした。ゴミ箱の上まで持って行っていまして》
《それは危なかったですね……! ところで、入間さんは普段お昼ってどうされてるんですか?》
弁当箱に触ったのが久々、という発言を受けてか、彼女から質問が投げられた。どう答えようと一瞬だけ考えて、別に取り繕うこともないかと考え直す。
《普段は外で食べるか、コンビニで何か購入することが多いですね。そもそも自炊をあまりしないので》
《やっぱりお仕事お忙しいんですか?》
《料理に時間を割くのが惜しいくらいには忙しいですね》
《そんな中お手数おかけしてごめんなさい……》
しまった、地雷踏んだか。どう見ても落ち込んでいるメッセージを見つめ、銃兎は少しだけ急ぎ気味に返事を打ち込む。
《今はマシな方なので大丈夫ですよ》
《そうなんですか?》
《はい》
嘘は言っていない。ブタ箱の左馬刻から呼び出される以外に大きな事件もない、比較的平和な日々を送っている。嵐の前の静けさでないことを祈りたい気分だ。
《今のところは変更もないので、明日お持ちします》
《ありがとうございます。では、お願いします》
最後に彼女の方から可愛らしいスタンプが飛んできて、やり取りが終わった。電源を落として携帯を放ると、カップにも泡をつけて綺麗に洗い始めた。
そう言えば、この前は【最初で最後】のつもりで連絡したのに、と思い出す。
「……手土産の一つでも持っていくか」
洗い物を終え、車のキーを掴む。甘いものでもしょっぱいものでも、美味しいものならきっと喜ぶだろう。何か良いものはあったかと思案しながら、銃兎は家を出た。
昨日の駅に立ち寄り、カメラのデータを受け取ったあと、いくつかのポイントに立ち寄った。昨日持ち帰れた分の映像から割り出した情報の裏を取っていく。今日回収できた分も合わせれば、被疑者の足取りがかなりはっきりと浮かび上がるはずだ。
「銃兎さん、今日はどうされますか」
ハンドルを握る部下に尋ねられ、時刻が昼時に差し掛かっていたことに気づいた。大体あの公園にいると言っていたから、もう着いているかもしれない。
「昨日と同じでも構いませんか?」
「承知しました。……実は、昨日行った店が中々美味くて。また行きたいと思っていたので助かります」
「そうでしたか。それは良かったです」
どうやら、頼んだ丼がかなり美味しかったらしい。今日も同じものを頼むか、気になったがやめたものを頼むか悩んでいる、と笑っていた。少し気になってきたが、食事時を邪魔するわけにはいかない。もし銃兎が「ご一緒します」と言っても断りはしないだろうが、喜びもしないだろう。上下関係というのは得てしてそういうものだ。
店の駐車場で部下と分かれ、昨日の公園へ真っ直ぐ向かった。遊歩道を進むと、同じベンチに腰かけている彼女を見つけた。
「こんにちは」
「入間さん! お疲れさまです」
慌てて立ち上がろうとする彼女を手で制し、銃兎は弁当箱の入った手提げバッグを渡した。
「昨日はありがとうございました。とても美味しかったです」
「いえいえ、こちらこそありがとうございました。お口に合って何よりでした」
「それと、心ばかりですが」
「え?」
小さな紙袋を差し出すと、彼女はきょとんとした表情を浮かべた。なんで?と顔に書いてある。なんでも何もない。
「お口に合わなければ捨てていただいても構いませんので」
「……えっ、いえそんなことしません! あの、もしかしてわざわざ?」
「わざわざ、というわけでは。用があったので、そのついでです」
嘘だ。だが、彼女が知るはずもない。この方が素直に受け取ってくれると判断したまでだ。何となく、彼女のポイントが判って来たような気がする。
案の定、彼女は判りやすくほっとした顔になった。受け取った袋に書かれた店名を見て、わぁと頬をゆるめた辺り、知っている店のようだ。この様子なら口に合わないということもないだろう。
「ありがとうございます、大事にいただきますね。……あの、入間さん。今日はお昼食べましたか?」
