仕事が行き詰まりどうにもこうにも行かない時、ふとした瞬間に感じる疲労にぐったりとしてしまった時、彼女に会えない日が続いた時、帰りが遅くなってしまった日の帰り道。時々の場面で北村は何度か、あの特別を密かに取り出しては眺めていた。『大好きです』と彼女の見慣れた文字が描かれたメッセージカードと手作りチョコの写真を。

「大好きです、か。見る度に照れ臭くなるものだが、悪くないな。フッ、そうか、大好きか、」

 人知れず胸は満たされ、そっとスマホのフォトアルバムを閉じる。これは一か月前の二月十四日、バレンタインデーになまえから貰ったチョコとメッセージカードの写真だ。この写真の存在は未だなまえには明かしていない。これは北村一人の大切な秘密そのものである。再び秘密をしまい込むと、アルバムアプリを終了したスマホのホーム画面のカレンダーに目が止まる。
 三月十一日。その日付が気になり、カレンダーをタップしたところで気付く。今週の土曜日にホワイトデーがやって来るのだと。一般的にホワイトデーとはバレンタインデーのお返しを渡す日だ。北村は一つ閃く。手にしたスマホに眠る秘密のお返しが出来るかもしれないと、急いでメッセージアプリを開いた。


***


「んで、女性への贈り物に何が良いのか俺らに相談しに来たっつうわけか。意外と可愛い所あんじゃねぇか、北村〜!」
「茶化すな、春日。俺一人では解決の糸口が掴めんのだ」
「でも、北村さんが女性に贈り物をねぇ、やっぱりちょっと意外かも、」
「真弓さんまで、」
「俺は北村さんにそういう人がいるってのが驚きですけどね」

 翌日、北村は春日、真弓、秋山の三人に集合をかけ、四人は今スマイルバーガーにいた。テーブル席、四人の手元にはそれぞれ各自が注文したポテトやハンバーガー、シェイクと言ったファストフードがトレー上に並んでいる。北村はコーヒーを一口飲み、春日は大きな一口でハンバーガーにかぶりつき、真弓はポテトを一つ摘み、秋山はパックのサラダを一口運ぶ。

「秋山、お前サラダ食ってんのか。珍しいな」
「ええ、春日さんもいかがです?体に良いですよ」
「なんだか私もサラダ食べたくなってきちゃった」
「……おい、お前達」
「ああ、すみませんね。それで女性への贈り物について一緒に考えればいいんですっけ、」
「ああ、すまないが力を貸してもらいたい」
「じゃあ、その子について教えてくれよ。好きなもんとか苦手なもんとか、」
「そうだな、あいつは……、」

 なまえという女は平凡な女だった。家事も人並みに出来、仕事もそつなくこなす、一般的には特別ではない人間だ。しかし、北村はなまえのその特別ではないところに惹かれている。何かと最近は特別さが求められる世の中になって来た。その中に居ても特別さに執着することも無く、ありのままであり続ける彼女の姿にいつか、とまだ見ぬ将来を描くこともあるのだが、中々彼女には打ち明けられずにいる。
 笑った顔の朗らかさにつられてしまう、悲しむ顔に共に心を曇らせてしまう、怒った顔にまっすぐ語りかければきちんと理解してくれる、楽しそうな顔は一番好きな表情だ。その全ては素直に北村の口を突いて出て来た。

「……と、こんな感じだ。にしても、何故皆固まっている」
「え?ああ、いやぁ、北村さんのその彼女さんが中々のやり手だなぁなんて、」
「それはどういう意味だ、秋山」
「え?!それ、俺に聞きます?ちょっと春日さん、」
「ばっ、俺に振るんじゃねぇ!真弓、後は任せた!」
「ちょ、ちょっと!急にパス寄越さないでよ!」

 一人秋山の言葉を正しく理解出来ない北村の頭上の疑問符は消えず、春日、秋山の強引なパスに真弓はゴホン、と咳払いを一つ挟み、遂にその真意を口にした。

「……その、なんて言うか、本当に北村さんはその人のことが好きなんだなって思ったの。多分、秋山さんも春日さんもそう思ったんだと思うよ」
「そういう風に思うのは普通じゃないのか?別に何もおかしなところは、」
「だって、私達には普段見せないような顔して話してたから。あの、私こういうこと言うのあんまり得意じゃないんだけど、」

