でか盛り唐揚げ弁当
ぱしゃり、ぴしゃん。
手元のバケツは、笑うように小さな水音を響かせた。濡らした雑巾をぐっ、ぐっ、とねじる。ばちゃん。大きめの水音。
「……はぁ……、だりぃ……」
二往復しないうちに面倒くさくなってきて、空却は雑巾をその辺に放って転がった。
暑い所為でやる気が出ない。暑くなくても雑巾がけなんてかったるいことに対してやる気は起きないが、それにしたって今日はかなり暑い。今頃本堂はエアコンが点いているかもしれないが、灼空のいるであろう空間にのこのこ顔を出す気にはならなかった。何せ既に三度の逃走を図り三度捕らえられた後である。作務衣一枚の空却に対し、向こうは袈裟まで着けた重装備なのに汗一つかいていなくて全く面白くなかった。まだまだ修行不足ってことかよ、クソ。
「――雑巾こんなとこに投げて、また怒られちゃうよ?」
「……あ?」
のほほんとした声に視線だけやると、そこには見知った女が立っていた。
彼女の家は、曽祖父の代から空厳寺の檀家である。まだ互いに言葉が覚束なかった頃からの顔見知りであり、要は幼なじみというやつだ。小学生の時はよく遊んだが疎遠になってしまい、またこうして話すようになるとは思っていなかったけれど。
「ね、空却。今日忙しい?」
「見りゃ判んだろ、拙僧は暇じゃねぇ」
「いや寝っ転がりながら言われましても……」
「涅槃仏を模すことで悟りを開く真っ最中だ、邪魔すんな」
「えぇー? 折角お昼買いに行こうって誘いに来たのに?」
「さっさと言えや」
ばっと体を起こした空却に、彼女はぽかんとした顔をしてから、明るく大笑いし始めた。
「た、単純……」
「うっせぇな。で、どこで買うんだよ?」
「それはまだ内緒。とりあえず雑巾がけ終わらせちゃおう、手伝うから」
深呼吸で笑いを止めてから、彼女は勝手知ったる様子で雑巾を出してきてバケツに突っ込んだ。しっかり絞ってから、軽快に廊下を拭き上げていく。丈の長めのスカートではあるが、走る度にひらひらとなびいて落ち着かない。見えないけど。見えてはないけれど。
「おいみこと、パンツ見えてんぞ」
「み、見ないという優しさでお願いします!」
「見るだろそりゃ」
「なんで!?」
叫ぶものの速度を緩めようとしないのは、嘘だと判っているのか、余程空却を信用しているのか。はたまた空却相手にそんなこと気にしちゃいないのか。もし最後のやつなら襲いかかってやる。
「空却、ちゃんとやってるー?」
「……おー」
「絶対やってないなこれ」
納得いってなさげな声が大分向こうからしてくる。仕方ないと息を吐くと、空却は反対側から雑巾がけを再開した。
範囲こそ広いが、二人がかりなら大変すぎることはない。それに、こちとら毎日雑巾がけさせられているプロなのだ。舐めてもらっては困る。
「っし、終わりっと!」
「早くない? ちゃんと四角く拭いた?」
「ヒャハハ! お前、親父とおんなじこと言ってやがんな」
「えっ灼空さんと以心伝心、嬉しいなぁ」
「あんなクソ親父と以心伝心して喜ぶのお前くらいじゃねーか?」
「嬉しいでしょ! 灼空さん素敵だもん」
「素敵ねぇ。既婚者だぞ、気をつけろよ」
「何に対してどう気をつけろと?」
「獄の世話になるような真似だけはすんなってこった。おら、とっとと終わらせちまおうぜ」
「ならんから……、空却は私のことなんだと思ってるの……」
「パンツ見せびらかす痴女」
「見せびらかしてはないよ!?」
やむを得なかっただけだし、空却だし、ともごもごする様子から察するに、どうも最後のやつな気がする。腹立つ。やっぱり襲うか。腹が満ちたら。
軽口を叩きつつも、何やかやと雑巾がけを進めたおかげで今日の分は無事終わらせることができた。まだ境内の掃き掃除が残っているが、まずは昼食だ。
「空却、激走丸出して激走丸」
「拙僧のけったにだせー名前つけんなって何回言やぁ判んだよ」
「逆に何回ださいって言えば満足するの? 空却が乗ってると風切り音凄いんだもん、だから激走丸。的確な名前でしょ」
「こいつ倉庫で泣いてんぞ。だせー名前つけられちまった〜ってな」
「えっそんなダメ? ごめんね、本当はなんて名前がいいの?」
「その答えあと九十年は聞けねぇな。つーかとっとと案内しろよ、腹減って仕方ねぇ」
「そうだった。えっとね、とりあえずお弁当屋さんって ことだけお知らせしとく。あとは着いてきて!」
「へーへー」
