横浜の海風が肌を撫でて通り過ぎていく。彼女がこの街の住人になって、もう三年が経つ。今ではすっかり見慣れた景色も三年前の自分にとっては真新しいものに違いなかった。浜北公園に停船している大きな船も、様々な植物が花を咲かせている花壇とその近くにあるパーゴラも、陽気なサーカス団がショーをやっていた広場も、全て見慣れてしまった。しかし、そうは言っても、この街に飽きてしまっただとか、この街から出て行きたいとは考えていない。前の街から逃れるようにやってきた自分を静かに受け入れてくれたのが、伊勢佐木異人町なのだから。
 これ以上、ここで潮風と共に物思いに耽るのはやめようと思った。しょっぱい思い出が甦ってしまいそうだったから。人を待つついでに移動販売のワゴンで飲み物でも買おうと思い、鞄を手にすると隣の空いたスペースに誰かが腰掛ける。黒いマスクで口元を覆ったシルバーアッシュの男だった。

「待ちましたか」
「ううん、さっき来たところ」
「それは随分とお優しいことを」
「本当。私のこと、信じてくれないの?」
「そういうつもりではありませんよ。ただ、」

 フフ、とマスクの下で小さく笑う男に女は首を傾げていた。あなたは人に優しく接する時、どこか気恥ずかしそうに笑う癖があって、私はそれを見るのが好きなのです。と歯が浮くような言葉に、女は照れ臭いと視線を逃がした。本当にそっくり。と返せば、それはよかった。と隣の男は穏やかに笑う。でも、そっくりじゃなくていいよ。と告げれば、あなたの寂しさが紛れるなら、私はこのままでいい。と少しだけ本心の見え隠れする言葉を与えられる。
 潮風が心地良い。三年前までは目を刺すような街のネオンを浴びている方が心地良かった。だが、人は心変わりをするのだろう。そう願っていなくとも、痛みは風化し、悲しみは砂の城のように崩れ去っていく。この街はとても居心地がいい場所だと彼にも教えたかった。自分だけ明日に向かっていて良いのかと思うくらいに、とても居心地のいい場所だった。


 手を引いてくれたのは、隣にいるハン・ジュンギだった。正しくは彼の影武者なのだが、全く同じ外見には誰もが騙されてしまうほど、何もかもが彼に似ている。影武者なのだから似ていて当然なのかもしれない。しかし、そのハン・ジュンギという男と関係のあった自分からすれば、結局『似ている』だけの別人なのだ。だからと言って、似ているだけの彼を喪失感のせいにして、邪険に扱うことはなかった。謂わば、双子の兄弟みたいなものだと思うと、しっくりときた。
 弟は懸命に兄に倣い、兄は弟に自分を説いた。その頃からの付き合いなのだから、赤の他人より見分けはつく。強いて言うなら、当時に比べれば弟は兄にとてもよく似てきた。時に弟の身の上話を内密に明かされたが、特別扱いや贔屓、同情などはしなかった。兄であろうと弟であろうと、ハン・ジュンギという人物には違いない。なら、自分はどちらにも分け隔てなく接するべきだと思っていた。

 しかし、そうも言っていられなくなったのが、兄の訃報を受けた時だ。その時、弟は傍にいなかったのだと言う。広島で彼は亡くなった。亡骸を見ることさえ叶わず、次に告げられたのは頭目であった『彼』を失った組織の行方。きっとここにも居られないだろうと、弟は告げる。彼は言葉や感情を綺麗に包めるオブラートを持たなかったのだろう。すぐに街を出ると言って、この手を引いてくれたのだ。追われる身となった彼に着いていく必要はなかったのかもしれない。だが、心臓を奪われた自分が生きるには彼に着いていく他になかったのだと、今では思う。


「なまえさん?」

 過去から戻らない自分を心配したハン・ジュンギがこちらを覗き込んでいる。なまえの知っているハン・ジュンギは不安そうな顔をすることはない。大丈夫。と静かに告げ、なまえは過去を覗き見るのをやめた。すると、今度はハン・ジュンギの方が黙り込んでしまい、なまえも先程のように問いかける。

「大丈夫?」
「ええ、私は大丈夫です。ですが、なまえさんに言っておかなくてはならないことが」
「わたしに……?」
「しばらくの間、こうやって会うことが難しくなります」
「えっと、それは組織のことよね」
「勿論、そうです。でも、それだけじゃありません」

 ハン・ジュンギが語ってくれたのは、この街が脅かされそうになっているということだった。今、この街の勢力図を書き換えようとしている何者かがおり、新しく出来た仲間と共に立ち向かっていくのだと。そして、この街の価値に気付いた相手に立ち向かうのには時間がかかるのだと。申し訳なさそうな顔で、そう教えてくれた。