 北村さんは、北村さんが思ってる以上にその人のこと好きなんだよ。
 いいぞ!真弓!その通りだ!そうだ、よく言った真弓ちゃん!と春日と秋山が騒ぎ立てる中、北村は真弓の言い放った一言に目を泳がせていた。北村の咄嗟にとった行動は自身が動揺していることを周りに明かすものだ。
 何もおかしなところは、ないだろう。と続けるつもりだった。しかし、真弓の言葉に改めて思い知らされる。私達には普段見せないような顔して話してたから。と真弓は言った。それは一体、どんな顔だったのだろう。こんなにはっきりと感情を顔に出したことがあっただろうか、今の今まで。黙り込んだ北村にフォローを入れるかのように、今度は秋山が救いの手を差し伸べた。

「それじゃあ、そろそろ真剣に考えますか。北村さんの素敵な彼女さんへのお返し物を」
「おう、あの堅物の北村をこんなんにしちまうんだ。本腰を入れていかねぇとな!」
「だったら、最初からそうした方が良かったんじゃ……、」

 だって聞きてぇじゃねぇかよ、北村の惚気話をよ。はは、俺も同感です。滅多に聞けない話でしょうし。まあ、でも確かに聞けるなら聞きたいかも。と三人が悪戯な顔をして話しているのを見て、北村はようやく我に返った。
 自分が胸に隠しているものは予想以上に大きなものだと言うこと。彼女の名を、彼女のことを口にすれば、普段見えない筈の感情が表に出てしまうこと。動揺は少しばかり落ち着いて来た。話の腰を折ってすまない、と一言置き、北村はもう一度春日達となまえへの贈り物について共に考え始めた。それは三月十二日、神室町中道通りのスマイルバーガーでの出来事だった。


***


 もしかしたらあの日、なまえもこんな気持ちだったのかもしれない。そわそわと落ち着きの無い自分に溜息が漏れ、北村はやたらとスマホのメッセージアプリの通知を気にしていた。自分の手元には使い慣れたスマホと丁寧にラッピングされた長方形の箱があった。これが北村の選んだ贈り物だ。


「俺なら、どこか良いレストランに連れてって、アクセサリーをプレゼントしますね」
「私なら、コスメ関係かな。あとバス用品とか、スキンケア関係とか」
「俺は分からねぇもんは分からねぇ。だから、直接本人に聞いちまうな。何が良いんだ?って、」

 秋山、真弓、春日の答えはどれにも説得力があった。秋山の答えは無難でいて外さない。真弓の答えは実用的且つ女性目線の的確な物品のチョイスで外れる様子がない。春日の答えだけはぶっ飛んでいるような気もするが、好みでは無いものを贈ってしまうのは気が引ける。ならば本人の望みを聞いてしまえという思わぬ正解。三人からそれぞれの助言を貰い、北村は神室町を練り歩いた。
 選択肢は山ほどあった。洋服や化粧品、アクセサリーにケア用品。ブランドアイテム、美味しいと評判のお菓子、レストランで提供される質の高い料理。考えれば考える程、余計にアイデアは埋もれて行った。今まで頭を過った選択肢が北村の思考を覆い隠し、本当に何を贈るべきか見失いかけた時、神室町の街角で北村はふと足を止めた。直感が告げていた、これを贈るべきだと。きっと似合うことだろう、彼女を構成する一つの色彩として。

 
 三月十四日、ホワイトデー当日。北村は先月のバレンタインの時と同じようになまえの家にいた。理由はシンプルである、今日も早く帰されたのだ。しかし、傍に彼女の姿はない。どうやら今日は彼女の方が遅いらしい。これから帰りますね、のメッセージを受け取ったのはついさっきのことだ。
 何度も頼りなく手元のプレゼントを見た。彼女の喜ぶ顔を見たいと強く思う。自分からしてみれば少し背伸びをしたような贈り物だ、この箱の中身は。きっと後にも先にもこれをなまえ以外の誰かに贈ることはないだろう。

