そこはとんかつ屋だ、と彼女は言う。
「――そもそものかつが美味しいんですけど、特にかつ丼がとっても美味しくて! ちょっとおたかいんですけどそれも納得できると言いますか……。甘辛の煮汁しみっしみの衣と玉ねぎ、ふわふわの卵、そしてかつの上の目玉焼き……!」
「目玉焼きも乗っているんですか? それは期待してしまいますね」
「きっとご期待に応えられるかと……!」
遠慮がちな彼女にしては、中々に強気の言葉。更に楽しみにもなるというものだ。
彼女の力説を聞いているうちに、あっという間に駐車場に到着していた。精算機で精算し、さっと解錠する。
「では、案内はお任せしますね」
「はいっ! ……が、頑張ります……!」
「ふふ、宜しくお願いします」
反射で返事してしまったのか、みるみるうちに自信なさげに変わっていく声に、ふ、と笑い声を零す。地図アプリとにらめっこを始めた彼女を横目に、ゆっくりとアクセルを踏んだ。
どこか辿々しい案内に従いつつ進んで来たはずなのに、その割にすぐ到着してしまった。
「……あっ、そしたらもうそこの角です。駐車場、狭いんですけど大丈夫ですか? 少し先にもうちょっと広めのところもありますけど……」
「問題ありませんよ。もっと状況の悪い駐車場に停めることもありますし」
「すごい……、達人ですね!」
「あ、ありがとうございます」
思わぬところを褒められ、少し面映ゆくなる。若干緊張しつつ一発で駐車してみせると、彼女は左右きっちり等間隔で白線に沿う車体を眺めて「やっぱり達人だ……いや職人……?」と呟いていた。
「……そろそろ入りませんか」
「あっ! ごめんなさいそうですよね! 行きましょう!」
せかせかと店へ向かう背中を見つめ、銃兎は幽かに息をつく。個人的には大したことのない駐車場なのに、ああも感心されると照れくさくなる。あのくらいでこうなら、縦列駐車とかしてみせたら何か凄いことになりそうな気がする。
白木の引き戸を開くと、店内はカウンター席がメインのようだった。少ない対面席は埋まっていた為、適当なカウンター席に着く。お冷とおしぼりを運んで来た店員へ「すみません」と声をかけた。
「かつ丼を二つで」
「かしこまりました」
さっと注文を済ませると、目の前で調理が始まった。玉ねぎを切る音や油の跳ねる音と、衣の揚がる香ばしい匂いに、ひっそりとお腹が呻く。
「この匂いはお腹すきますね……。食べ物食べて来たのに言うのもあれですけど……」
「揚げ物の匂いはかなりクるものがありますね。肉屋の前やスーパーは、仕事中できるだけ通りたくない気持ちにすらなります」
「あっ、それ判ります! 何と言うか、集中力を切らしてくる力がありますよね! コンビニのホットスナックコーナーとかも引力出てませんか?」
「引力、ふふっ、出てますねぇ。コーヒー一本買いに来たはずなのに、ついフライドチキンを買ってしまったりとか」
「お腹すいてる時のコンビニ、危険すぎます……! 私も何度負けたことか……!」
「おや、負けっぱなしで?」
「いつも次こそはって思って……行くんですけどねぇ……」
「ふふっ……、お察ししました」
残念そうに肩を落とす姿に、唇が自然と笑みを象った。何とも呑気な話題だ。ほんの少し、心がゆるむ。まだかな、まだかなと聞こえてきそうな眼差しを調理場へ向ける彼女がおかしくて、銃兎はふっと息をついた。
「お待たせしました、かつ丼二丁です」
「はいっ! ……ありがとうございます」
彼女は元気よく返事してから、ちょっとやりすぎたと思ったのか恥ずかしそうに丼を受け取った。銃兎も受け取り、乗せてある蓋を開く。
「これは美味しそうですね」
キツネ色に揚がったとんかつに、ふんわりした色味の玉子と濃茶に染まった玉ねぎ。そして一番目を引いたのが、その上に鎮座する目玉焼きだ。絶対に美味しい。
銃兎の声に気を取り直したのか、彼女は「はい!」と再び元気に返事した。今度は照れがない辺り、無意識なのかもしれないが。添えられた割り箸を割り、まず一口。
「〜〜〜っ! 美味しい……!」
「はい。……美味しいですね、これ」
ぱあっと瞳を輝かせる彼女へ同意しながら、更に一口運ぶ。
