薄桃色の空とそれを反射させた海が世界を二分している。穏やかなさざ波に耳を傾け、凸凹した大きな流木の上に腰を降ろして黙って待つ。少し前から、いや、実を言うとかなり前からの習慣だった。一人で懐かしい海辺を訪れ、勝手に待ち続けている。ここに来る約束も保証もないのに、いつまでも待ち続けている。かの有名な忠犬も同じ気持ちだったのかもしれない。彼は賢いと言われる動物であったから、本当は諦めという言葉の意味を独りでに悟っていたのかもしれない。
 気持ちは既に角の取れてしまった小石のようだった。世界の流れに抗うことをせず、流されるままでいるのだから。強く信じたい気持ちや張ったままの意地もゆるゆると削れて、削れて、ひたすらに削られていった。この大きな流木に一人で座るのは寂しいものだった。隣がどちらも広くて、それなのに誰もいない。知り合いを呼ぼうにも、呼びたい人はもう近くにいないのだ。でも、その人もここでこうするのが好きだった。だから、彼の分まで自分が海や空を眺めているのだけれど、自分が好きだったものが何だったのかを思い知らされるばかりで、ちっとも彼の為になっていないと気付いた。

 虚しい。けれど、目の前に横たわる海を前にして、手を広げたままの空を見上げていると、不思議とそんな味気ない感情のことは忘れられた。寂しい。けれど、ここに座って正面の景色に溶け込んでいるとスライドショーのように蘇る情景がある。それを見ているのは嫌ではなかった。その情景の中にだけは彼が存在してくれているからだ。ただ、それを時に残酷だと思うことはある。忘れなければならない人のことをずっと心に留めている証なのだ。世界はとっくに忘れてしまったと言うのに、心の情景だけは彼が自分の隣に存在していたと囁くのだから。
 忘れてしまうこととは、血も涙もない行為なのだろうか。もしかしたら、それを選んでしまった方がきっと楽に生きられると答えが出ていても?楽に生きることさえ、いけないような気がするのは何故だろう。彼の苦労を知っているからだろうか。誰かが何かしらの得をするのが未だに許せない、狭い世界だ。まるで地獄より地獄、妬み嫉みに囚われた魑魅魍魎の巣窟だ。だからこそ、彼も大層苦労したのかもしれない。今になって彼の苦労の一部を追体験したように思えて、やるせない。次に顔を合わせることがあれば、いつもありがとう。本当にありがとう。と少しでも伝えてやりたいのに、それすら叶いそうにない。ただ海辺にひとりきりの女が流木に腰掛けているだけだ。


 月が黙って浮かんでくる。太陽が静かに沈んでいく。街の喧騒でさえ誤魔化せない思いや気持ちは全部、ここで綺麗さっぱり海に投げ捨てることにしている。さながら、切ないメッセージボトルだ。そのボトルの行き着く先など分からないくせに、受け取る相手などいないくせに、ひたすらに投げ込む子供のようだった。本当は素敵な思い出を詰め込められたらいいのだろうけど、まだ手放せそうにない。忘れることを選んだ日には、思い出さえも投げ込もうと考えてはいる。考えてはいる、だけだ。
 本当は自分自身、それなりに聞き分けの良い方だと思っている。無闇矢鱈に一時の感情で周りを振り回したりしない人間だ、これでも。でも、でも。だからって、あんな別れは正直、ない。自分が聞き分けの悪い人間だったら、別の方法で別れを告げてくれたのだろうか。

