ナポリタン


 定期テストの一週間前になると、恋人から「日曜に勉強会しよう」と声がかかる。
 判らないところを教えてほしいのだと言う。そこらのクラスメイトならいざ知らず、可愛い恋人からの頼みとあらば断る必要はない。「仕方ないな」の一言に全てを込め、三郎は彼女の家へお邪魔している。山田家でやってもいいのだが、途中で二郎が乱入でもして来たらたまったもんじゃないので、今のところ実現はしていない。
 一つか二つ、判らないところを尋ねたあと、彼女は黙々と課題や勉強を進めていく。三郎はと言うと、課題をさっさと片付けたあとは彼女をこっそり観察している。普段は見つめただけですぐ逸らされてしまうから、逸らされたり逃げられたりしない、貴重な時間だ。
 大抵は昼頃まで一気に集中し、彼女の母親が用意してくれた昼食を部屋で摂り、最後にざっとおさらいして解散の流れだ。今日もそうなるだろうと思っていたのだが、彼女が階下にいる母親から呼ばれたのは、予想より三十分近く早かった。何か用事でもあって、昼食を早めるのだろうか。構いやしないけれど。
「ごめん、ちょっと行ってくるね」
「判った」
 彼女は三郎に声をかけてから、部屋を出ていった。ドアを半開きにしておくのは、両手が塞がっても開けられるようにする為らしい。言ってくれれば開けるのに、とは言えていない。
 ふと、何やら階下が騒がしくなっていることに気づいた。よく聞こえないが、彼女が泣きそうな声で困る、と言っている、ような。
 少しして、トントンと階段を上ってくる音がした。開きかかったドアをノックしてから顔を出したのは、彼女の母親だった。瞬時に人好きのする笑顔を浮かべたが、母親は申し訳なさそうな表情で三郎に「ごめんね」と謝った。
「急に用ができちゃってね。お昼、作ってあげられそうにないの」
「あぁ……そうなんですか。気にしないでください、元々ご好意に甘えさせていただいていたわけですし」
「それで、」
 外に食べに行ってくれ、とでも来るのかと思ったが、続いた言葉は予想とは全く違っていた。
「あの子が作るから、食べてあげてくれる?」
「は? ……あ、はい! 判りました」
 うっかり素が出た。内心動揺しているうちに彼女の母親は退室し、ややあって「それじゃ宜しく」「待ってお母さん」のやり取りが聞こえたが、無慈悲に扉の閉まる音がした。
 まるで足音を意図的に消しているかのように、彼女がそっと部屋に戻ってくる。
「あの……聞いた、よね」
「聞いた。……みことが作るのか、お昼」
「う、うん……そういうことになっちゃった……。ごめんね」
「何が?」
「だって、お母さんみたいに美味しくできるか判らないし……」
「はぁ……。別にクオリティは期待してない。食べられるものなら文句は言わないから、安心しなよ」
 思っていたのとは違う感じの言葉に、なんでこんな言い方しかできないんだと悔しくなる。きっと一郎なら、もっといい言い方をして彼女を励ませるだろうに。
 結果的に萎縮してしまっている彼女に、三郎はぼそっと付け足した。
「……分担した方が早いだろうし、僕も手伝う」
「え? いいの?」
「いい。と言うか、悪かったらこんな提案わざわざするわけないだろ」
「そっか、ごめん。……ありがと」
 ふふ、と笑みを浮かべた彼女に、ちょっとばかり心臓が騒いだ。嗚呼、いつも笑っていればいいのに。
 彼女についてキッチンへ入ると、三郎は紺色のエプロン――父親のものらしい。二郎がよぎって少しいらっとした――を借り、彼女もエプロンをつけてから「よし」と気合いを入れていた。
「で、何作るんだよ?」
 手を洗いながら聞くと、先に洗い終えていた彼女は、冷蔵庫から野菜を出しながら答えた。
「ナポリタン、作ろうと思ってる」
「ナポリタン……、ふぅん。悪くないんじゃない?」
「そう? なら、よかった。……あの、ベーコンとウインナーどっちが好き?」
「その二択ならウインナー」
「判った。……あ、あと、お野菜得意? 苦手?」
「別に嫌いじゃない」
「そっか。あ、」
「あのさ」
 どこまでも続きそうな質問を遮り、三郎は彼女を見つめた。目が合った瞬間僅かに逸らされ、面白くない気持ちになる。
「僕の好みなんか聞かなくていいから、みことがやりやすい作り方でやりなよ。手伝うとは言ったけど、メインでやるのはみことなんだから、本人がやりにくいようじゃ困るだろ」
「……」