「……俺は、俺が思っている以上になまえのことを、」

 口にすれば何かが焦がれた。自分一人だけの時間は自然と自分を見つめてしまう。
 この関係の始まりは、北村からだった。アプローチは彼女が散々してくれていたらしいが、北村はあまり読み取ることが出来なかった。それに耐えかねたなまえが北村を誘って飲みに出掛けた日、ほろ酔いの彼女を送っていく最中で初めて自分の心のあるべき姿を見た。ほろ酔いではあるものの、いつもより危なっかしい彼女の姿にそれは強さを増す。

『迷惑でなければ、俺がみょうじさんの傍に居てもいいだろうか』

 ほろ酔い状態の相手に言うタイミングではないと承知していながら、衝動は止められなかった。ふらついた足取り、とろんと垂れ下がった目尻、気の抜けた隙ばかりの無防備さ。彼女のことはしっかりした女性だと思っていた。だが、こうして酒の席に誘っておきながら勝手に酔ってしまう危なっかしさになまえは意外と目が離せない相手だと知った。悪い意味ではない、もっと深く知りたいと思う心から彼女の傍にいることを望んだ。理解出来ずに慌てふためく彼女の様子に密かに微笑む。彼女のそういうところが好きなのだと。

 ベタ惚れの四文字がすっと腑に落ちた時、酷く慌てた足音が家の近くから聞こえて来た。こんな夕暮れ時に急ぐ用事があるのは彼女しかいない。わざわざ走って帰ってきたのか、と言葉を飲み込む。なまえがここに来るまで待ち切れず、玄関へと向かう。早く会いたかったのは自分も同じだ、忙しない足音が二つに増える。僅かばかりのカウントダウンが始まり、目の前のドアが開けば、お互いが驚きに目を丸くさせた。

「あ、れ、北村さん……?どうしたんです、玄関なんかに、」
「……あ、いや、出迎えようと思ってな。すまん、驚かせたか、」
「いいえ、その、驚きましたけど嬉しかったです」

 ただいま、北村さん。ああ、おかえり。なまえ。何故だか気恥ずかしくなる出迎えだった。足早に玄関に向かった自分の余裕のなさに苦笑する。その場で脱ぎ捨てたパンプスの踵を揃えている彼女を引き連れ、いつものリビングに落ち着く。テーブルの上で待ちぼうけを食らっているプレゼントを手に取り、なまえに呼び掛けた。

「今、少しいいか、」
「ええ、大丈夫ですけど」

 荷物を近くに置き、こちらを振り向いたなまえは不思議さを隠せぬ表情で見つめている。心の準備を無理矢理にでも済ませ、彼女の傍へと近付いていけば、未だに理解出来ないなまえの顔がそこにあった。

「それ、なんですか?」
「これは、だな……」

 バレンタインのお返しだと口に出来ないもどかしさを恨む。言葉は何度も練られた。視線は何度か重なり、北村が遂にそれを言葉にしようとした時だった。それは不意に答え合わせをしてしまった瞬間で、北村は全く別の意味で驚いていた。
 彼女の唇を彩っていたのは淡いピンクだった。北村の用意していたものより淡い色味に言葉を失う。今自分が手にしている箱の中身は、なまえが好んで付けているものより深い色味のものだ。誤ってしまったと一人黙り込む北村になまえは声を掛けた。

「どうしたんです、北村さん。何かお話があったんじゃないんですか、」
「……いや、すまない。また今度でも構わないか、」
「わたしは構いませんけど、それと何か関係があるんですか?北村さんが手に持っている箱と、」

 話せる理由がなかった。何故ならこれは秘密だった、彼女を喜ばせる為の秘密だったのだ。何も言わない、いや、言い出せない北村の様子を見て、なまえはもう一度だけ問い掛ける。

「その箱は私に、ですか?」
「いや、……そうじゃない」
「じゃあ、それは私のじゃないんですね、」
「……それも違う」
「なら、その箱は私が貰ってもいいんですよね、」