 ねえ、こんな綺麗な海辺にひとりほったらかしておいて、何をしてるの。もうわたしのことなんか、どうでもよくなっちゃったんでしょう。何にも言わない人だからって、いつまでも甘やかしてあげる訳じゃないの。まずは、元気かどうか知りたいから会いに来てくれない?それで元気だって分かったら、その頬に一発ビンタさせてくれないかな。それできっと気が済むから。それでやっと許せる気がするから。
 極道だからとか、通す筋があるからとか。正直、そんな目に見えないものの話なんてどうでもいい。確かに義理堅い世界で生きてきたのかもしれないけど、じゃあ、どうしてわたしを置いていっちゃうんだろう。わたしへの義理は?恩義は?……愛情は?もう、どっかに捨てちゃった?俗世への未練と一緒に切り捨てちゃったの?そんな簡単に切り捨てられる関係の人間だったの、わたし。わたしはそう思ってなかったから、くやしいよ。でもね、すまなかったって言っても、もう間に合わないよ。もう間に合わないんだよ、くやしいでしょう。……ねえ、くやしいでしょう。ねえ、

 いつだって嫌いになれそうだったこの海を嫌いになれないのは、思い出が幸せを過ぎて呪いに変わってしまったせいだ。いつ欠けるか分からないまま、だらだらと生きていたせいだ。流木に腰掛けながら恨んでいた、そんな日もあった。薄情だ、人でなし、女泣かせ……、次々と恨み節は吐き出された。でも、何故だろう。恨み節も全て吐き出してしまったら、やはり最後に残ったのは純粋な心だった。相変わらず隣には誰も来ない、寂しい寂しい景観に溶け込むのを止めてしまおうかと思った時だった。


「誰を待っているんだ」

 人を呪わば穴二つ。誰かを悪く思ったから、遂に自分に返って来たのだと思った。隣に誰かが腰掛け、そして声をかけてきたのだ。その姿は生き写しのように彼によく似ていた。もしかしたら、彼本人なのかもしれない。ぐずついた視界じゃまともにその人の顔を見ることが出来なかった。海が波音を立てて鳴いている。泡立つ波間に彼の声が吸い込まれて消えた。どうか、懐かしいだけの声を掻き消すくらいに海が荒ぶってくれたらいい。どうか、懐かしいだけの香りを打ち消すくらいに海が時化てくれたらいい。どうか、懐かしさに縋りついてしまいそうな自分を暴れる波が連れ去ってくれたらいい。

「どうせ、今更謝ったって許してはくれないんだろう」

 こんなことなら、今日ここに来るべきではなかった。こうなってしまうのなら、もっと早くこの海を嫌いになってしまえばよかった。一途な乙女心なんて存在しない。そんなもの、存在しない。自分勝手に出て行った男が、自分の戻る場所としてそんな幻想めいた言葉を作り上げただけだ。瞳から滴り落ちるのは、涙によく似たものだった。長い間こびり付いて落ちなかった、孤独な風景画の絵の具が溶け落ちているのだろう。ぼたぼたと人目を気にせず、滴り落ちていく。とめどなく、仕方がないくらいに溢れて止まない。
 さめざめと泣くことが出来たら、どんなによかったことだろう。たったひとり、女が海辺で泣いているだけで済んだのだ。しかし、さめざめと泣けなければ、喚くようにも泣けない。ただ壊れた蛇口のように瞳から涙を排出しているだけなのだ。このようにして流れた涙に心はあるのだろうか。ずっとずっと押し殺していた感情を今も尚、殺そうとしている。もう手は尽くした、これ以上何を殺せばいいのだと耳元で誰かが囁く。かえってきたじゃないか、たいせつだったひとが。ちゃんとじぶんのとなりに、もどってきてくれたじゃないか。

 もうこれ以上、殺すものなんかない。と言い切り、その誰かは霞んで消えていった。それはかつての綺麗だった自分で、健気に一途に帰りを待ち続けていた頃の自分だった。彼女は隣に座する人を見た後に薄桃色の波間に帰っていったのだ。ざわめく波の潮風が頬を撫でた。もう顔を上げるべきだと誘われて、真隣を見た。彼は肩の荷が降りたようにどこか気楽そうな顔をしている。だが、時間の流れと共に僅かに老け込んだようで、刻み込まれた皺に自分の存在しなかった時を思う。