とんかつは煮汁が染み込み、しっとりした食感になっている。色の通り、しっかり甘辛く仕上がっている玉ねぎも美味しい。半分ほど食べ進めた頃合いで目玉焼きへ着手すると、中から黄身がとろりと流れてきた。
「この目玉焼きが、更にたまごたまごしくなって美味しいんですよね……!」
「……ふふっ、たまごたまごしいってなんですか?」
「えっ!? ほ、他に浮かばなくて……、入間さんならなんて言いますか?」
「そうですねぇ……、……まあ、たまごたまごしいでいいかもしれませんね」
「急に放り投げられた……!」
「投げてませんよ、的確だと思い直したまでです」
「本当ですか? 今度から使えるくらい?」
「……対御白木さん限定でなら?」
「それダメってことでは!?」
「ほら、早く食べないと冷めますよ」
「な、なんか誤魔化された気が……、でも、それもそうですね!」
「ええ、そうですよ」
チョロいもんだなと思いながら、かつ丼を平らげていく。添えられた味噌汁も腹に収めると、彼女は満足げに両手を合わせた。
「ごちそうさまでしたっ」
「紹介してくださってありがとうございました。おかげで良い物を食べられました」
「ほんとですか? よかったです!」
さっきのやり取りは忘れたようで、彼女はほっとした顔でにこにこ笑っていた。彼女からゆるく視線を動かすと、丁度真ん中くらいに立てられた伝票の筒が目に止まった。
「……」
「……」
恐らく、考えていることは同じである。
「……」
「……」
「……ふふっ」
「ふふっ……、それぞれ会計しましょうか」
「そうですねっ」
随分と平和的な睨み合いに興じてしまった。はぁ、と一つ息をついてから、銃兎は伝票を取った。
各々会計を済ませて駐車場へ戻ってくると、彼女はぺこりと頭を下げた。
「今日は本当にありがとうございました。……沢山付き合わせてしまってごめんなさい」
「お気になさらず。中々有意義な時間を過ごさせてもらいましたよ」
「あははっ……、そう言っていただけると助かります」
銃兎が助手席の扉を開いてみせると、意図は伝わったようで「お邪魔します……!」と割合スムーズに乗車してくれた。
運転席に乗り込みつつ、どこまで送ろうかと考える。
正直に言えば、この店の最寄り駅は近すぎる。恐らく十分かからない。だが、彼女の自宅の最寄り駅まで行くのはどうだろう。個人情報を出すことに抵抗を感じるかも――感じてほしいところだ――しれない。暫し悩んだが、考えていてもしょうがないと割り切って尋ねた。
「どちらまでお送りしますか。御白木さんのご都合の良いところまで向かいますよ。……あぁ、運転は好きなのでお気遣いなく」
「私の……、それなら――」
念の為かけておいた保険が功を奏したのか、彼女はあっさりとある駅名を挙げた。そこは、さっきのホテルの最寄りから二駅戻ったところだった。聞けば、自宅方面への乗り換えが楽らしい。程よい距離感でもある。どこかほっとしつつ、銃兎は「行きましょうか」と声をかけて発進した。
時間帯なのか場所なのか、道はさほど混んでいない。すいすいと車を走らせていると、彼女が「……あの」と声をかけてきた。
「入間さんに……聞きたいことが、ありまして」
「聞きたいこと、ですか」
ちらりと見遣った表情はやたら真剣みを帯びていて、思わず居住まいを正した。一体何を聞こうと言うのか。こんなに真剣にならなければ聞けないことなんだろうか。何だそれは。
「どうぞ、お答えできることでしたらお答えしますよ」
「ありがとうございます。……入間さん――」
動揺を隠しつつ答えると、彼女は思い切った顔で続けた。
「――本当は煙草吸われる方ですよね? もしかして、気を遣って我慢とかしてくださってるんでしょうか!?」
「……はい?」
聞き返した言葉が否定でなかった為か、我が意を得たとばかりに彼女がまくし立てた。
「あの、実は少し前から気になってたんです! 入間さん煙草の匂いするなー、もしかして煙草吸いに行くかなーって思ってたんですけど全然そんな素振りなかったので移り香かなとも思ってたんですけど、今日やっぱり入間さん喫煙者さんなのでは!?と思いまして!」
「……そ、そうでしたか」
「…………違うんです!」
「何がですか」
「いえ、匂いするなって思ったのは事実なんですけど積極的に嗅ぎに行ったわけではないんです! で、でも不快に感じさせてしまいましたよねごめんなさい!」
