自然と瞼が開く。
甘やかな日差しを振り仰ぎながら、今は何時だろうと考える。気だるく携帯を確認すると、午前十時と三分であることを教えてくれた。一応八時には起きようと思っていたはずだが、どうも寝過ごしたらしい。軽く体を伸ばした後、銃兎はベッドから起き上がった。
今日は丸々一日が休日、それも有給休暇だ。突然告げてきた上司曰く――「入間くん、働きすぎじゃない?」と思ったそうで。同じ部署に居れば誰だって知っているようなことに今更気づいた理由も、今気づいた理由も全く判らないが、もらえる物は頂くことにしたのが昨日のことだった。
コーヒーを淹れながら、ぼんやりと一日のスケジュールを立てる。
まずは洗濯、軽く掃除。全部終わらせたとしても一時間程度だろうから、その後ブランチに出かけようか。それからいくつか書店を、いや骨董品店を巡ってみようか。巡回時にちらりと見かけたチーズの専門店、あれにも行きたい。そう言えばこの前見かけた公園も中々雰囲気が良かった。サンドイッチでも買って食べたら、いい気晴らしになるかもしれない。色々な考えが頭を巡って、銃兎は少しだけ困ったように息をついた。贅沢な悩みだ。
淹れたてのコーヒーを楽しんでから、銃兎はさっさと着替えて寝間着を洗濯機へ放り込んだ。まずは洗濯、だ。洗剤を蓋で測っていると、携帯が小さく唸った。スイッチを押してから、たんたんと画面を打つ。通知が表示されていたメッセージアプリを開くと、そこには意外な名前が出ていた。
「……御白木さん?」
スタンプを送信しました、で終わっている通知欄を眺め、珍しいこともあるものだと驚く。銃兎から送ることはあれど、彼女から来たことはないような気がする。何なら初めてなのでは。
たん、とタップし、メッセージを開く。
《代打お願いします》
短い一言の後に、デフォルメされたうさぎが「へるぷ!」と泣いているスタンプが一つ。
「……………………は?」
代打ってなんだ。一旦固まってしまったが、どう見ても誤送信だった。銃兎の今のアイコンは、いつぞやに撮ったヨコハマの夜景だから、まあ被ることもあるだろうし。既読をつけてしまったのはミスだったが、見なかったことにするのが優しさだろう。
とは、思う。思う、けれど。
銃兎は好奇心のまま、返信を打ち込んだ。
《私がお力になれることであれば》
送信。直後、既読。
《ごめんなさい》
《違うんです》
《ごめんなさい》
《ごめんなさい》
ちょっと怖いくらいに謝られている。ある意味想像通りの反応ではある。謝罪の波が引いたのを見計らって、返信を打つ。
《大丈夫ですよ。ただ、何かお困りならお力になれるかと思っただけですから》
《ありがとうございます……お手数をおかけしてごめんなさい……》
《今日は休みなのでお気になさらず。それで、何の代打を頼むつもりだったんですか?》
洗濯機が回る間は手持ち無沙汰で、銃兎は何となく会話を続けた。
《今日知り合いとアフタヌーンティーに行く約束をしてたんですけど……ドタキャン……されまして……》
《それは困りましたね。キャンセルはできないんですか?》
《当日のキャンセルはお金がかかるので勿体なくて……それに私自身は暇ですし。友達が来てくれたらラッキー、来なかったら最悪二人分食べればいいかぁと》
《そんなに食べられるんですか?》
《多分大丈夫です! 写真で見る限り、美味しそうなのでいけます、多分》
「……ふっ。二回言ってるけどな、【多分】」
アフタヌーンティーのセットがどの程度の大きさか判らないので何とも言えないが、一人で二人分食べると言うのは少々大胆な発想だと思った。友人が無事来てくれることを祈るばかりだ。
《お休みのところをお邪魔しちゃってごめんなさい、ゆっくり休んでくださいね》
《ありがとうございます。御白木さんも今度は誤送信しないように気をつけてくださいね》
《大変失礼しました……!》
彼女からスタンプが一つ飛んできて、会話が終わる。銃兎は電源を切ると、仕上がった洗濯物を取り出した。
「……」
まずは洗濯、次は軽く掃除。それから、どうしようか。色々とやりたいことがあったはずなのに、何となく頭の片隅がもやもやする。
彼女は代打を頼めただろうか。それとも、一人で行く覚悟を決めただろうか。別に誘ってくれても良かったのに。
「……あ?」
片隅の靄が、一瞬で脳内へ広がった。洗濯物をハンガーへかける手が止まる。いま、なんて思った?
