銃兎が署内を歩いていると、後ろの方からガラガラと音がした。清掃道具を乗せたカートの音だ。
それに気づくと、傍目には判らない程度に歩く速度を落とした。
「銃兎くん、おはよう」
「おはようございます。今日もお疲れさまです」
親しげに挨拶してきた老年の男性に、銃兎はにこやかに返した。
彼とは、銃兎が警察官になったばかりの頃からの付き合いになる。当時配属された交番の近くに住んでおり、通りがかる度に声をかけてくれたことから交流が始まった。清掃員をしているとは聞いていたものの、まさかヨコハマ署のだと知ったのは、銃兎が実際に署に配属されてからだったが。
「最近休めているかい。何だか毎日姿を見るような気がして心配だよ」
「ご心配には及びません。それに、私の姿を毎日見るというのであれば、そちらも毎日出勤していることになりますよね?」
「あはは、一本取られたか」
「……下の者に任せてもいいはずですが」
「いいんだよ。時間はいくらでも融通が利くから」
「呉々も、無理だけはなさらないでください」
「……うん。ありがとう、銃兎くん」
清掃員はふっと微笑んでから、「あぁそうだ」とポケットへ手を入れた。
「これ、銃兎くんに会えたら渡そうと思っていたんだ。会えてよかったよ」
「これは……?」
薄い封筒を差し出され、何かと思いながら受け取る。本来であれば受け取るべきではないが、彼に限って銃兎が不利益を被るようなものを渡さないだろう、という信頼の下。
ぱっと裏返すと、そこには気に入っている美術館の名前が印字されていた。
「確か銃兎くん、美術館とか好きだったよね? 行こうと思っていたんだけど、都合がつかなくなってしまってね。よかったら、もらってくれないかな」
「そうですが……、宜しいんですか?」
「折角買ったのに、紙切れにしちゃうのも勿体ないから。銃兎くんの都合がつくなら行ってくれればいいし、売り払ってもいいから」
「売り払いはしませんよ。……ありがとうございます」
「いいえ。それじゃ、今日も頑張って」
「はい」
深く一礼すると、彼は照れたように笑いながらカートを押して行った。車輪の音がいなくなってから、銃兎はデスクに向かった。
椅子に腰かけると、中身を改める。封筒に印字されている通りの名前が書かれたチケットが。
「……二枚?」
予想していなかった枚数に、銃兎は数度まばたいた。そう言えば妻がいると言っていたから、二人で行こうと思っていたのかもしれない。
さて、どうしたものか。
別日に回して二回行く、という手を使いたいところだが、チケットの期限がある。休みと照らし合わせてみたが、どう足掻いても二回は行けそうにない。
誰かを誘うしかないが、まあ上司と部下はない。銃兎が上にしろ下にしろ接待じみてしまう。左馬刻もない。煙草が吸えないことに苛立ちそうだし、そもそも美術館に連れて行きたいとも思えない。理鶯は、どうだろう。頼めば来てくれそうな気はするが。
――ふと、彼女の姿が浮かぶ。
そう言えば、美術館に行ったことがないと言っていた。このチケットを使えばタダで行けるし、それなら気軽に行ってみようと思えるかもしれない。一度行ければ二度三度は易しくなると思う。気後れしていることだけが理由なら尚更。折角絵画に興味を持ってくれたなら、美術館にも行けた方が見られる作品の幅が広がるし、悪くない話のはずだ。
小さく息をつくと、メッセージアプリを起動した。とん、と彼女の名前をタップし、メッセージを打ち込んでいく。
挨拶と労い、チケットを譲り受けたこと、そのチケットが余っていることを書いた上で誘う言葉を並べる。チケットの出処が判っていれば、例え断るとしても心苦しくないだろう。
ポン、とメッセージが送信されたが、すぐに既読にはならない。時間が時間だ、もう始業時間なのかもしれない。携帯を手放すと、銃兎は書類の整理を始めた。
「――。――さん? 銃兎さん」
「っ」
部下に呼ばれ、銃兎は少しだけ驚いた。
ふと時計を見ると、始めてから三時間が経っていた。随分集中していたらしい。嫌になるほど溜まっていた書類の山も、気づけば三分の一まで片付いていた。
「すみません、何か?」
「大したことでは。少し出ます、って声かけたんですけど……返事がなかったので」
「それは申し訳ありません。行ってきてください」
「はい」
部下を見送ってから、銃兎は軽く体を伸ばした。ぱきり、と骨の鳴る音がする。ずっと同じ姿勢でいたのだから当然か。
ふと、携帯のランプが点滅していることに気づく。何らかのデータ受信があった証だ。携帯を拾い上げると、画面を操作する。即座に明るくなった液晶に表示されたのは、彼女の名前だった。予め内容を知っておこうと通知欄を覗いたものの、上手く受信できなかったのか何だか知らないが無機質に【新着メッセージがあります】とだけ書かれている。つまり開けなければ内容は全く判らない。お断りの文句が書かれている可能性も、十分ある。
銃兎は静かに息を吐いてから、できるだけ何気なくメッセージアプリを開いた。
《こんにちは、今見ました! お疲れさまです。
私で良ければご一緒したいです!