 またこんな言い方しかできないのか。俯いてしまった彼女に、三郎は唇を噛み締めた。傷つけたいわけじゃない。どちらかと言えば優しくしたいと思っているのに。ため息をつきそうになったのを堪え、三郎は思い切り力を込めて、再度口を開く。
「……お前が作ってくれるの、楽しみに、してるから」
「!」
「わ、判ったらさっさと始めるぞ」
「う、うんっ。頑張る」
 彼女の表情が綻ぶ。頬をふんわりと紅に染めて、どきどきを瞳に湛えて、嬉しそうに笑う姿に言えない【好き】が募っていく。いっそ全部言えたら、もっと円滑にいくのに。
 ピーマンと玉ねぎ、ウインナーを調理台に置くと、漸く調理が始まった。
 玉ねぎの皮むきは一緒にやってから、彼女が玉ねぎとピーマンを半月に、ウインナーを斜めに切っていく。予想より慣れた様子だ。切った野菜を耐熱皿に移すと、ラップをかけてからレンジで加熱する。野菜のシャキシャキ感が苦手らしい。「三郎くんが、好きにしろって言ったんだよ」と笑っていた。なるほど、最後に聞こうとしていたのはそういう内容だったのかもしれない。
「何かすることある?」
「えっと……、なら、パスタ茹でてくれる?」
「判った。……パスタ、どこにあるんだよ」
「そこの引き出し。鍋は隣の引き出しに入ってる、おっきいの出して」
「おっきいのって何、抽象的すぎない?」
「ふふ、ごめんね」
 いつもと同じような言葉なのに、彼女の反応はいつもと違った。落ち着いているというか、怯えていないというか。自宅だからリラックスしているのだろうか。いや、さっきまでの様子から惟るにそういうわけではなさそうだが。
 言われた通り【おっきい】鍋を取り出してから、水を電子ケトルに注ぐ。たっぷりのお湯が必要だから一回では足りやしないが、全部水からお湯にするよりはマシだろう。ケトルがカン、と快い音を立て、沸騰を知らせてきたので鍋に注ぎ、足りない分の水を足して火にかける。沸いてきたところに塩を入れ、軽く混ぜてから麺を放り込んだ。
 その間に彼女も食材の準備を終えたようで、隣にフライパンを出して炒め始めた。ぱちん、と脂の爆ぜる音と食材が焼けるいい匂いが立ち込めてくる。
「……お腹すいた?」
「……」
「ふふ、もうちょっとだから頑張ろ」
「……うん」
 なんだそれ、まるで僕が腹ぺこみたいじゃないか――というのが飛び出さなかったのは、恐らく本当にお腹がすいてきた所為だ。鳴るな、絶対鳴るなよと念じておく。
 食材に火が通ったところで彼女がトマトジュースをフライパンに注ぎ入れたものだから、結構びっくりしてしまった。多分「は!?」とか言った気がする。
「びっくりした……」
「こっちのセリフだよ。ケチャップじゃないの?」
「うちのナポリタン、トマトジュースで味つけするから……。あっ、言ってなかったっけ」
「聞いてない。急にどうしたのかと思っただろ」
「もしかして、トマトジュースのナポリタン食べたことない?」
「認知している範囲ではない」
「そっか。じゃあ、楽しみにしてて。多分、びっくりしちゃうと思うから」
 彼女はいたずらっぽく微笑んでから、フライパンを軽く揺すった。ふつふつとトマトジュースが煮えて、段々水分量が減っていく。パスタが茹だったので火を止めると、彼女から声をかけられた。
「パスタもらえる?」
「OK、ちょっと退いて」
「うん」
 空いたフライパンの前に移動し、茹で上がったパスタをトングで掴むとフライパンへそっと入れた。ぶわりと湯気がかかって熱い、でもこれを彼女に味わわせるよりマシだ。まあ大したことではないけれど。
「ありがとう。もう仕上げだから、先座ってていいよ」
「別にいい。……見てる」
「そ、そう……判った」
 緊張する、と零しながら、彼女はパスタとソースをなじませた。塩コショウを加えた後に味見をして、最後にケチャップをほんの少し足して火を止めた。
 大きめの皿を二つ並べ、トングでパスタを掴む。ぐるりと皿と手首を回して盛りつけられたパスタは売り物と遜色ない見栄えで、なるほどと感心した。ああやって盛りつけるとそれっぽくなるんだ。今度一兄に振る舞う時はやってみよう。二郎は、まあ考えておこう。
 二人分を持とうとしているのを止めて、三郎が二つの皿を、彼女が粉チーズとフォークを持ってダイニングへ移動した。
 テーブルの上にパスタを置き、椅子を引く。少しばかり重たい木の感触に、らしくもなく緊張した。そう言えば彼女の部屋以外で食事をするのは初めてだから、その所為かもしれない。