「私のことなら気にしないで。行っておいで」

 弾かれたように視線がこちらを射抜く。はっとした顔で、まだ申し訳なさを滲ませて、こちらを見ている。心臓を奪われた自分に一番良くしてくれたのは、紛れもない弟の彼だ。また同じ思いをさせてしまったらと恐怖しているのが密かに伝わってくる。自分が重荷になっているのなら、その肩から降りなければならないはずだ。だから、笑ってみせた。本当はまた心臓に似た何かがじゅくじゅくと疼いて痛い。だが、彼の、ヨンスの足枷にだけはなってはいけない。なりたくなかった。

「あなたなら、そう言うと分かっていました」
「ふふ、そうでしょう?」
「ほんの少し、留守にします」
「うん、怪我しないように気をつけて」

 ヨンスは確かにハン・ジュンギの為だけの影武者だ。本当ならば広島で討たれるべきは彼だったのかもしれない。だからと言って、彼をハン・ジュンギのレプリカとして見るわけにはいかなかった。もし、そのようなことに甘んじてしまえば、この関係は破綻し、残穢に成り果ててしまうと知っていたからだ。そうありたくはない。だからこそ、ヨンスには打ち明けられない思いが一つだけある。せめて、自分の前では『彼』のようでなくていい。『彼』のようであることを強いられ、『彼』のようであることに努めてきた人間へ抱く思いではないだろう。だから、何も言えない自分は背中を見送ることしか出来ない。


***


 彼が突然、何の連絡もなく、ここへ来るのは初めてのことだった。遅い時間、驚きと戸惑いに開けたドアの隙間から気まずそうな顔が見えた。いつもならば前もって連絡をくれ、互いの都合に合わせてやって来るのだが、久しぶりに見た彼の顔からいつもとは違う何かを感じる。

「夜分遅くにすみません。どうしても気持ちが先走ってしまって」

 大丈夫、上がって。と彼を部屋に招き入れれば、大きな黒い背中を僅かに丸めて靴を脱いでいた。その背中にいくつか話し掛けてみる。ヨンスとはあの日以来、全く会えていなかった。こうしてここへやって来たということは、ようやく何かが落ち着いたのだろう。脅威や試練、そう言った底知れぬ強大なものが。彼が無事であったことに安堵する。過去の焼き増しのように、同じ顔をした彼を失いたくなかった。しかし、不思議なことに今のヨンスからは不穏な気配を感じない。少し前は微かに漂っていた気配が、今ではまるっきり消えてしまっている。何故だろう、喜ばしいことではあるのだが。

「ねぇ、なにか良いことあった?」
「良いこと、ですか?特には、」
「じゃあ、なんで嬉しそうに見えるんだろ」
「フフ、何故でしょうね。私にも心当たりがありません」
「私に会いたかったからじゃなくて?」

 ……そうですね、照れ臭くて誤魔化してしまいましたが。とハン・ジュンギは笑う。その笑顔を見て、なまえは目の前にいる男が本当に『ハン・ジュンギ』なのかと疑いたくなってしまった。以前に比べて彼に似てきた節はあったが、今の彼はどちらかと言うと、『彼らしい』のだ。ハン・ジュンギではなく、キム・ヨンスに。機微な変化かもしれない、思い過ごしかもしれない。だが、彼であり続けようとした男の一面に触れることが出来て、なまえは胸の虚ろに光が差し込む思いだった。

「なんか、変わったね」
「変わった、とは……?具体的に聞いても?」
「らしくなってきたって言えばいいのかな、」
「それはつまり、」
「今の方がハン・ジュンギらしいって言うか、」

 私の好きなあの人によく似てる。
 キム・ヨンスという男がハン・ジュンギでありながら、自分らしさを見せたことでなまえは初めて彼に『彼』を重ねることが出来た。抜き取られた心臓が新たに宿り、甦る。そんな気にさせられた。もう過去に囚われていてはいけない。いつまでも悲観していてはいけない。『彼』の弟が本物の『彼』になりつつあることを、共に喜ぶべきなのだ。
 すると、自然に涙が出た。表情はゆるやかに綻んでいくと言うのに、視界からあたたかな喜びが滴り落ちていく。それを見たハン・ジュンギは驚きを隠せない。だが、後ろ向きな涙ではないことに気付くと、冷たい指先で涙を攫っていった。

「随分と心配をかけていたようですね」
「嬉しいことじゃない、心配してもらえるなんて」
「ええ、私もそう思います」

 そうでしょ。ええ。今日は会いに来てくれてありがとう。……今日は長居しても構いませんか。
 話したいことがたくさんあるんです。と彼がさながら子供のように無邪気な顔でそう告げるから、なまえは満面の笑みで頷いてやろうと涙で濡れる頬をより綻ばせた。
 なまえはもう二度と、浜北公園の潮風にネガを見ることはないだろう。張り付くような闇に浮かぶネオンの記憶は大切に心臓の奥にでもしまっておくから、これからは彼の歩みを目に焼き付けておこうと思った。兄であった彼の分まで、そのすぐ近くで。



| 潮風とネガフィルム |


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