どうやら教えてくれる気はないらしいと判って、空却は雑に返した。そんな様子も意に介さず、彼女はご機嫌に自転車を漕ぎ始めた。彼女が先頭で、空却が続く。お決まりだった隊列。気持ちがほんの少し、あの頃へ戻る。
山や林に詳しかった空却に対して、彼女は街中や店に詳しかった。クラスメイトと遊ぶのも楽しかったけれど、彼女との遠征は刺激的で、自転車をキッと止めた彼女に「くーこー! いこー!」と呼ばれる度、今日は何が見られるのかとわくわくした。
それが崩れたのは中学に上がった頃。彼女はぱったりと空却と出かけなくなり、女子とばかり遊ぶようになった。法事や年末年始は空厳寺に来るけれど、でもそれだけ。段々と話す機会もなくなっていき、高校も分かれた。一度ナゴヤを離れた空却が彼女と再会したのは、イケブクロから戻った後で――以降は現在に続く。
彼女の背中は懐かしくて、でもあの頃より細っちく見えた。
「うわっ! ねぇねぇ、今トラックすごいギリ走ってったよね!?」
「ここ、でけぇ道路が近いから結構車通んだよ。知らんで来たのか?」
「えっ、なんて? 聞こえないー!」
「だぁぁっ、拙僧のことはいいから前見ろ前! 轢かれんぞ!」
「轢かれるってのは聞こえた! おっけー!」
回想なんてらしくないことを。小さく息をついて整えると、一際強くペダルを踏んだ。未だ行き先は判らないが彼女の案内を疑う必要はなく、空却にしては大人しくついていった。車二台がやっと行き来するような道の、頼りなさすぎる路肩を自転車で走り抜けていく。
「ここ曲がるー! で到着ー!」
「はぁ!? 急に言うんじゃ、っと!」
ギリギリのところで向きを変え、駐車場へ突っ込む。寺から大体三十分は漕いだだろうか。慣れた様子の彼女にならって自転車を停める。
ぱっと見はコンビニにような大きさの店内へ入ると、途端に香ばしい匂いと油の匂いがぶわっと襲いかかってきた。
「ここね、唐揚げ弁当の専門店なの! この前来たんだけど、美味しいし量多いしとにかくすごくて! テキトーに頼んできちゃっていい? 選びたい?」
「来たことあるっつーなら任せる。お前のセンスに期待してるわ」
「あはは、責任重いなぁ。了解」
店員とのやり取りをぼんやり聞きつつ、手持ち無沙汰にメニュー表を眺めてみる。大鶏排、鶏の丸揚げ。味変用のソースは有料。弁当は五種類ほどあるが、唐揚げ個数以外は同じ。どうやら鶏の揚げ物だけで真っ向勝負を仕掛けるタイプの店らしい。絶対に蓋が閉まらないであろう高さに積まれた唐揚げの写真に、思わず口角が上がる。
「お待たせ〜。行こっか」
「あ? 早かったじゃねーか」
「うん。丁度揚げたとこだったみたいで、パパッと詰めてくれたんだよ。早く帰ろ、少しでも冷めないうちに!」
「おう!」
提げた袋から漂う匂いが堪らなくて、つい声が大きくなった。それは向こうも同じようだが。轟音を立てるトラックに戦きつつ、来た道を辿る。
寺に着くなり灼空に挨拶しに行った彼女を放って、台所でお茶だけ用意しておく。少しして、ほわほわした様子の彼女が戻ってきた。それがどうも面白くなくて、ぶすっと言葉を投げかける。
「みこと、お前枯れ専だったか?」
「なんてこと言うの! 灼空さんは枯れてないから、熟成されてると言って!」
「熟しすぎて腐っちまってっかもなぁ」
「くぅっ……! 今すぐ論破したいけどお昼が先です!」
余程お腹がすいたのか、彼女は悔しそうに袋から弁当を取り出した。しかし一つひとつがぐっと握った拳くらいの大きさがある為に、蓋が全く閉まっていない。輪ゴムで無理やりに止めてはあるが、下手したら零れ落ちそうなくらいの盛りについ笑う。写真に偽りなしだ。適当な箸を出してやりつつ、蓋を解放する。
「いただきます」
「あっ……、い、いただきます!」
空却を見て、彼女も慌てて手を合わせた。その隙に唐揚げを一つ摘んでかじる。
「ん! 美味ぇな!」
「でしょ! 空却絶対好きだと思った!」
挨拶を終え、彼女も唐揚げにかじりついた。目をぎゅっと瞑って歓声を上げる姿に笑ってから、もう一口かじった。
ガリっとした衣を破ると、肉汁がたっぷり溢れてくる。衣の吸った油と肉汁、二つが合わさって何とも罪深い味だ。生姜やにんにくががっつり利いているわけではないが、どこか後引く感覚。味が濃いのもご飯によく合っていい。添えられたご飯をいくらか突っ込み、また唐揚げを頬張る、このループが止まらない。
七つ分の唐揚げを平らげたところで、隣からそっと一つ唐揚げが足された。そちらを見遣ると、もう一つ唐揚げを持った犯人があからさまに動揺した顔をした。