「今日ですか? いえ、まだ」
「えっと……実は、おにぎりを余分に作って来てて。お返しのお返しみたいになってしまって恐縮なんですけど、良かったら一緒に食べませんか?」
彼女からの提案に、「なんで」が頭を巡る。彼女と違って顔には出していないつもりだが。
彼女は少し視線を彷徨わせてから、付け足すように口を開いた。
「……入間さん、『お弁当が久しぶりだった』って仰ってたじゃないですか。私も同じで、誰かにご飯を食べてもらうの久しぶりだったんです。自分が作ったもの、美味しいって食べてもらえて……凄く、嬉しくて」
瞳が柔く細められる。嬉しかったと、思い出すように。嬉しいと、滲み出すように。
――心臓が、強く音を立てた。
「だから、つい勢い余ったというか、また食べてもらえたらいいのなぁと邪な心を抱いたというか……よ、よく考えたら普通に迷惑ですよね!? ごめんなさい!」
畳み掛けられた言葉に、鼓動が正常に戻った。はぁ、と小さくため息をつくと、彼女を見遣る。見られていることに気づかないほど慌てた彼女は、荷物をかき集めてから立ち上がった。
「じゃ、じゃああの、そういうことで……!」
「待ってください。どういうことで、ですか?」
「えっ……と……」
少し青くなりながら銃兎を見上げてくる彼女に、ふっと笑みが零れた。遠慮がちなんだか違うんだかよく判らない人だ。大体、普通は「邪な心を抱いた」なんて素直に言わないだろうに。
「先程も言いましたが、お昼まだなんです。良かったら頂けませんか?」
「い、いいんですか……?」
「はい。御白木さんの料理を頂けるなら、」
嬉しいので、と続けそうになって一度止まる。……嬉しい?
ふと部下の顔を思い出した。いい店を見つけたと喜ぶ彼を。この感情は、それと同じだろうか。美味しいものを提供してくれる存在を得たことを喜ばしく思っている――そういうことだ、きっと。
「……助かりますので」
胸の内など知る由もなく、彼女は嬉しそうに微笑んで「ありがとうございます!」と返してきた。何もお礼を言うようなことはないのに。
「……あ、ちゃんとラップ使って握ってるので! 素手ではないので、衛生面は問題ないかと!」
「ふふ、お気遣いありがとうございます」
「いえいえ。それじゃあ、どうぞ」
「どう……は?」
渡されたおにぎりを前に、固まる。
でかい。凄く、でかい。あと重い。
銃兎の手よりも大きい上に、中々の重量感のある黒い塊をじっと眺めてしまった。それから彼女の手へ視線を移す。どう見ても、銃兎より一回りか二回りは小さな手だ。どうやってんだこれ。
いつまでも食べない銃兎を不思議に思ったのか、彼女は首を傾げた。咀嚼を早め、口の中を空にしてから話しかけてくる。
「どうかしましたか?」
「いえ、あの……。随分、大きいなと」
「もしかして入間さん、爆弾おにぎり食べたことないですか?」
「爆弾、おにぎり」
「爆弾おにぎり」
「……ない、ですね」
「そうでしたか。なら、驚かせてしまってごめんなさい」
彼女曰く、とにかく色々なおかずを詰めて海苔で包んだおにぎりらしい。おにぎりと言えば具が一つだけ入っているものしか知らなかったが、こういうものもあるのか。爆弾の名に相応しく真っ黒なおにぎりに、恐る恐るかじりついてみる。
「……!」
「どうでしょう……?」
――美味い。ひとまず浮かんだのはそれだった。
食べ進めていくと、一口ごとに味が違う。初めは鮭、次はおかかと割とスタンダードなものだったが、段々から揚げや卵焼き、アスパラの炒め物、レンコンのきんぴらとおかずらしいものへ変わっていった。どれもそのまま握り込まれたのではなく、一口大に切ってある為に食べやすい。巻かれている海苔はしっとりとしているが歯切れが良く、一部だけが引っ張られてきてしまうこともなかった。
どのおかずも所謂【普通の味】なのに、どうも美味しい。店で食べるものとは全く違う感覚だ。何となく肩の力が抜ける、というか。