「結局、いつも最後は泣かせちまう」
「……そうですね、今までもたくさん泣かされてきました」
「どんなに歳をとっても、根っこの部分は変わらねえってことなのか」
「でも、」

 泣いてあげられるだけ、いいんじゃないかって思うんです。だったら、さっさと別の男とくっ付いた方が良かったんじゃねえか。こんな半端もんなんかより。そりゃあ、泣かされないに越したことはないでしょうね。忘れる努力も必要だろ?それはあなたもでしょう、

「桐生さん」

 その名を呼べば、彼はどこか苦笑しているように見えた。捨てた名前で呼ばれ、どう反応していいのか分からないといった具合だ。ずっと、呼びたかった名前はもうこの世のどこにも存在しない。消えてしまったのだ、この世界のデータベース上から彼の名前の四文字が呆気なく、死と共に消えてしまった。彼と呼応する文字列が削除されてしまったこの世界で再び巡り会えたとしても、二度と干渉してはならないように感じる。彼が何故、その結末を選んだのかを考えれば言うまでもないはずだ。

「どうして今日はここに」
「本当はもっと早くここに来たかったさ」
「大変、だったんですね。きっと」
「色々あった。色々な」
「私は今日でここを最後にするつもりでした」
「その方がいい」
「待ちくたびれちゃって。でも、不器用な人に愛想を尽かすことも出来なくて」

 だから、また会えてよかったです。と強がりは震えた声と共に出て行った。潮風が目に染みる。明日を約束しに来てくれたわけではないと知っていた。もしかしたら、今日を最後に二度と会うことさえ出来なくなってしまうかもしれない。そうなったら、自分自身も待つことに見切りをつけるだろう。そして、この海に全てを放り投げて新天地へと向かうだろう。彼もそれでいいと思ってくれたのかもしれない。
 無口ではあったものの、嫌な雰囲気ではなかった。少しだけ昔を懐かしみ、思い出が目の前で鮮明に甦っているようで、あの頃に戻れた気がしていた。ただ、頬を伝う涙だけがしょっぱい。自分が彼の恋人であったことを決して忘れない。名も無き彼の重荷になるくらいなら、断ち切ったしがらみの根を再び下ろそうとは思わない。

「やっぱり秋山さんの言った通りだった」

 ありがとう。と口にして、さようなら。と手向けた。見上げる視線をいくつか貰ってやり、海辺に綺麗な思い出を置いていった。それはとても綺麗な、綺麗な思い出だ。

「こんなことなら、籍でも入れておくんだった」
「私を未亡人にしないでください」

 砂浜に拙い足跡だけが残る。流木には男の姿がある。この世で一番残酷なのは、相手との別れを告げられないことだろう。行かなければならない者を見送ることは多々あるが、その時に言葉を添えられないものだ。特に別れの言葉は。告げられないのには理由がある。再び同じ明日に生きたいと願うが故に、一縷の望みに賭けているが故に。
 桐生一馬は確かに死んだのだ。確かに。ならば、自分は一体誰に別れを告げたのだろう。海辺の亡霊に、だろうか。思い出の亡霊に、かもしれない。気付けば、流木の影は綺麗になくなっていた。幻を見たのかもしれない、しかし。

「すまなかった」

 好きな声音の、好きな温度を含んだ彼の謝罪が鼓膜に流れ込む。波音に掻き消されぬよう、さざ波に連れていかれぬよう、受け止められて歩みは止まる。真正面、抱き抱えられないくらいに大きな背中に手を伸ばす。凪ぐ。この一瞬の間だけ世界が口を噤み、目を閉ざす。誰も見ていないからと煙草の残り香が漂う、彼の体を思い切りに抱き締めてやった。
 まだ世界はその瞳を閉ざしたままだ。凪ぐ、静寂の一瞬にしか生きられない二人は、ようやく許されたのだろうか。



| 凪 |


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