目の前の人が子供のように無邪気な顔をしていることに驚いていた。そして、内心可愛い人だとも邪なことを考えていた。柔らかな声が問い掛けてくる。その声の心地良さにもっと良いものを準備すれば良かったと後悔も滲む。今日はバレンタインデーだ。男女の誰もがそわそわとして落ち着きのない、浮かれてしまうような日。なまえが憧れを抱く青木遼に差し出したのは、既製品のチョコレート菓子であった。

「そうか、今日はバレンタインだったね」
「ええ。日頃から良くしてくださる知事に感謝の気持ちをお渡ししたくて、」
「私はきみにそこまで気を遣わせちゃっていたかな」
「いえ、そんなことはありません。もしかして、ご迷惑でしたか……?」
「いいや、大丈夫だよ。突き返したりしない。これは内緒にしておこう、厳しい人もいるからね」

 まあ、ここでは私が一番厳しい人間でなければいけないんだけどね。と彼は悪戯に笑ってみせる。手にしていた書類をデスクに置き去りにすると、近くのソファーに体を投げ出し、なまえを傍に置くと、開けてもいいかい?と待ち切れない様子で訊ねるものだから、どうぞ。と笑みを返す。リボンを解き、包装紙を丁寧に剥がしていく姿に、自分が作ったものではないと分かっていながらも緊張していた。なまえが青木にこのような贈り物をするのは初めてだった。そして、青木が遂に箱の中を目にした時、なまえは不安に砕かれそうになってしまった。
 青木遼は寂しげに笑っていた。眼鏡の奥の瞳は驚きに小さくなるでもなく、嬉しさに細まるでもなく、ただ手元の箱に向けて寂しげな視線を降らせているだけだ。その横顔を目でなぞっても、見間違いや錯覚などではないのだと知り、なまえは胸が張り裂けそうだった。気分を害してしまったと、先程までの浮かれた自分は消えて居なくなる。すると、その視線に青木はすぐに笑って見せたが、なまえの浮かない表情に青木は説明させて欲しいと告げた。

「私は少し浮かれ切っていたんだよ。きみからチョコレートをもらえると知ってね、」

 静かに、ゆっくりと、そして誤解が生まれぬよう、丁寧に青木はなまえの目を見つめたまま、話を続けた。たったそれだけでも、なまえが抱いた不安を溶かすのに充分なほどだった。

「だから、てっきり手作りなんだと思い込んでしまった」
「……て、手作り、ですか」
「うん。だから、中身を見た時にそうじゃないと分かって、残念に思ってしまってね」
「本当はこういうものが苦手、という訳ではなく……?」
「苦手じゃないよ、アメリカにいた時もよく口にしていた」

 知ってるかな、向こうのお菓子はとても色鮮やかなんだ。日本ではあまり見ないような、とてもカラフルなお菓子でね。
 青木の話を聞いている内に、なまえの浮かない表情は薄まっていった。あの青木遼がカラフルなお菓子を食べていたと思うと、ふふ、と微笑む頬を止められない。やっと笑ってくれたとなまえの笑顔を見て、青木は胸を撫で下ろしている。そして、すまない。誤解させてしまったね。と添え、次の言葉を待っていた。なまえは頷き、召し上がってください。と手元のチョコレートを勧めた。

「ありがとう、まずは一つ食べてみよう」
「お口に合うと良いのですが、」
「きみが選んでくれたんだ、きっと私の好みだよ」

 九個のチョコレートが箱の中で綺麗に並んでいる。バレンタインを意識させてくれるような、赤いハートが中心に収まっていた。青木はまず、周りにある内の一つを手に取ると、自分の口にそっと押し込んだ。そんなに見られちゃ私も緊張するよ。と優しく宥められ、急いで視線を逸らす。感想を急かしている訳ではなかった。ただ口に合うものかどうかを知りたかっただけだ。
 青木からはチョコレートの甘い香りが漂い、なまえは恐る恐る視線を元に戻していく。決して彼を急かさぬように、注視してしまわぬように。そう思った視線の先には青木の目があり、二人の目線はぴったりと重なってしまった。うん、美味しい。と青木はやんわりと笑いかける。そして、ぽつりとほろ苦い思い出をこぼし始めた。