「チーズは好きなだけ……うん、一本使い切らなければ何も言われないと思うから、その範囲で好きなだけかけて」
「一本使うって余程だと思うけど……、まあありがと。いただきます」
「め、召し上がれ……!」
 緊張した面持ちの彼女に見守られる中、二振りほど粉チーズをかけ、一巻分のパスタを口にする。
「!」
「ど、どうかな……?」
「……美味しい」
「ほんと!?」
 途端に彼女がガタン!と大きな音を立てながら椅子から立ち上がり、身を乗り出した。ただ嬉しいともどきどきしているのとも違う、今まで見たことのない顔をしている。いつもなら逸らされる瞳に見つめられ、今回は三郎の方が少し逸らした。
「う、嘘なんか言っても仕方ないだろ。……美味しいよ、本当に」
「よ、かったぁ……。えへへ、よかった」
 本当はこんなに笑えるのに、なんでいつもはおどおどしているのか。僕の所為か。僕の所為だ、口惜しいけど。
 視線を合わせてみても逸らされない。嬉しそうに三郎を見つめては、柔らかく笑い声を零すだけだ。
 ケチャップを殆ど使わない為か割とあっさりしているのに、トマトの甘さは十二分に凝縮されている。お店で出てくるやつみたいだ。そこに彼女好みの柔らかめの野菜、ウインナーとパスタの塩気が合わさって絶妙な味わいになっている。これが彼女の家の味なのかと思うと、ふわふわした何かが胸を満たした。
 いつもはペース配分をしながら同時に食べ終わるようにしていたのに、今日は先に食べ終えてしまった。
 予想通り慌て出した彼女にゆっくり食べるよう促してから、気づかれない程度に観察する。
 兄二人や自分より小さめのひと巻き。口は割と大きめに開く。咀嚼しながら、少しゆるむ瞳。口の端を僅かに染めるオレンジ。誰もがこなす動きなのに、どうしてこうも可愛らしく見えるのか不思議でならない。
 ごちそうさまでしたと手を合わせた彼女に、三郎は小さく笑い声を零した。
「ついてる」
「えっ、どこ、どの辺り」
「じっとしてろ」
 近くにあったティッシュを取ると、口の端を拭った。拭って、しまった。
「……あ」
 薄い紙越しに触れた唇は思っていたよりもずっと柔くて、急に心臓が全力疾走を始めた。三郎は出来うる限り平静を装ってゴミ箱へティッシュを投げた。
 ……あ、外れた。格好悪い。
 大人しく拾ってゴミ箱へ入れ直していると、彼女が忍び笑う声がした。
「う、うるさい! 笑うな!」
「ごめん、だって三郎くん、ふふふっ……」
「〜〜〜っ!」
 これが二郎なら一撃食らわせることも出来るが、彼女相手にそんな気は流石に起きず、ただぐぅっと呻くことしか出来なかった。楽しそうに嬉しそうに笑う姿は可愛くて憎らしくて、やっぱり可愛い。
「えっと……、片付けてくるね。勉強の続き、しないと」
 誤魔化すように宣言してから、彼女はいそいそと食器を下げ始めた。手伝うと言えなかったのは、全身が火だるまにでもなったみたいに熱い所為だ。
 深々と吐いたため息に熱を乗せながら、三郎は小さく唸った。
 ――気づいている。学年二位の彼女に、勉強会は必要ないことを。
 ――悔しい。彼女に嘘を吐かせなければ、一緒に過ごせないことが。
「……あのさ」
「なに?」
 恥ずかしい思いは十分にした。多分、これ以上ないほど。だから、もう一つくらいなら耐えられる、はず。
「来週、空いてるか」
「来週……、うん。空いてる、けど」
「なら、そのまま空けておいて」
「え」
 ぱちぱちとまばたく瞳が、こちらを見つめた。若干我慢できなくなって、ふいと視線を逸らしながら、半ばヤケになって告げる。
「今度は僕が何か作るから。……うちに、食べに来なよ」
「! ……いいの? 忙しい、よね……?」
「忙しいよ。忙しい、けど。別に、その……。みことと一日過ごす時間も確保できないほどじゃ、ない、から……」
 再び熱を持ち始めた頬が熱くてたまらない。そちらを見られないでいると、彼女の声がふわりと広がった。
「――うんっ。判った」
 声色だけ、声色だけなのに、溢れるほど喜色を浮かべているのが判ってしまった。ぱたぱたと駆けていく足音を聞きなら、三郎は前髪をくしゃりと崩した。
「……可愛いよ、本当に」


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