「な、なに」
「何、はこっちのセリフだっての。なんだよ、もう腹いっぱいになっちまったのか?」
「いやそういうわけじゃないけど。美味しそうに食べてたからお裾分け的な?」
「とか何とか言って、ただ腹いっぱいなだけだろ」
「いらないなら私が責任持って食べますけど」
「何言ってやがる。一度拙僧のモンになったんだ、手放す気はねぇよ」
「うっわ胸キュン系だ。唐揚げに言ってるんじゃなかったらパーフェクトなんだけどな」
「へぇ……、お前に言ってやろうか?」
「勘弁して、笑っちゃうから」
何でだよ。また面白くない気持ちでムカムカしてきて、勢いよく唐揚げを頬張った。美味い。
譲られた二個と元々の七個、合計で九個。流石にお腹いっぱいだ。普段も沢山食べる空却に合わせて沢山用意してくれるが、唐揚げだけでここまで満腹にはなれない。中々面白い経験だった。今度は十四や獄にも、と考えている間に彼女は「ごちそうさまでした」と手を合わせていた。にこにこと上機嫌な彼女にお礼を言おうとして、先に尋ねた。
「そういや、なんで拙僧と遊ばなくなったんだよ」
「えっ」
「中学の時」
「えっ……と……」
じっ、と見つめると視線を逸らされた。明らかに何かを隠しているのが気に入らなくて、顔を両手で挟んで固定してやる。
「く、空却っ!?」
「お年頃だったっつうならそれでいい、拙僧が何かしたっつうなら殴れ。でもな、もし何か他の訳があんなら知りてぇ」
「……」
「言いたくねーことを無理やり抉り出す趣味はねぇよ。だから、聞くのはこれで最後だ。なんで、拙僧を避けた」
明確な拒絶があったわけではない。学校で挨拶すれば返してくれた。空厳寺にも来ていた。でも、「あそぼう」とは言ってくれなかった。
あは、と力なく笑うと、彼女はふっと目を伏せた。気合いを入れているような感じがした。ややあって、小さく呟く。
「……あのさ、私、結構この辺の地理に詳しかったじゃない?」
「……おう」
短く相槌を打ち、視線だけで先を促してやると、彼女は少し苦しそうに話し始めた。
「空却ってば、私の連れていくとこどこも知らなくて、いつも楽しそうで……、それ見てたらさ、空却に色んなものを見せられるのは自分だけなんだって勘違いしちゃったんだ」
勘違い。そうだったか?
今すぐ問いかけたくなったが、恐らくまだ答えには辿り着けていないだろう。ぐっと堪え、合わない目を見つめた。
話は続く。
「でも、大きくなって友達が増えてきて……。そうなってくるとさ、私が案内なんかしなくても、空却は色んなとこに行けちゃうんだよね。空却が友達とどっか行った〜って話す度に、あ、私だけが特別なんじゃなかったんだって思い知って」
門前払いだった答えに触れた感覚があった。彼女は目を開くと、空却の目と合わせた。
「特別になりたかったのになれなかったから、離れた。他の方法で特別になることなんかできっこないって判ってたし……、要はただ拗ねてただけ。ごめんね」
「……なんで、そんな大事なこと言わねーんだよ!」
「えっ」
ぱちぱちとまばたきする彼女は、本当に不思議そうな顔をしていた。向きを固定するだけでは飽き足らず、感情のままに顔をぐっと寄せて捲し立てる。
「いいか! そりゃ最初は拙僧の知らねーとこばっか知っててすげーと思っちゃいたが、そんなんとっかかりでしかねぇ! 大体、新しいとこが知りてーだけならどうとでも調べられんだろ!」
「そ、そう、だね?」
「拙僧は、みこととだから行きたかった。こっちだって連れて行かれんのが面白かった。お前は特別なんかじゃねぇとか言ってやがったが」
さっきまでぽかんとしていた瞳が、うっすら揺らいでいる。近すぎて殆ど見えやしないけれど、何となく判った。勢いをつけすぎないよう注意しつつ、額を合わせた。
「拙僧にとっちゃ、みことはずっと特別だったんだよ」
「……!」
空却、と囁くような音がした。合わせた額が震えている、きゅぅ、と締め付けるような声。胸元を弱々しく掴む手を、片手で握った。やっぱり細っちくなったような気がする。
「……因みにそれ、直訳すると……?」
「あ? 直訳だ? ……チッ」
近すぎる視界の中で、彼女は言葉の割に真剣な目をしていた。煩悩の塊だな、なんて嗤えやしない。
「……好きだ。これからは拙僧の傍、勝手に離れんじゃねぇぞ」
執着もまた、煩悩だと知っている我が身では。
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