でも、美術館って行ったことがなくて……ご迷惑じゃないでしょうか?》
返ってきていた言葉が断りのものではないと判って安堵した。迷惑であれば誘うことはないし、そもそもこちらも行ったことがないのは知っての行動だ。気にする必要はない。
そんな文言を並べてから、予定を詰めていく。向こうに行く気があろうとも、休みが合わなければどうしようもない。流石に休ませるわけにはいかないだろう。
今度は見ていたのか、割とすぐに既読がついた。どうやら休みは合っているようだったので、時間と待ち合わせ場所――現地集合で良いとのことだった――を決めれば、あっという間に終わってしまった。
《楽しみです!》
最後に飛んできたメッセージを見つめ、ふっと笑みが零れた。彼女は一体どんな反応を見せてくれるだろう。堅苦しいイメージはあるかもしれないが、楽しんでくれたらいい。感情が顔に出る彼女のことだから、胸を打つようなものがあればすぐに判りそうだ。
彼女がわぁ、と瞳を輝かせるさまを想像して、何を考えているのかと即座に打ち消した。
「……早いな」
車を停めてから待ち合わせ場所へ向かうと、彼女は既に来ていた。きゅっと唇を引き結び、殆ど動かない様から緊張のほどが窺えて、銃兎は苦笑いした。
「こんにちは。お待たせして申し訳ありません」
「ぜ、全然! 今日は声をかけてくださってありがとうございます」
「いえ、こちらこそ来ていただけて助かりました。……少し早いですが、行きますか」
「は、はいっ!」
ぴんと背筋を伸ばした彼女が強ばった表情になる。楽しみなのは本当だろうけれど、どうしても緊張はするらしい。ふ、と笑い、「大丈夫ですよ」と声をかける。
「度を超えた物音を立てたり、撮影禁止エリアで写真を撮ったり、周りの迷惑になるような行為を慎んでいただければ、誰も怒りはしませんから。私も近くにいるつもりですし、落ち着いて見て行けば問題ありませんよ」
「え……でも、入間さんの見るペースとかありますよね? 私に合わせていただくのは……」
「構いませんよ。それに以前言ったでしょう、『美術館は怖いところではない』と。それをお伝えするのも今回の目的の一つですから」
気にするなと含めると、彼女は詰めていた息を吐いた。その様子に、何となく幼い頃の自分が重なる。期待半分、緊張半分でどぎまぎしていた自分を両親が励ましてくれたことを思い出し、銃兎は少しだけ迷った挙句に彼女の肩をポンと叩いた。
「行きましょう。あとで感想を聞かせてくださいね」
「……はい。宜しくお願いしますっ」
僅かに緊張が解れたようで、彼女は大きく頷いてくれた。チケットカウンターで受け付けを済ませ、入館する。まずは企画展の方から回っていくことに決め、彼女を手招きして呼び寄せた。
静かな館内に、靴音と幽かな物音だけが響く。
現実の何もかもが遠く、美術品だけが在る。絵画や彫刻の傍には作者名とタイトル、時折それが生み出された時の話が添えられているが、正解は書かれていない。だから想像する。どんな思いを持って描かれたのか、何を伝えたかったのか。勿論ぼんやり眺めるだけのこともある。何も考えず、目の前の作品から受けた印象や感情を、ただ受け入れていく。考えて感じて、芸術の【海】へ揺蕩う感覚を味わう。
並ぶ絵画を見つめながら、ふと彼女の方へ目を向けた。
「……」
「……、……!」
恐ろしいモチーフは怖がりながら、緻密に描かれた色彩は驚きながら、美しい景色は頬を緩めながら。彼女は予想した通り――いや、予想よりもずっと多彩な感情を浮かべていた。
彼女は彼女なりに、この【海】を楽しんでいるらしいと知れて、何となくほっとした。ペース配分もそれほど差があるようではないし、そこまで気にせず見て行っても問題なさそうだ。
ゆっくり、ゆっくりと進んでいく最中、波の音が聞こえた気がした。不意をつかれたように、足を止める。
「…………」
それは、朝の海を描いたものだった。
最下部は黒に限りなく近い濃い紺色で、それが上がるにつれて深い青へ変わっていく。最上部で揺れる太陽は黄色く輝いていて、揺れる水面を同じ黄色に染めていた。まだ夜を残しながら静かに明けていく、そんな海。