「美味しいですね」
「良かったです! これってお弁当の中身を全部入れちゃうので、後片付けが楽なんですよ」
「なるほど。……随分大きいですが、よく上手く握れますね」
「ふふふ、裏技があるんです」
どこか誇らしげに笑うと、彼女はもう一口おにぎりにかじりついた。
裏技、か。銃兎は自分の手のひらを眺めた。どう見たってこちらの方が大きく広いはずなのに、できる気がしない。
「御白木さん」
「はい?」
どんな裏技があるのか知りたくて声をかけると彼女は、ぱちぱちとまばたいた。それから、とっておきの秘密でも話すように作り方を教えてくれた。
雑談がゆっくりと、しかし確実に行き交う。
彼女は件の丼物屋のことを知っていた。「夜にしかない牛すじ丼が美味しいんです!」と力説された。牛すじ丼の美味しさを全力で説明する姿は微笑ましく、にやけていないか不安になって口元を隠した。
仕事とは言え、こんなに遠くに来なければいけないのかと聞かれた。確かにヨコハマの都市部からは離れているが、そこまで遠くはない。車ならあっという間だと答えると、恥ずかしそうに「……そうですか」と呟いていた。電車で考えていたらしい。それなら遠い。
あのお見合いから、絵画について少しだけ勉強し始めたらしい。「いつか美術館にも行ってみたいんですけど……」と気後れした様子だったので、そんなに怖いところではないと励ました。
お礼に持って来たお菓子を開封し、銃兎にも分けてくれた。一度は遠慮したが、昨日と同じように押し切られた。「ここのマドレーヌ、すっごく美味しいじゃないですか!」とこちらが知っている体だったので、一応そうですねと答えてしまった。初めて食べるとは言えなかった。人気があるなら外れはないだろうと当て推量したことは伏せておこう。彼女の言う通り、「すっごく美味し」かった。
今日も今日とて腹八分目になったところで、丁度おにぎりが食べ終わった。
「ごちそうさまでした。今日もお世話になってしまって、申し訳ありません」
「こちらこそ。お粗末さまでした」
またお礼をすべきだろうか。それとも、エンドレスになりそうだからやめておくべきか。少し考えながら、銃兎は立ち上がった。
「それでは、失礼します」
「あ、はい。お疲れさまです、行ってらっしゃい」
彼女もならうように立ち上がると、はにかみながら銃兎に見送りの言葉を向けた。行ってらっしゃい、か。やけに懐かしく感じる言葉だ、本当に。
「ありがとうございます。御白木さんもお疲れさまです」
踵を返しかけて、止まる。
誰かに料理を振る舞うのが久々だと言っていた辺り、恐らく一人暮らしだ。もしそうなら、「行ってらっしゃい」と見送られるのも久々だったりしないだろうか。考えて、だからどうしたと嗤う。例えそうだとして、自分が言ってどうなるというのか。
――どう、なるんだろう。
「……入間さん?」
いつまでも立ち去ろうとしない銃兎を見上げ、彼女はぱちぱちとまばたいた。迷惑とは思ってなさそうだが、どうしたのかなとは思っていそうな顔だった。とっとと行くぞと頭では考えているのに、心がどうも落ち着かない。
「……」
もう面倒くさい。言え、じゃあ。
「……行ってらっしゃい」
「!」
頬が僅かにじわ、と熱を持った。別におかしなことを口走ったわけでもないのに。
ちらりと彼女へ視線を向ける。怪訝な顔でもされたらどうしてくれようかと思いながら。
「……行ってきますっ!」
光り輝くように、喜びを瞳から溢れさせるように、彼女は笑っていた。
何をそんなに嬉しそうなんだか、よく判らない。だが、言ってみたらこうなったことに対して、何となく満足感を得ているのは事実で。
「……それでは」
今度こそ踵を返し、彼女が「はい!」と返事する声を背中で聞く。きっとまた笑っているんじゃないかと思ったけれど、確認することはできなくて、銃兎はそのまま公園を後にした。