そうめん、茗荷添え
ふと見知った顔を見た。二郎が近づいていくと、向こうも気づいたようで足を止めた。
「よぉ、みこと」
「ん、お疲れ」
両手の袋を鳴らしながら、彼女は少し気だるげに笑った。
彼女のことは、一郎から紹介された。一郎と弟たちが距離を取っていたあの頃にできた友人だと言う。第一印象はあまり芳しくなく、何が狙いだと堂々と食ってかかったのは、今でも苦い記憶である。彼女が本当に一郎の【ダチ】なのだと理解したのは、それから暫くのことだった。
それにしても、今日はやけに大荷物だ。小さめのビニール袋が一つに大きめが三つ、重たそうに見える。
「それ重くねぇ?」
「まあまあかな」
半分答えになっていない答えにカチンと来て、二郎は何も言わずに大きい袋三つを奪った。一つは嵩張っているだけのようで重さはそれほどないが、あとの二つはずっしりと重い。
「うぉっ……! これ、何入ってんだよ」
「色々。そこのドラスト、今一割引きでさ。ここぞとばかりに日用品買い足したらこのザマですよ」
「一割はでけぇな」
「でしょ。ってか別にいいよ持たなくて。重いっしょ」
「すげー重てぇけど、俺が持たなかったらあんたが重い思いすんだろ。ちっとくらいなら力貸してやるよ」
「【重い思い】って面白いね」
「てめっ、おちょくんな!」
「ごめんごめん、でもいいよ本当に。家、もう近くだから」
「そう――」
なのか、と続く前に、ひやりと頬が濡れた。反射的に振り仰いだ空にそんな気配はない、のに。
「うわ、来る」
「やっべ!」
それぞれの言葉が丁度重なった瞬間、空から大粒にして大量の雨が降り注いだ。
「っ、二郎! とりあえずダッシュ!」
「はぁっ!? どこ行くんだよ!」
「どこって、決まってんじゃん! うち!」
「…………う、うち!?」
思わぬ――いや、半分くらいは思っていたかもしれない――場所が挙げられ、声が勝手に裏返った。そんな様子を見て何を思ったのか、彼女は二郎の腕ごと袋を掴んだ。やわっこい感触に震える。
「とりあえず急いで、これ以上濡れたら風邪引く」
「お、おう……!」
これ以上、と言うのは少し遅いかもしれないくらいには濡れていたが、確かにこのまま雨ざらしでいるのは得策でない。覚悟を決めて頷くと、二人で思い切り走り出した。
彼女の家は、あのポイントから歩いても五分かからない位置にあった。彼女が口にした「近いから大丈夫」は遠慮ではなかったらしい。ため息を吐きながら部屋の奥へ消えた彼女は、バスタオルを一つ投げて寄越した。
「ありがとな」
「全然。持ってきてもらったし。ってかごめん、めっちゃ濡れちゃってるよね。風呂入ってって」
「ふ、ふろ」
違うともそういうことではないとも判っているが、勝手に肩が揺れた。こちらは健全な男子高校生なのだ、ちょっと考えてほしい。いや言い訳だけど。
「もし二郎に風邪でも引かせたら、一郎に合わせる顔ないし」
続いた言葉に、一気に脳が冷やされる。兄ちゃん、そうだよな、兄ちゃんだ。これは兄ちゃんの為だ。
二郎はなぜか溜めていた息を吐いてから、「なら」と頷いた。彼女はまた奥に引っ込んでから、二郎へ声をかける。
「ところで下着大丈夫? ダメそうなら買ってくるけど」
「だっ……大丈夫だ」
「そっか。なら良し」
若干湿っているような気もするが、下着を買いに行かれた上その下着を履く羽目になるよりはマシだ。彼女は着替えを二郎に渡すと、極々簡単に風呂場の設備紹介を済ませて引っ込んだ。まだ玄関にしかいないから判らないが、恐らくかなりコンパクトな作りの家だ。脱衣所はなく、玄関の横がいきなり風呂だ。玄関先で服を脱ぐのは絶妙に恥ずかしかったが、背に腹は変えられないと決心する。
「あ、服は洗濯機の中入れといてねー」
「うぉぉっ!?」
のほほんと聞こえてきた彼女の声に、咄嗟に前を隠した。慌ててその方向を見るが、姿はない。部屋から話しかけていただけだと判って、肩の力が抜けた。
「壁ドンされっから叫ばないでもらえるかなー」
「わ、わりぃ……」
「判れば宜しい。体冷えてるようならお湯張ってもいいからさ、ちゃんとあったまってね」
「おう、サンキュ」
流石に全裸で玄関に居続けるわけにもいかないので、とっとと風呂に入る。セットした髪は見る影もなくぐしゃぐしゃで、「うげ」とぼやいてしまった。直す為の道具がない以上仕方ないと諦め、ざっと洗った。
シャワーを軽く浴びれば、十分に体は温まった。そもそも夏のゲリラ豪雨だ、そこまで冷えることもない。さっきのバスタオルで体を拭いて、渡された着替えに袖を通す。
「……ん?」
丁度いい。どちらかと言えば少し大きいくらいだ。なんでこんなものがさっと出てくるんだ、と若干気になる。それも新品ではなく、何度か洗った感じのものが。
もしかして、男でもいんのか?
