ずっと玄関から動けない人物がいた。その人物は酷く眉間に皺を寄せており、ぱっと見は不機嫌の塊そのものなのだが、恐らくそうではないのだろう。革靴を脱ぐ仕草も、その為に腰を下ろすこともせず、あんまりにも威圧感を放って佇んでいるから、なまえは恐る恐るその相手に声をかける。
「……み、峯さん?」
貫かれる沈黙。寡黙な口元、突き刺すような視線がグサリと目に刺さって痛い。彼の背の高さや表情の硬さも相まって、より威圧感が増しているように感じられるが、なまえは突き刺さる視線、放たれる威圧感に晒されながら、佇む彼の手を取った。
「どうぞ、上がってください」
「……そうさせてもらおう」
峯さんのお家ほど広くはないですけど。ああ、俺にしてみれば手狭だが、生活する分には構わない広さだ。……あ、ありがとうございます。
会話が多少ぎこちないのは前からだ。生活水準にあまりにも差があり過ぎる二人がどうして、このような関係を築けたのか。それは正直、本人達にもあまりよく分かっていない。ただ二人に関係する人物が一人だけおり、その人物はとある極道組織の六代目と言う、これまた突飛な立ち位置にいる相手だった。奇妙な縁だとは思う。なまえはその六代目と古い付き合いのある友人で、峯からすれば自分が極道の世界に足を踏み入れるきっかけとなった人物だ。
「好きにしててください」
なまえの一言に眉間の皺はより深くなる。峯の冷たい眼差しは健在で、飲み物用意してきますから。と傍を離れようとしたなまえの腕を静かに掴む。無言の圧力。なまえは困惑し、恐る恐る振り返る。彼は確かに自分の腕を掴んでおり、自分はそんな彼の腕を解けず、どうにかしようと考えていた。
「……どうしました?」
「好きにしてくれじゃあ困る」
「えっと、じゃあまずは座ってください」
「座るだけか?」
「だ、だから、好きにくつろいでいてくださ、」
なら、ここにいてくれ。と酷く真面目な目で口説かれてしまい、なまえは余計に動けなくなった。意外だったのだ。いつもとは違う、知らない峯を見ているようで、現実味がなかった。なまえが知る峯義孝は、正に完璧を絵に描いたような人物なのだ。確かに裏社会の人間と言うこともあり、戦慄させられる場面は多々あったが、それでも彼の築き上げたものが全てを物語っている。だから、どうして彼と同じ目線の場所にいられるのか不思議で仕方ない。そして、今自分に威圧的でありながら何かを訴えている峯に、どうしてあげればいいのか分からない。
いや、分からないというのは半分本当で、半分は嘘だ。これは個人的な意見だが、もしかしたら峯は甘え下手な人なのかもしれない。だから、突然他人のパーソナルスペースに入り込んだ時、居心地の悪さを感じてしまうほどに他者との関わりが希薄なのだと。懐疑心を持たざるを得ない人間だからこそ、こんな時に戸惑ってしまうのだろう。なまえは腕を掴む手に自分の手を重ね、まずは座りましょうか。と逆に峯の手を引いた。
「今日ほど、あなたが物好きだと思った日はない」
「そんな、物好きだなんて。峯さんはとても素敵な方じゃないですか」
「よくそんな恥ずかしいことを」
「でも、私からしたら峯さんの方がそう感じちゃいますよ」
「俺が物好きだと?」
ぴきり、と音を立てて今にも額に青筋が浮かんでもおかしくない恐ろしい形相でなまえを見る。……だ、だって、この世の中には素敵な人なんてたくさんいるのに、わ、私と一緒に居てくれますし。恐る恐る峯を見れば、相変わらず怖い顔のままだ。正に本職としての顔がすぐ隣にあるのだから、なまえは生きた心地がしない。
「俺はあなたじゃなければ、ここまで近付くことを許したりはしなかった」
そこに六代目の意思や繋がりは関係なく。
峯にしてみれば、なまえとの出会いから今までの関係の発展は全く予想もしていなかったことの一つだった。過去にどれだけの人間が自分に擦り寄って来たことだろう。卑しさは腹の奥底に隠していても、本人の行動の細部から読み取れる。粘っこく気味の悪い嫌な雰囲気を放ち、それは瘴気となって吐き気を呼び起こす、有害なものでしかなかった。だが、なまえは堂島大吾の古くからの知り合いであり、裏社会の人間を過度に恐れたりしない稀有な人間だった。東城会六代目の繋がりと極道に対する慣れを除いてしまえば、どこにでもいるような堅気だったのだ。
「あなたは俺をありのままで見てくれている、違いますか」
違うことなど何もない。彼女はいつだって自身に邪な目を向けることはしなかった。だから、いつまで経っても慣れないのだ。本音と建前、損得勘定、それら全てを抜きにした生ぬるい雰囲気に。心を健やかに育んでもらった人間の無害さに。峯が自分の虚ろを埋める為に、彼女を絡めとってしまえばいいと思うほどに。
「先程の言葉で不快になったのなら、謝罪しますよ。ですから、自分を卑下するのはやめてください」
「……わかりましたから」
「そして、俺は物好きじゃないと理解しておいて下さい」
誤解でもされたら大変だ。と耳元で呟く峯になまえは頷いた。峯が自分に対してとても嬉しいことを言ってくれていたのだろうが、なまえとしてはその間の圧迫感に耐えきれず、感情を置き去りにしてしまっていた。後から戻って来た感情は今更、峯の並べた言葉に揺さぶられ、沸騰しそうに暴れ出す寸前だった。
「ここも思っていたより悪くない。特にこの手狭な感じが良い」
「そんなに手狭、手狭って言わなくても……」
「好きな時になまえさんを追い詰められる」
「こ、怖いこと、言わないでください」
フッ、本当に怖いと思っているんですか。俺をここに呼んだあなたが。
威圧は和らいだようには思うが、じわりじわりと更に縮められる距離に耐えられず、なまえは席を立った。そして、足早にキッチンに向かうと戸棚からコップを取り、冷蔵庫からは冷えた緑茶を取り出し、近くのテーブルに避難している。その恥じらう姿さえ、峯に近付こうとしてきた彼女達は見せもしなかった。
比較してしまうのは彼女にとって失礼だと知っていたが、今の自分が如何に容易く満たされてしまったかを確かめておきたかった。喉から手が出るほどに欲していたものを手にしたとしても、全てが満たされるわけではない。それをたった一人の彼女が容易く満たしてしまったのだ。まだ彼女には明かせない胸の内だと、峯は言葉を飲み込む。でも、いつか伝えてみたいとは考えている。その時の彼女はどのような顔を見せてくれるのか、心底興味があった。
「じゃあ、俺はゆっくりさせてもらいますよ。あなたが言っていた、好きなように」
離れたテーブルにいたなまえは、いつの間にやら訪れた峯の変化に早速戻って来たのだが、テーブルに置き忘れたコップを取りに再びキッチンに慌てて戻る。彼女の前だと、つい気が抜けてしまう。それはきっと彼女も同じなのだろうと、忘れ物を取って戻ってきたなまえの姿に、峯は口元の笑みを密かに逃がすのだった。
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