「落ち着いてください、そこまでは考えてませんでしたよ」
「えっ……、自爆した……!?」
「……ふふっ……」
何を聞くのかと思ったら、何を言うのかと思ったら。予想の斜め上の答えに、銃兎は笑い声を上げた。言葉にできない呻き声を零す彼女に尋ねる。
「喫煙者というのは正解です。因みに、なぜ今日確証を?」
「えっと、……なんかこれも変態っぽくて嫌なんですけど、車に乗せていただいた時、入間さんからするのと同じ煙草の匂いがして……。移り香だったら本人じゃなくてもつきますけど、車の中は自分で吸わなかったらしないかな、って」
「……なるほど」
普段、彼女と会う時は吸わないようにしていたが、流石に車内までは気が回らなかった。まあ、今日は突発的な出来事だったけれど。
「もし気を遣ってくださってるなら……大丈夫ですってお伝えしたかったんです。煙草の匂いはそんなに嫌いじゃないですし。そうじゃなきゃ、分煙されてないタイプの喫茶店バンバン入れませんから!」
「ふふっ、そこですか?」
「大事なことです」
重々しく呟かれ、銃兎も「確かに、そうですね」と重々しく返す。それを聞いて、彼女は嬉しそうに笑った。
「いつも入間さんにはお世話になりっぱなしだし、このくらいで足しになるかは判りませんけど……、ちょっとでも気楽に過ごしていただけたらなって、思って」
「十分気楽にさせていただいているんですけどねぇ」
「そ、そうなんですか? ……でも、そうなら嬉しいです。とっても」
のほほんと笑う彼女は知らないのだろう。悪意も思惑もない言葉がどれだけ珍しいのかを、どれだけ息が楽になるのかを。
ただただ笑ってしまうような、そんな言葉を。
きっと知らない。知らずにいてくれたらいい。
「……では、お言葉に甘えて少し停めても? 一本だけ吸わせてください」
「はい。了解しましたっ」
快い返事を受けて、銃兎はそっと煙草を一本取り出した。
彼女の前で吸わなかったことに理由はない。まあ流石に初見では、とは思ったがその後――それこそ美術館に行った時だとか――は特に何も考えていなかった。ただ、何となく吸わなかった。吸いたくなかったわけでもなかったのに。
ライターの鳴る音、燃える匂い。吸い込み、吐く煙。
約束の一本が焼けていくその間、彼女は大人しくしていた。時折視線を投げては、口をはくりと動かす。音にはなっていなかったけれど、わあ、とかそういう感じの動きだった。
「……気になりましたか?」
「えっ」
「穴が空くかと思いました」
「あっ、えっ、ごめんなさい!」
彼女が勢い良く頭を下げた。露わになった項が赤いのが判って、何だか居た堪れない気持ちになる。ひとまず平静を装って「気にしてませんよ」と告げておいた。
「吸わないと仰っていたでしょう? 煙草が気になるのかと思っただけですから」
「は、いえっ! そうですね!」
「どっちですか」
「ど、どっちでしょう……?」
弱り切ったような声を出す彼女に、ふ、と笑う。銃兎は煙草をしまうと、外していたシートベルトを締め直した。
「お待たせしました。シートベルトはしていますか? 行きますよ」
「は、はい! 大丈夫です」
わたわたとシートベルトを確認した彼女が大きく頷いたのを見てから、再びアクセルを踏み込んだ。いくらもしないうちに駅に到着し、彼女が車から降りる。
「今日は本当に、重ね重ねありがとうございました! このご恩も必ずお返しします!」
「いつから恩があるのか覚えてるんですか?」
「お、おおよそは覚えてます! でも、何ならちょっと多めに返すくらいが丁度いいと思うので大丈夫です」
「律儀ですねぇ。大したことはしていないのに」
「入間さんにとってはそうかもしれないですけど――」
「電車、そろそろなのでは? 遅くなりますよ」
「えっ、わっ、ほんとだ!? そ、それじゃ入間さん、ほんとにありがとうございました、」
彼女は深々と頭を下げ、それからぱっと上げて笑った。
「また!」
「……ええ、また連絡しますね」
「はいっ!」
階段を駆けていく後ろ姿が見えなくなってから、銃兎はそっとギアをドライブへ入れた。
煙草に触れる。一本分、引き止めていたことには、今しがた気づいてしまった。