ぶどうパンの卵サンド
簓は約束のポイントで足を止めると、メッセージを確認した。駅前、十時。大丈夫、間違ってない。
そこから数分ほど大人しく待つ。人間観察してみたり、隣にいる人の電話に聞き耳を立ててみたり、移動せずともできる様々なことをして時間を潰す。だが、十時を回っても待ち人の姿は影も形も見えなかった。彼女は律儀で、ほんの一分でも遅れると判ったらその瞬間に連絡を寄越す人だから、遅れるということはない。
つまり。
「……はっはーん、やっぱりなぁ」
メッセージをスクロールし、最後の文面を確認する。午前一時半過ぎに《あした》で終わったそれは、間違いなく彼女が寝落ちしたことを表していた。
鍵を回すと、カチッ、と小さくも鋭い音が響いた。
「……っと。アカンアカン」
慌てて動きを止めるが、部屋の奥から物音が聞こえてくることはない。ほっと胸を撫で下ろしつつゆっくりと鍵を抜き、これまたゆっくりとドアを開けた。作り出した僅かな隙間に体を滑り込ませてから、ドアを施錠した。勿論、ゆっくりと。
部屋は適温で、ふんわりと彼女の匂いがする。抱きしめた彼女を思い切り吸った時に感じる匂い。「吸うな吸うな怖い」と言われるから、そんなにやったことはないけれど。足音を忍ばせ、彼女のベッドへ近づいていく。
そろりと覗き込むと、予想した通り彼女は眠っていた。
簓は静かに床へ座り、彼女の寝顔を見つめる。部屋には簓の呼吸と寝息と、幽かに車の走行音だけが落ちている。いつもわーわーがやがやと喧しい――これは盧笙の言葉だ――簓の周囲で、最も静寂に近い世界だ。
暫し静寂を堪能したのち、簓は立ち上がった。そろそろ彼女の声が聞きたくて、反応が見たくて、笑ってほしくてツッコんでほしくなってきた。
「……おはよーございます」
寝起きドッキリのように声を潜め、簓は彼女の枕元に頬杖をついた。幽かにマットレスが沈み、彼女の眉が寄る。
「今日のターゲットは、俺の一等好きな女の子です。見てくださいこの寝顔! はぁ〜、なんでこんな可愛え顔で寝れるんやろ。食うてるもんが違うんかな」
「……んん……?」
「おっ、起きてまいそうですねぇ。では、ここで一発。……おっはよーさーん! 朝やで〜!」
「っは!?」
バッと掛け布団を弾き飛ばしながら、彼女が起き上がった。勢い余ったのかそのままベッドの上に立つ。簓よりも背が高くなった。
「えっ、え!? 簓、うそ今何時!?」
「こらびっくり! みことちゃん寝起き良すぎやわ! なんで起き抜けでバッ!とシュシュッと参上できんねん!」
「なんで忍風戦隊!?」
「頭の回転もばっちりやな。もしかして、今日寝起きドッキリ来るって聞いとった?」
「聞いてるわけないでしょ……! っていうか、本当に今何時?」
彼女はすとんとベッドに座り、携帯を手に取る。表示された時刻を見て、ぐっと眉を寄せた。十一時丁度、本来の待ち合わせ時間から一時間もオーバーしている。
「ごめん簓、昨日ちょっと……」
「昨日?」
「……ごめん、本当に。こんなことばっかで」
言いかけた言葉を飲み込み、彼女は悔しそうに俯いた。
昨日のメッセージの時間から察するに、恐らく遅くまで仕事をしていたのだろう。その疲労が抜け切らず、起きることができなかったのだと推測できるが、彼女がそれを口にすることはない。同じ社会人とは言え、一般的な会社員である彼女と売れっ子芸人である簓。彼女から見ると、人から常に見られる仕事をこなす簓の方が大変そうで、自分の疲れなんて大したものじゃない――と思っているらしい。
簓としては、どちらの方が疲れているも大変もなく、それぞれの苦労があると思っているのだが。
「ええよ。ははーん、これは寝起きドッキリ仕掛けるチャンスや!って思てな、それでやってん。どやった?」
「どやったって……びっくりした」
「ん〜……イマイチやなぁ。もういっぺんやってええ? ほな二時間後また来るわ」
「何回も付き合わせるもんじゃないしそもそも知ってたらドッキリじゃないよね!?」