考え出すと止まらず、暫しフリーズしていたが、彼女の「もういい?」の声に再起動した。
「風呂と着替え、ありがとな。助かった」
「どういたしまして。服、今乾かしてるから仕上がりまでちょっと待ってて」
「マジか、わりぃ」
「風呂まで入れといて濡れた服で帰したら無駄すぎるでしょ」
からからと笑う彼女にドライヤーを渡され、大人しく髪を乾かす。走った上に緊張した所為かお腹がすいてきて、ドライヤーの音に紛れてぐぅっと唸る声が聞こえた。
「お腹すいた?」
「聞こえてんのかよ!」
「いや中々でかめ……、えっと、そうめんならあるけど、食べる?」
「食う!」
「よし来た、何束?」
「四!」
返した言葉に、彼女の動きが止まる。
「……四?」
復唱され、つい家のテンションで言ってしまったことに気づく。脳内で三郎が「少しは遠慮しろ、気遣いの一つもできないのか低脳は」と毒づいてきた。腹立ってきた、想像なのに。
「い、いや、四ってのは……! 四、本……」
「四本は……ないでしょ……」
「う……」
そもそも【束】って聞いたじゃん、と彼女が笑う。一気に耳も首も頬も全部熱くなって、二郎は半ばやけくそで付け足した。
「い、いつもは俺も兄ちゃんも三郎も三、四束食うんだよ!」
「マジで、はー育ち盛りこっわ」
付け足しの所為で余計に笑われ、もう何も言えず髪を掻きむしってそっぽを向いた。視界の外で、彼女が大きく息をついたのが聞こえた。
「いいよ、四束」
「よっし! ……って、マジでいいのか? その……四束食って」
「別に? 乾麺は日持ちするしいっかーって八束入り買っちゃったから、消費に貢献していただけると助かります」
冗談めかした言葉を投げてから、彼女は電子ケトルに水を注ぎ始めた。何か手伝いたいところだが、家よりも大分狭いキッチンは二郎がうろうろすると邪魔になりそうだった。どうする。
「な、なんか薬味とかあんなら切ってやんよ」
「マジ? じゃあ……、あー、二郎が使わないならいいよ」
「今じゃあって言いかけてたじゃねーか」
「言ってません」
「言ってた!」
「言ってないなぁ」
「言わねーと冷蔵庫に入ってる薬味っぽいもん全部みじん切りにすんぞ」
「嘘です言いました茗荷切ってください」
「おうっ」
最初から素直に認めればいいものを。二郎がふんと笑うと、彼女は大仰に悔しそうな顔をした。冷蔵庫から茗荷を出し、ざっと洗ってから部屋の方へまな板と包丁を移動する。狭いキッチンに対する、苦肉の策である。
まずは半分に切って安定させてから、適当に薄めに切る。薄切りをいくらか重ねると、繊維に沿ってざっくり切っていった。千切りのつもりだったが、大目に見ても百切りになってしまった。まあ、食ったら同じだろ。多分。
茗荷との戦いを二郎の辛勝で終えた頃、タイマーが控えめに鳴った。
「そろそろそうめん揚がるよ、茗荷どう?」
「おー、ばっちり切っ……て、待った!」
「ん?」
鍋を移動しようとしている彼女を止めると、ぱちんと視線が合った。普段から視線くらい合わせて話しているが、きちんと【合わせた】のは初めてな気がして、少しだけ照れくさくなる。
いや、今はそれどころじゃない。鍋の中はぐらぐら煮えていて、熱いのが一目瞭然だった。
「俺が揚げるから、ちょっと向こう行ってろ」
「急な戦力外通告は辛いぜ」
「ちげーよ! お湯あちぃし、鍋もでけーし、危ねぇだろ」
「あら優しいこと。でもそれ、二郎もそうだよね? もし火傷でもさせたら一郎に叱られちゃう」
また出てきた一郎の名に、何となく面白くない気持ちが湧いた。彼女と一郎が友人なのも、友人だからこそ話の端に上がることも判っている、なのに、なんで。
「それに、いつもやってることだし。心配してくれてありがとね」
軽く笑って鍋へ伸ばした指先を、後ろからぎゅっと握り込んだ。
鍋と二郎に挟まれた彼女は、上手く身動きできないようだった。小さく、戸惑う声がひとつ、ふたつ。本気を出せばすっぽり包めてしまうほど小さな背中に向かって、ぽつりと呟いた。
「……俺って、そんな頼りねーか?」
「……、……そうじゃ、ないけどさ」
ちらりと視線が投げられる。今どんな顔をしているのか判らないまま、ぐっと唇を噛んだ。
「二郎は、一郎の大事な弟だから。友達の大事なものは、大事にしたいんだよ。判る?」
「……判る」
「ん。よし、じゃあ二郎くんには緊急クエスト、【つゆ作り】を引き受けてもらおうかな。成功報酬はそうめんです」
「……ははっ、んだよそのクエスト。旨味しかねーな」
「でしょ。ってことで、そろそろ手ぇ離してくれる?」
「は? 手?」