無意味に洗濯物を眺めながら、銃兎はいやいやと否定する。
彼女だって、元見合い相手より気心知れた友人と出かけた方が楽しいに決まっている。それに休みだと聞いて《お邪魔してごめんなさい》と言える彼女が、銃兎の休みを利用するとは思えない。つまり誘ってくるわけがない。なのになぜ【誘ってくれても】なんて、そんな拗ねたようなことを考えてしまったのか。
深々とため息を吐く。何だか調子が狂いっぱなしな気がする。洗濯物干しを再開したが、気になって仕方ない。彼女はどうしているだろう、と。
――あぁ、情けねぇ。
銃兎は舌打ちを一つ零すと、携帯を手に取った。彼女とのメッセージを開き、感情のままにばしばしと打ち込んで送る。
《お友達はつかまりましたか? もし他に当てがなければ、私が同行しましょうか?》
ぽん、と吹き出しが表示された瞬間、凄まじい後悔に襲われた。何してんだ俺。何やってんだ。我に返ってメッセージを消そうとしたが、そのタイミングで既読がつく。
「……………………」
言葉にならない。誤送信しましたとでも言ってしまおうか。こんなタイムリーな誤送信があるか、畜生。彼女からの返信を待つこの時が、まるで判決を待っているかのように感じる。
《いいんですか!?》
――無罪。イメージ上の裁判官が、高らかにそう宣った。
詳しい話を聞くと、予約の時間は夕方だった。中々予約が取れないらしく、そこしかなかったそうだ。待ち合わせ場所を決めると――今回も現地集合で良いとのことだった――、彼女との会話を終える。
「……掃除するか」
用事ができたのは夕方だ、それまではどうしようか。あまり荷物を増やすわけにはいかないから――と、計画がさらさらとまとまっていく。脳内を覆っていた靄は、いつの間にか消えていた。
「入間さん!」
会場であるホテルへ向かうと、手前で落ち着かなさそうにしていた彼女が駆け寄ってきた。
「外で待っていてくださったんですか?」
「あー……、えっと。一人だとちょっと不安で……なんか、すごい、場違い感が……」
「なるほど」
大衆向けの店とは違う、上質で落ち着いた雰囲気だ。ドレスコードがあるわけではないが、行き慣れていなければ緊張するのも道理かもしれない。銃兎も別に行き慣れているわけではないが、彼女に比べれば足を運んでいる方だろう。まあ捜査で、仕事でだけど。
「そう緊張しなくても大丈夫ですよ。アフタヌーンティーですし、コース料理ほど煩雑なルールはないでしょうから」
「そ、そうですよね! ありがとうございます、行きましょうか」
「ええ」
ひとまず持ち直してくれた彼女に案内され、銃兎は中のカフェへ向かった。全ての席が埋まっていたが、席間が広い為か混雑している印象はない。窓辺の席につくと、彼女がぱっとメニューを広げた。
「入間さん、飲み物どうされますか?」
「そうですね……、ここは紅茶にすべきでしょうか。御白木さんはどうします?」
「うーん……甘い物食べるわけですしコーヒーかなって思いつつ、でも紅茶かな〜……とも思ってます……」
「私も似たようなものですよ。紅茶に詳しいわけでもないですし」
「あっ、そうなんですか? 勝手に何でも知ってるイメージでした」
「ふふっ、流石に何でもは知りませんよ」
「そ、そうですよね……!」
あわあわとメニューへ視線を落とすのを見つつ、今度紅茶について調べてみるかと脳内にメモする。世の中知らなくてもいいことはあるが、知識はあればあるだけいい。
「なんか聞き馴染みがある気がするんで、ダージリンにしてみようと思います。入間さんは……、な、なんで笑ってるんですか」
「いえ。ふふっ、素敵な決め方だなと思って」
「え、えぇ……?」
「ふふっ……、すみません。私も同じものをお願いします」
「はい……」
何となく釈然としない様子のまま、彼女が注文を済ませる。すぐにティーポットが、少し空いて三段のケーキスタンドに乗せられた料理が運ばれてきた。
「うわぁ……綺麗……!」
「ええ。凝っていますね」