 だが、しかし、と言いかけた北村の手から箱を攫い、なまえは、開けてもいいですか?と微笑む。本来ならば心待ちにしていた瞬間だ、けれど良からぬ結末が顔を覗かせている。返事を待たずになまえはリボンを解き、箱を開けた。なまえの瞳は大きく揺れる、ただ一心に困惑ではないことを祈る。なまえも北村も、どちらとも何も発しなかった。沈黙が流れていく。

「……すまない、俺は少し勘違いをしていたようだ。それは、あまり好みじゃないだろう。」

 頼りない声が沈黙と共に流れた。なまえは未だに何も言えずにいる。箱の中身を見つめているなまえの瞳は次第に潤み始め、次の瞬間にはその潤んだ瞳で北村を見た。

「これは、北村さんが選んでくれたんですか……?」

 箱の中にあったのは、たった一色の口紅だった。なまえが今唇に塗っているものよりも深い色味の赤がそこにはあった。ただ頷く、彼女の瞳は次に口紅の赤を捉えた。

「……ふふ、綺麗じゃないですか。本当に北村さんがこれを選んでくれたんですか?」
「ああ、だが……、」
「好みじゃない、なんて酷いです。私、そんな我儘に見えますか」
「受け取ってくれるのか……?」
「勿論。折角、北村さんが私の為に選んでくれたものなんですから、どんな色であれ、私はこれを大切に使いたいです」

 初めてなまえの涙の意味を知る。そうか、と一言口にするだけで薄暗かった心境が一変した。理由は分からない、今はただ彼女に触れていたいと感じ、涙混じりのなまえを正面から抱き締める。手にした箱を落とすまいと彼女の腕は北村の懐付近にあり、愛おしさに頬を寄せた。

「……街でそれを見つけた時に、似合うだろうと思ってな。しかし、色味までは分からなかった。すまない。本当になまえはそれでもいいのか」
「北村さんが選んでくれたものなら、私は何でもいいんです。きっと時間を割いてまで探してくれたんですよね」
「そう、言うな。それ以上は俺が我儘になってしまう」
「珍しいですね、北村さんが我儘になるだなんて、」

 からかうんじゃない。一つだけだったら、お願い聞きますよ。本当か……?ええ、一つだけなら。それじゃあ……。
 帰宅して早々悪いと思ったが、北村は見てみたかった。自分の贈った赤で唇を飾るなまえの姿が。なまえも面倒くさがらず、嫌がらず、淡いピンクを拭き取ると今度は新品の赤を取り出し、ゆっくりと唇をなぞった。着々と赤く染まっていく唇に妙に高ぶる感情がある。いや、待て、それはあまりにも軽率すぎる。と自制心を叩き起こすものの、唇に紅を馴染ませている横顔に見蕩れてしまう。

「どうです、いい女になりました?」
「ああ、綺麗だ。よく似合っている」
「き、北村さんったら、こういう時ばっかり……!」
「もっとよく見せてくれ、」

 リビングにあるローテーブルの前でなまえはぐっと北村との距離を縮めた。そして北村も更に距離を詰め、接触する。時が止まり、瞬きも呼吸さえも忘れ去られていた。目前は影、鼻先は彼の、彼女の匂いに擽られ、心地良さに微睡む。ふっと離れてみれば、その場に取り残されたのは赤い唇を濡らした彼女と軽率な行動をしていた自分だった。

「……す、するならするって言ってくれないと、心の準備が、」
「す、すまん、俺も衝動的になっていた、すまない」
「いえ、嫌じゃないです、から……、」

 大の大人になっても頬を真っ赤にするなまえの横顔に、また感情は高ぶる。少しだけ口紅の剥がれた唇の感触はまだ生々しく残っており、更に良からぬ感情に触れては再び自制心を殴り起こす。
 でも、どうして口紅のプレゼントを?とまだよく分かっていない彼女に余裕のない北村が説明出来たのは、今日がホワイトデーであるということだけだった。



| 願わくば、きみに似合うことを |


back