言われて、そう言えば彼女の指先をずっと握っていたことを思い出した。さっきまで平熱だったのが嘘みたいに熱が上がる。
「わ、わりぃ!」
「っ、あはははっ! 二郎、顔あっか」
「うるせー! オトシゴロなんだよこっちは!」
「二郎、それちゃんと意味判ってる?」
「あれだろ、なんか……、なんか」
「うん、おーけー。この話やめよう」
何やら素敵な笑顔と共に幕を引かれた。解せない。彼女が火傷することなくザルへそうめんを揚げたのを確認してから、二郎は昆布つゆを取り出した。彼女は一束だからお椀でもいいかもしれないが、こちらは四束だ。大きな器に、そしてつゆも多めに作らなくては。と言っても、注いだ昆布つゆにテキトーな量の水を入れるだけだが。箸でぐるぐるっと混ぜて終了。ちょろいクエストだった。
「おい、クエストクリアしたぜ! 報酬宜しくな!」
「はいはーい。おお、これは素晴らしい。では、こちらが報酬のそうめんです」
彼女から手渡された丼は、ずしんと重い。四束分のそうめんだ、そりゃ重いに決まっている。流石の丼もかなり苦しそうだ。彼女のお椀と比べると、縮尺がおかしくなった感が満載だった。
「いただきまーす」
「もう食ってんのかよ、いただきます!」
二郎よりも先にそうめんを啜る彼女を追いかけ、そうめんをつゆへ放る。やんわりと茶色に染まった麺を掬うと、ずるっと思い切り啜り上げた。
「はーーー、うめぇ!」
「あはは、CM来そうな食べっぷり」
「萬屋に来ねえかな、依頼」
「知名度はピカイチだろうけどねぇ」
軽いやり取りを交わしながら、合間合間にそうめんを啜る。しっかり冷えているのに水気がきちんと切られているから、つゆが薄まらない。噛むとそうめん独特の甘さが一瞬だけ来て、あっという間につるつる滑っていく。軽い喉越しと一口の物足りなさの所為で、いくらでも食べられてしまうのが恐ろしいところだ。
ふと彼女を見ると、そうめんに茗荷を乗せているところだった。
「茗荷ってうめぇか……?」
「うーん……、食感が好きなんだよね、茗荷」
「食感……」
「まあ、大人の味みたいなとこあるかな。私も子供の時は何が美味しいのって思ってたし」
なんか、カチンと来た。
「食う」
「えっ」
「ぜってぇ食う」
「お、おうよ……どうぞ……」
動揺しつつも茗荷の皿を寄越してくれたので、遠慮なく茗荷を摘む。どのくらいが適当かも判らないけれど、まあテキトーにそうめんに乗せ、ずずっと啜った。どこかすぅっとする匂いを感じつつ、ひと噛み。
「……うめぇ、かも」
「……マジ?」
「おう。なんか思ったより、嫌いじゃねー、かも」
他の野菜が持つシャキシャキ感とは、別物の食感がある。食感が好きと言うのも納得の歯触りだ。しゃく、と小気味よい音と共に爽やかな苦味が駆け抜けて、口の中をさっぱりさせていく。若干辛さもあるが、思ったより気にならなかった。
「へぇ、おっとなぁ」
「おちょくってんじゃねーぞ!」
「ごめん。おめでとう、今日は茗荷記念日だね」
「ロクでもねぇ記念日増やすな」
「一郎にも言っとこ」
またしても出てきた兄の名に、もう一度面白くない気持ちが湧いてくる。勢いよく湧いたそいつに唆され、二郎は「あのさ」と切り出してしまった。いや、切り出せてしまった。
「この服、誰の。みことのじゃねーよな」
「えっ、服?」
「いんのか。その、付き合ってる奴、とか」
「は? なんでそん……、あ」
急ハンドルに戸惑っていた彼女が、ああと手を打つ。それからははっと笑った。
「いないいない。いたら面白かったけどねぇ」
「いねぇって、じゃあこれ」
「それは一郎の。前はよく来てたからさ、帰りたくないって」
帰りたくない。そんな風に兄が言う様が想像できなくて、何も言えなくなった。想像できないけれど、その原因なら、判る。
「……でも、もう捨てちゃってもいいかな」
懐かしさを滲ませながら呟かれた言葉は、別れの言葉で。え、と口を動かしたが、声にはならなかった。彼女が嬉しそうに微笑む。
「だって、一郎にはもうないでしょ。帰りたくないこと」
「……おうっ」
彼女はとっくにそうめんを食べ終えていて、柔く二郎を見つめていた。その視線が優しくて、どこか泣き出しそうで、見つめ返すことができずにそうめんを啜った。
「……なぁ」
「ん?」
そうめんを啜りながら、できるだけ平然と。なんてことのないように。本当は喧しく騒ぐ心臓に気づいているけれど。とにかく、さらりと尋ねた。
「今度、俺もみことのところ泊まりに来ていい?」
「えっ……、ダメだけど」
「なんでだよ!」
やっぱり、面白くない。
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