上段にはフルーツで飾られたケーキが、中段には美味しそうな焼き色のスコーンが、下段には断面の整ったサンドイッチが置かれている。見ているだけでも満たされるような美しさがあった。
写真を撮るのかと思っていたがその辺りはどうでもいいらしく、彼女はあっさり「いただきます……!」と呟いた。まずはサンドイッチを取り、小さくかじる。
「美味しいです! おたかいパンの味がします……」
「ふふっ。どういう感想ですか、それ」
照れくさそうに笑う彼女へ微笑むと、銃兎もサンドイッチを取った。食パンを四分割したようなサイズだ、一口で放り込めてしまったが、その分ゆっくりと味わう。
パンは市販の物より柔らかく、甘い。彼女が「おたかいパンの味」と言うのも判る。野菜とハムのバランスも丁度良い。特にハムがいい、脂は控えめなのにちっともぱさついていない。朝から食べられたら幸先良いだろう。
次にスコーンを取る。期せずして彼女とタイミングが合った。半分に割り、クロテッドクリームとジャムを塗って一口。
「スコーンあったかいですね。焼きたてなのかな」
「そうかもしれません。……このジャムも美味しいですね、紅茶とオレンジ、でしょうか」
「あ、お口に合いましたか。苦手な方もいらっしゃるから、大丈夫かなって思ったんですけど」
「私は好きですよ。苺やブルーベリーのジャムも嫌いではないですが、こちらの方が好みかもしれません」
「ほんとですか? ふふっ、よかったぁ」
彼女は安心したようにスコーンを頬張ると、きゅっと目を細めた。銃兎がティーポットから紅茶を注ぎ、ついでに彼女の分も注いでやれば「あ、ありがとうございます……!」と慌ててお礼を言ってきた。
「そう言えば、ダージリンは【マスカットのような香り】を持つ紅茶ですが」
「えっ。………………えっ……?」
思い出したことを呟くと、彼女はカップに鼻先を寄せ、マスカットを探すかのようにそっと呼吸した。が、表情から惟るに、どうも芳しくない結果に終わったようだ。
「判りましたか?」
「…………判り、ま……せん……」
「難しいですよね。私もよく判りません」
「えっ、入間さんも判ってないんですか!?」
「はい」
「な、なんか判ってそうな感じだったじゃないですか。判らないの私だけだと思ってびくびくしちゃいました」
「ふふっ……、すみません」
もう、と呟きながら、彼女はケーキを取った。どことなく拗ねたような顔をしていたが、ケーキをひと匙口に運んだ瞬間に解除された。表情の明らかさと同じくらい素直だ。
美しくカットされたフルーツは、薄く塗られたナパージュでつやつやと輝いている。甘すぎないクリームはフルーツの甘さと調和し、薄めのスポンジと一緒に溶けた。三口で終わってしまいそうな小ささがあまりに惜しい。ゆっくりと味わい、最後に紅茶を頂く。
「……美味しかった……」
「ええ。お誘いいただきありがとうございました」
「いえ、こちらこそ! 来てくださってありがとうございます。友達に流石に当日はって断られちゃってたので、凄く助かりました! ここ、一人で来るのは相当勇気が必要だったと思うので……」
そうだろうな、と思う。入口での様子を思い出し、銃兎は曖昧に微笑んだ。
彼女が化粧室へ向かっている間に、銃兎は伝票を拾い上げた。会計を済ませようとバインダーを開くと、小さなメモが挟まっていることに気づいた。
【今日は私が出します、納得いかないなら折半です】
「…………くくっ」
いつの間に挟んだのだろう。すっかり見抜かれていたらしいと判って、銃兎は声をぐっと抑えて笑った。静かに伝票を戻す。
「ごめんなさい、お待たせしました」
「いえ。では、折半でお願いします」
「え? ……あっ、見たんですね!?」
「おかしいですねぇ、そう易々と悟らせたつもりはなかったんですが」
「自意識過剰かなって思ってたんですけど、書いておいてよかったです……。入間さんの優しさに甘えるわけにはいきませんから」
「――別に、」
「え?」