「……あ……」
同じ絵の前で、彼女の足も止まった。声になったことにも気づいていないのか、薄く唇が開いたままだ。じっと、食い入るように絵を見つめている。
――どれくらい時が経ったのか。
数分だったような、数十分だったような不思議な感覚の中、彼女がはっとしたように銃兎を見上げた。付き合わせているのを思い出したらしい。すみません、と唇を動かし、何度も頭を下げてから、彼女は少し慌てた様子で歩き始めた。
少しだけ、勿体ないと思ってしまった。
併設されているショップは、展示室と違って程よい賑やかを纏っている。銃兎はひとつ息をついてから、暫くぶりに彼女へ問いかける。
「いかがでしたか?」
「すっごく楽しかったです!」
即座に返された言葉に気遣いの色はなく、きちんと楽しめたことが判って内心安堵した。彼女はにこにこと興奮気味に言葉を並べた。
「芸術に詳しいわけじゃないので、全部判ったかって言われると自信ないんですけど……。でも、すごく楽しくて。私じゃ考えつかないようなモチーフとか、写真みたいな絵とか! あっ、あとコラージュ! 身近なものではあったんですけど、何だかおしゃれな感じで好きだなぁって。それから……! ……あっ」
不意に彼女が口元を押さえた。どうやら喋りすぎたと思ったらしい。ほわりと頬を染め、「すみません……!」と俯く姿につい笑ってしまった。
「本当に楽しんでいただけたようで何よりです。お誘いした甲斐がありましたよ。ふふっ」
「は、はい……。ありがとう、ございました……」
尚も恥ずかしそうに俯く彼女から一度視線を外し、銃兎は壁にディスプレイされたポストカードに目を走らせた。……やっぱり、あった。
「少し待っていてもらえますか?」
「え? あ、はい! 勿論です」
彼女が頷いてくれたのを確認してから、壁から一枚ポストカードを取った。さっとレジを済ませ、彼女へ差し出す。
「入間さん……?」
「差し上げます。今日のお土産に」
「あ……」
彼女が驚いたように瞠る。一番長いこと見つめていた、あの明け方の海の絵。多分、気に入ったのだと思ったから、彼女に渡したくなった。
どういう反応をするのか、見たくなった。
「……お気に召さなければ、捨てていただいて構いませんので」
「そ、そんなことしません!」
思いの外静かな反応に外したかと保険をかけると、彼女は飛びつく勢いで否定した。銃兎からそっとポストカードを受け取ると、柔く微笑む。
「嬉しいです、とっても。ありがとうございます、入間さん」
――また、だ。
「……そうですか。それはよかったです」
返す言葉は平静を装えているだろうか、と不安になった。彼女の反応を見る限りは、装えていたようだが。
「はいっ! ……あの、今日は入間さんに甘えてばかりでしたし、何かお礼をさせてください」
「気になさらないでください。大したことはしていませんから」
「私的には大したことです……! お掃除でも場所取りでも荷物持ちでも数合わせでも、あと私にできるのは……ご飯作ったりとか? ……えぇと、とにかく何でも頑張りますので! 遠慮なく!」
珍しく強めに言い切った彼女に、何とも言えないおかしさが込み上げてきた。律儀なことだ。考えておくと煙に巻くべきだと思う、けれど。
「そうですねぇ……。沢山歩いてお腹がすきましたし、夕食でも奢っていただきましょうか。御白木さんおすすめのお店なら尚良いんですが」
ふっと笑いかけると、彼女はぱぁっと瞳を輝かせた。
「はい! 任せてください!」
どこにしよう、と考え始めた彼女を眺めながら、内心で戸惑っていた。
本当はこのまま解散するつもりだったのに、何となく気が変わってしまった。何となく、もう少し一緒にいてみたくなってしまった。――この心変わりは、何だ。
胸に湧いた微かな靄を振り払うように、銃兎は「ゆっくりでいいですよ」と声をかけた。
――結局夕食代を払ってしまったが為に、「また後日……必ずや……」と呻かれたのは、まあ笑い話である。