「出た! みことちゃんのノンブレスツッコミいただきました〜! ごちそうさまです〜」
「……ふっ、あははっ。そんな伝家の宝刀みたいな扱いされたの初めてだわ」
やっと笑ってくれた。寄っていた眉もゆるみ、穏やかな表情に戻る。ふふ、ともう一度笑ってから、彼女は大きく伸びをした。骨がぱきぱき鳴っている。
「お腹すいたし、なんか食べに行く? 簓、朝は食べてきた?」
「おん。せやけど軽ーくやから、お腹へったわ」
「そっか。うーん……どっかいいとこあるかな……」
首を傾げながら洗面所へ向かう彼女を見送って、その直後にひらめく。小さな背中を追いかければあっという間に追いついて、簓は「なあなあ」と声をかけた。
「近くのパン屋、あれ行きたい!」
「パン屋……あぁ、あそこ。いいよ、そしたら買ってうち戻ってこよっか」
「よっしゃ! ほな準備するとこ見てるわ」
「み、見ないでほしいんだけど……?」
言っても聞かないと察したのか、彼女は苦笑してから顔を洗い始めた。保湿まで済ませたところで着替え――だったが、流石に恥ずかしいと怒られたので一旦退室。終わった頃合いを見計らって再入室し、てきぱきと進んでいく身支度を眺めた。女の子は色んなことせなあかんから大変やなぁ、とぼんやり思う。【見られる】仕事をしている以上、簓もある程度気にしてはいるが、やっぱり大変そうに感じる。
ひとまず妥協できるところまで持っていけたらしく、彼女はうんと頷いた。鞄に財布と携帯、鍵を押し込んでから、玄関へ移動する。黒のパンプスをしまい、代わりに明るい色のスニーカーを取り出して放った。
「じゃあ行こっか」
「いつの間にか簓さんのこと抜いてるやん……。冗談のつもりやったけど、みことちゃんホンマに忍風戦隊の一員やろ」
「それ言ってるの簓だけだからね」
パン屋は、彼女の家から歩いて五分ほどの場所にある。通りかかる度にいい匂いがしていて気になっていたのだが、時間がなくて入ったことはなかった。
木でできた大きなドアを抜け、店内へ入る。外観からして広そうだとは思っていたが、広々とした店内には背の低い台や棚に置かれた沢山のパンがあった。
「はぁ〜! めっちゃテンション上がるわ……! なぁなぁ、俺がトング持ってええ?」
「子供か。……ふふ、いいよ」
「ありがとう、みことちゃんは天使さんやな!」
「トングくらいで天使扱いはちょっと……」
「うわ塩!」
トングをかちかちさせつつ、ゆっくりと店内を見て回る。初めて見るパン、馴染みのあるパン、とにかく沢山の種類の形や大きさのパンがあって目移りしてしまう。いっそ片っ端から買ってみたいが、食べ切れないものを買ってもしょうがないのでぐっと堪えた。
「あ、これ取って」
「おお、これな。……これ、なに?」
言われるままにパンを取りながら、彼女に尋ねる。大抵のパンには名前が書かれていたが、このパンにはない。丸いバンズに何かが挟まっているようだから、恐らくサンドイッチ系統の何かだとは思うが。
「多分、簓的にはあんまり馴染みないと思うんだけど……卵サンドなんだ、これ」
「ほー、卵サンド……卵ないやん!」
「あるわ! この卵サラダが目に入らぬか!」
「こ、これは紛れもない卵……! ははーっ」
「なにその茶番」
「乗ったらなんでそんな冷ぇたい目すんねん!」
「ごめん、ちょっとやりたかった」
「可愛いからって何でも許される思うたら大間違いやで! 許す!」
「大どんでん返し起きてるし……。あーもう、さっさと他のも見よう」
いつまでもやっちゃう、と笑いながら彼女が進んでいく。その横顔が綺麗で、簓は思わずぼぅっと見つめてしまった。
「……あっ、待って、トレー! トレー持って行かんといて! パン選び、トング一人には荷が重いわ!」
彼女の家に戻り、鍵を開けてもらう。さっきは一人ですり抜けたドアを、今度は二人で抜ける。彼女が飲み物を用意している間にパンを広げ始めた。迷って悩んで厳選したパンたちだ。美味しくあってほしいと願う。
「ん」
周りのラップを剥ぎ取り、彼女が卵サンドを差し出してきた。くれるのは判るが、「ん」とは。