思わず零れた声に、彼女だけでなく銃兎まで戸惑う。今日はずっと余計なことばかり言いそうになっているなと反省しつつ、銃兎は何でもないように笑いかけた。
「あぁ、いえ。今日は御白木さんの律儀さに敬意を表して、折半させていただきますね」
「はいっ。ありがとうございます」
こんなことまでお礼を言う必要なんてないのに、と思いながら、銃兎は伝票を今度こそ取った。
会計を終え、ホテルを後にする。目に入る空は深い紺色に沈んでいて、思ったよりも長居していたことに気づいた。いつの間にやらすっかり夕飯時だ。
「私は電車で来たんですけど……、入間さんはどうやっていらっしゃったんですか?」
「車です。近辺を動き回っていたので、駅前の駐車場に停めていて」
「あの駅近くに駐車場あるんですね……! 全然気づきませんでした」
「あまり乗らないとそうでしょうね。……駅までご一緒させていただいても?」
「はいっ、勿論!」
快い返事を一つして、彼女は歩き出した。駅までは五分ほどの道のりだ。
「美味しかったですね。どれもとっても綺麗で!」
「……そうですね。よくできていました」
「ですよね! なんと言うか、ミニチュアみたいに可愛くて」
「はい」
「ほんとに、一口サイズだから食べやすかったですし」
「……、はい」
「もしかして本物の乙女って、こういう可愛い物でお腹を満たしたりするものなのかなぁなんて考えちゃいましたよ」
「御白木さんもしかしてお腹空いてます?」
「えっ」
やけに流暢だった言葉が止む。ちらりと視線を下ろすと、頬を真っ赤にしながら震える彼女が映った。
「………………ほんと……ごめんなさい……」
「謝ることではないと思いますよ」
「いや謝らなきゃいけないことですよ……食べ物食べに来ておいてお腹空いたって……乙女の資格もないのにこんなところ予約してごめんなさい……巻き込んでごめんなさい……」
「ふっ、どういう理由で謝ってるんですか。別に構いませんよ、私も全く足りていなかったので」
「えっ」
今度のは戸惑いより喜びが混じった声だった。見上げてくる視線に期待が溢れ出ていて、銃兎はぐっと喉元で笑い声を殺した。
「あれでお腹を満たそうと考える方が間違っているのかもしれませんが……、正直随分小さいなとは思っていたんです。これなら御白木さんがお一人で来ても問題なかっただろうなと」
「ですよね!? 最初見た時写真じゃ判んなかったけどすごいちっちゃいなって思って! 写真映え優先すぎない!?って!」
「っ、ええ、確かに。色味や造形はそれはもう満点でしたけど、量が少し……ね」
「はい!」
あまりにも力強い返事に、銃兎はもう一度笑い声を殺そうとして。
やっぱり、やめた。
「……っ、……すみません、先に謝っておきますね」
「え?」
「……っ、ふふっ、はははっ……! 本当に、随分お腹ぺこぺこなんですね、ふふっ」
「え? あ、あぁぁぁごめんなさい……! ほんと食いしん坊でごめんなさい!」
真っ赤になりながら、彼女はあわあわと謝ってくる。一体何に謝っているのだろう。どちらかと言えば、人の空腹を笑っている銃兎の方が謝るべきなのに。一度解放してしまった笑いは中々収められず、最後は無理やり口を押さえて止めた。
「はぁ。……すみません、随分笑ってしまいました」
「いえ……笑っていただけてよかったです……」
赤みの残る頬を見つめ、銃兎はそっと微笑んだ。
「このまま食事にでも行きますか?」
「……いいんですか? こんな、食いしん坊を……」
「いいんですよ、寧ろ少食より助かります。……色好い返事は頂けますか?」
銃兎が尋ねると、彼女は少し迷った後に頷いてくれた。恥ずかしそうではあるが、空腹には勝てなかったらしい。頬が緩んできている。
「ありがとうございます。どこかご希望はありますか?」
「ガッツリ丼とかでもいいですか?」
「ギャップが凄いですね。勿論いいですよ」
「やった! あの、ここから二駅先の、」
わくわくと彼女が瞳を輝かせる。突如訪れた延長戦の開始に、銃兎は自然と笑っていた。