自分より低い位置にある彼女の頭部に、桐生はため息を吐きたかった。そして、自分より背丈の高い男の荒んだ生活を目の当たりにし、彼女はため息を吐きたかった。

「ったく、急に押しかけてきてどういうつもりだ」
「こうでもしないと、部屋に上げてくれないでしょ」

 桐生くんはさ。したり顔で彼女は不敵に返す。なまえの訪問は突然のことだった。今日の仕事を終え、何をするでもなく家で過ごしていると、家のチャイムが鳴った。下手や勧誘なら追い返そうと気だるげにドアを開けたのが良くなかった、と今では思う。見た事のある人物が余所行きの笑顔を浮かべて立っていた。なまえは桐生が神室町でよく飲む店の人間だ。そして、桐生と錦山と親しい間柄の人間でもある。そんな彼女が何故、今日桐生の自宅へやって来たのか。それは、溜まりに溜まった鬱憤を晴らすことに近かった。

「で、誰に教えてもらったんだ」
「錦山くん」
「……だろうな、」
「可愛い女の子紹介してくれりゃあ良い、って」
「本当にしっかりしてるよ、錦は」

 するり、となまえは立ちはだかる桐生の横をすり抜け、荒んだ生活の部屋へと上がり込んだ。そして、冒頭に至る。なまえはあちこちに散らばった一升瓶や空き缶に目眩を起こしそうになっていた。どうしたら、こんなことになるの?と問いかければ、俺みてぇにしてたらだ。とさらっと返され、今度はなまえの横を桐生がすり抜けていく。一足先に窓際に腰掛けると、気にならねぇなら座ってくれ。となまえに声をかける。なまえは勿論気にならないと言った顔で、テーブルを挟んだ向かい側に腰を下ろす。

「ったく、似合わねえな」
「私のこと?」
「汚ねえ部屋だと分かってたから、今まで呼びたくなかったんだ」
「錦山くんのことは上げるのに?」
「そりゃあ、錦は別だ」
「私もそっち側になりたいだけなんだけどな」

 むすっと頬を膨らませ、なまえはあたかも不機嫌であることを匂わせる。だが、桐生としても、本来綺麗な場所で夜の仕事をしているような人間を、こんな荒んだ生活痕がまざまざと残る部屋に上げたくなかった。そして、出来れば彼女の店に顔を出せたらよかったのかもしれないが、ここ最近は入り用が多く、今の仕事の報酬では彼女の元で使ってやれる分などたかが知れていた。なまえはなまえで、テーブルの上の空き缶を一つずつ並べて暇を潰している。捨てた方がいいよ、とありがたい言葉まで添えてくれた。

「最近、来てくれないって言うのもある」
「でも、錦は顔出してるだろ?」
「錦山くんはね。桐生くんと違ってマメだし、それに結構優しいんだよ」
「優しい?あの錦が?」
「うん、色々と相談乗ってくれてさ」

 まさか、それで俺の話題が出たんじゃないだろうな。核心を突いた一言に、なまえはそれとなく目を逸らし、桐生はテーブルに前のめりになる。すぐに話題を変えようとしたなまえに、桐生は深く息を吐き、やっぱり帰れ。と席を立った。自分を追い出そうと近付いてくる桐生に呆気なく手を取られ、その場に立たされ、引きずられていく。なまえも抵抗はしたものの、やはり男相手に力では勝てないのが現実だった。
 強く握ってはいないものの、そう簡単には解けてくれない手を払いたくて、出来る限りに後退りすると、なまえの足は何か固くて丸い筒状のようなものを踏んでしまい、大きく体勢を崩した。咄嗟に桐生がなまえの腕を引き、二人諸共倒れ込む結果となった。大きな物音を立て、桐生は床に倒れ、なまえは桐生の腕の中に匿われていた。急いで体を起こし、桐生の無事を確認する。桐生は桐生で、なまえの無事が気になるようですぐに上半身を起こす。

「なまえ……!大丈夫か……!」
「う、うん、私は大丈夫。桐生くんは……?」
「ああ、俺も何ともねえ……、ってその足、」

 足と言われ、なまえはすぐさま自分の両足を見た。すると、転んだ際にテーブルに足をぶつけてしまったのだろう。足の皮膚が薄らと赤らんでおり、転倒の際の衝撃を物語っていた。自分より早く患部に触れたのは桐生だった。ごつごつとした手が不器用なほど優しく触れている。俯く桐生の胸元のネックレスが静かに揺れた。なまえは一人、罪悪感に苛まれ、ごめんなさい。と耐えきれず口にした。