「ん?」
「ん!」
「カンタか!」
「私が本物のカンタなら今頃、走って逃げてから簓の家をお化け屋敷扱いしてるよ」
「誰ん家がお化け屋敷やねん!」
「なるほど、幽霊相手に笑いのスキルを磨いて……」
「せやねん、あいつらホンマ全っ然笑うてくれへんから……ってそんなわけあるかい!」
「ふふ、ツッコミもしてくれる簓好きだよ」
「お、おん……なんやねんその急なデレ……心臓飛び出してまうわ……」
「そしたら戻してあげるね」
ほら、と再度差し出された卵サンドを、今度は素直に受け取った。よく見ると、バンズにレーズンが散っている。ぶどうパンだ。ぶどうパンに卵サラダ、合うのだろうか。わくわくしながら一口。
「ん! んん〜!」
「……簓、意外と口の中に入ってる時喋らないよね」
「ん! んんんーんん!」
「うーん……『そらそーやろ』、かな」
「ん、正解! 簓さんポイント、百ポイント進呈します〜!」
「それ貯めたらどうなるの……ってか、どうだった?」
「せやった。これ、めっちゃ美味いな!」
簓の笑顔を見て、彼女もぱぁっと嬉しそうに笑った。
卵サラダはマヨネーズの感じが全然しないのに、しっとりと口当たりが良い。恐らく卵をたっぷり使っているのだろう。ふわふわのパンに混ざるレーズンの甘さもいいアクセントになっている。ぶどうパンと卵サラダ、極々シンプルな組み合わせなのに、こんなコンビがあったのかと驚くほど美味しい。
「そうでしょ! あのね、レーズンが甘くて、卵ふわふわで、すっごく美味しいの!」
それからそれから、とこの卵サンドの美味しさを並べ立てる彼女を見つめ、簓は柔く微笑んだ。
好きな物を共有できることの嬉しさも楽しさも良く知っている。だからこそ、彼女相手にボケることもツッコむこともやめられない。
「しかし、ホンマに美味いなぁ。追加で買うてきたろか」
「追加しに行くの? まずは買ってきたやつ食べてからね」
「おぉ、せやな! お残しなんかしたら食堂のおばちゃんにどつかれるわ!」
「今日なんで忍者縛りなの?」
「『忍者縛り』て、その忍者捕まっとるな」
「あぁ……、自刃的な展開だね」
「アカンアカン! こっから大逆転させたるから、二時間後また来るわ」
「一旦帰ってまで逆転させるな! パンびっくりしてるよ!」
「パン! なんやその驚いた顔! 大丈夫、簓さんはちゃあんと帰ってくる。せやから……待っとって」
「無駄にイケメン風なの腹立つ。それに多分、そいつ帰ってこない」
「しまった、死亡フラグ立ててもうた! 折って折って!」
「骨を?」
「そうそう俺の骨をポキーっと、ってなんで骨折んねん!」
「ふふふっ、パン食べよ」
「ここで急にパン! 自由か!」
「あはははっ!」
楽しそうな笑い声を上げながら、彼女がパンを頬張る。これも美味しい、簓も食べてと差し出されるパンをかじり、味わって。美味しさを声色に乗せると、彼女はまた嬉しそうに笑った。
彼女はきっとまた、寝過ごして待ち合わせをすっぽかすのだろう。その度に、自分の方が疲れているわけがないと思い込んで、言い訳一つできない彼女を何度だって笑わせて助けたい。寝過ごしたことなんて些細になってしまうくらい、楽しませたいし喜ばせたい。それに――。
「美味しいね」
「……美味いなぁ」
疲れていようとも待ち合わせや約束を拒まないのは、簓に少しでも会いたいと、傍にいたいと思ってくれているからだと、知っている。
「あ、簓の選んだパンみんな美味しい。パン選考会の審査員とかしてた?」
「パン選考会はな、こんな甘っちょろい気持ちでやれるもんやないねん。パンにこの身を捧げ、パンに全てを託す勢いで、」
「へぇーすごー」
「いや食い気味、せめて最後まで聞いてえな!」
そして簓もまた、彼女に少しでも会いたい、傍にいたいと思っているから、互いに懲りることなくまた待ち合わせしてしまうのだ――そんなオチで、ここは一つ。
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