「全く、いい歳した大人がバレンタインにはしゃいでいて見苦しいかな」
「いえ、そんなことは……!」
「実は学生時代にこう言ったものを貰う機会がなくてね」
「知事がですか……?」
「当時の私はやんちゃだったからね」
「知事がそうだったなんて想像がつきません」
「ふふ、そうだろうね。私もあまり話したくない、恥ずかしい思い出だよ」

 これは笑った方が……?きみの好きにしていい。都知事である青木に対して失礼がないようにしたい気持ちと華やかな肩書きの下には素朴な人柄が滲み出ているようで身近に感じてしまう気持ちが競り合っている。カラフルなお菓子を口にする姿も、やんちゃだったと言っていた学生時代も、今の姿からは想像出来ないものばかりだ。そして、その最中に青木が言っていた言葉を思い出す。

『私は少し浮かれ切っていたんだよ。きみからチョコレートをもらえると知ってね、』

『だから、てっきり手作りなんだと思い込んでしまった』

 すると、一つだけ良かれと思う気持ちが生まれた。押し付けがましくないかとか、迷惑じゃないかとか迷いが頭の中を駆け巡る。しかし、駆け巡るだけ駆け巡った後に残るのは、やっぱりという気持ちだけだった。切ない目をした青木遼を見たのは初めてだったのだ。

「知事、明後日でもよければ、何か作って持ってきましょうか……?」

 なまえの言葉に青木は目を丸くし、いいのかい……?と見つめ返す。余裕はない、ないけれど、しっかりと頷いてはすぐに視線を逃がそうとした。だが、差し出された青木の指先にそれは叶わないことと知る。

「それなら、きみにこれを食べて欲しい。真ん中にあったハートだ」
「でも、それは、」
「いいんだ、私はきみに食べて欲しい」

 ほら。と摘まれたハートがその時を待っている。甘い匂いが鼻をくすぐる。唇は狼狽えて上手く開けない。ほら、このままじゃ溶けてしまうよ。と青木の指先が遂に唇に触れた。頭が真っ白に弾けていく。溶けてしまうという言葉に急かされ、唇を薄く開けば、真っ赤なハートが口の中に入っていく。指の腹が唇に触れる頃、なまえは口内に広がる甘酸っぱいストロベリーの味に、おいしいです。と呟いた。

「きみに悪いことをしてしまったかな」
「……ええ、本当です」

 いけないね、きみとの良い距離感を見つけておかないと。と青木は苦笑するが、どこか楽しそうに見える。自分もそうだと答えた割りには、嫌な気一つしていない。どうにかなってしまったのだろうか。

「明後日、楽しみにしているよ」
「でも、そんな凄いものは作れません」
「きみが作ってくれたものなら、何だって食べる。だって、わざわざ私の為に作ってくれるんだから」

 改めて青木の口からそう聞かされると、頬が熱くなる。それに、こんなに明後日が待ち遠しいと思ったことはないよ。と歯を見せて笑い、残りのチョコレートに手を伸ばしていく。あの指先が自分に触れていたのだと思うと、内心冷静ではいられない。

「知事は何が食べたいですか」
「そうだな、私は……」

 ガトーショコラがいい。勿論、一緒に食べてくれるね?と見慣れた人当たりのいい笑顔で聞かれてしまっては、断れるはずもないと良い返事を返し、なまえは火照る頬の熱をどこかに逃がしたいと目を閉じた。だからこそ、青木が向けた焦がれるような視線に彼女は気付けなかったのだろう。瞬きの間に火照った頬の熱を冷ましてしまった男はいつもと変わらない柔和な表情で、もう一つチョコレートを口に含んだ。



| ストロベリー・ハートが溶ける前に |


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