「いや、俺も悪かった」
「ううん、私が暴れたりしなきゃ」
「俺もやり方が悪かったんだ、なまえだけのせいじゃねえ」
「……ありがと、」

 桐生は少しでもマシになれば、と適当なタオルを手に流しに立つ。そして、冷たい水でタオルを濡らし、固く絞った後、なまえの赤らんだ皮膚にそっと押し当てた。患部から熱が奪われ、じんわりと冷えていく感覚になまえは居た堪れなくなった。しかし、桐生の手が自分の足に触れる度、冷たいタオルを押し当ててくれる度に、まるで大切にされているかのような錯覚を抱いた。ただの勘違いであると分かっていたが、今だけは少し自惚れさせて欲しい。

「もう大丈夫。私、帰るね」
「何言ってんだ、まだ冷やしたばっかだろ」
「でも、桐生くんも忙しいだろうし、」
「金はねぇが時間ならある。腐るほどな」

 ねえ、となまえの声が寂しそうに響く。どうして優しくしてくれるの?小さな寂しさは桐生の耳に届き、彼女の望む答えを言ってやりたいと思えた。だが、それはどこか違うような気がして、なまえの目を見つめると表情を緩めた。

「俺がそうしたいと思った、それだけだ。だから、せめて冷やし終わるまではここにいてくれ」
「あの、さ、」

 歯切れの悪い台詞はなまえのものだった。未だに申し訳なさを漂わせ、桐生を見る。やっぱり良くないよ。と彼女が言うものだから、気にしてねえ、と返すつもりだった。しかし、彼女の言葉には続きがあり、それを聞いてしまった桐生は何も言えなくなってしまった。この時、珍しく狼狽えてしまったのかもしれない。

「誰にでも優しくしちゃだめだよ」

 なまえは神室町のラウンジで働くキャストだ。相手にどのように接すれば望むものが手に入るか、理解している人間なのだ。そんな人間が煌びやかな仮面を外し、建前のない素顔でそう忠告をするのだから、彼女には何かあるのだと察するのに時間はかからなかった。引いたアイラインより弱気な瞳に、桐生は息を呑む。どんなに綺麗なドレスを纏っていても、どんなに美しく飾り付けていても、その全てを剥がしてしまえば本来の素朴な女だけが残る。

「安売りしてる訳じゃねえさ」

 たったそれだけを返すと、なまえは困ったように笑い、そっか。と呟いた。でもね、世の中にはずるい人がたくさんいるから。と彼女は仮面越しにこちらを見ていた。するっと懐に入り込んだかと思えば、しばらく触れてから離れていった。彼女の柔らかな匂いが余韻となって響く。

「ごめんね、私もそのずるい人だから」

 なまえの謝りと口づけに、桐生はそうでもないと返す。どちらも本当は余裕がない。しかし、それをわざわざ教えてしまうほど、この街に慣れていないわけじゃない。熱く千切れた吐息が唇を燃やす。この熱を彼女にも与えてやりたいと、桐生は手にしたタオルを辺りに投げ、なまえとの距離を詰めていった。交差する腕と足、覆い被さるような体勢で桐生はなまえを見た。手で触れれば、濡れたタオルの冷たさが桐生の手を伝って彼女の熱を奪う。声が漏れ、理性は欠ける寸前だ。必死に感情の激流をせき止めている。

「俺だって、そうだ」

 真っ当に生きてるヤツに比べりゃ、相当狡い人間だ。と桐生が言い、私だって純情ぶろうとすれば出来る。となまえが言う。

「……ねえ、どうしよっか。この後、」
「引き返すんなら今、だろうな」
「引き返したくないんだけどな、」
「奇遇だな、俺もそう思ってた」

 二人の視線は磁石のように引かれ合い、そして、やがて影の中で一つに重なる。桐生の冷えた指先が太腿を撫で、ミニスカートの中へと滑り込んでいこうとした時、突然の来客がドアを開けて中に入って来た。知らぬ足音に桐生がまず反応する。冷たい手は置き去りのままで、なまえも唇をしっとりと濡らしたままだ。


「悪ぃ、取り込み中だったか」

 一人、気まずそうな顔をしている男は、桐生の兄弟分である錦山だった。錦山は二人が情事を始める寸前で、この部屋に飛び込んで来たことを後悔していた。つーか、予定あんなら連絡しろっての。と錦山は不満そうに部屋から退場していく。錦山が居なくなるまで、二人は動けなかった。その間、延々と羞恥心が燃えては収まり、再び燃えて、の繰り返しだった。互いの顔を見れない二人は、気まずい空気の中黙り込むことしか出来なかった。ただ、もし次があった時には、これ以上のことが待ち受けていると確信しながら。



| 駆け引きにすらならない |


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