杉浦文也と両思い
ぎこちない空気が事務所内に流れる。その空気の中、一組の男女がそれぞれソファーに腰掛け、黙り込んでいた。一人は気まずそうな顔で、もう一人はまじまじと向かい合う相手の顔を見つめている。変わったね、まるで別人みたい。となまえはかつての彼と今の彼を見比べていた。
「まあね、僕にも色々あったから」
「でも、まさかこんなところで会えるなんて」
「本当。それで、なまえちゃんはどうしてここに?」
杉浦の問いかけになまえは顔を曇らせた。浮かべていた笑みも薄れていき、視線はゆっくりと彼女自身の手元に向かっていく。まずい質問だったかと内心焦る杉浦を他所に、なまえはぽつりぽつりと話し始めた。なまえが神室町の八神探偵事務所を訪れたのは、人探しを八神に依頼する為だった。だが、その探し人は偶然にも目的地である探偵事務所におり、八神と海藤は気を利かせて二人きりにしてくれたのだ。気を利かせてもらった割に、いざ二人きりでは気まずくて仕方ないのだから、なんとも皮肉だ。
「私の友人を探してもらいたくて」
「なまえちゃんの友人?」
「うん。近所に住んでる子だったんだけど、いつしか全然会えなくなっちゃって」
「そうなんだ、」
寂しそうな瞳に胸がちくりと痛む。実を言うと、杉浦となまえは全くの他人ではない。冒頭の二人の会話の通り、互いに面識があり、今日ここで再会を果たしたのだ。杉浦は一目で彼女がみょうじなまえだと気付いた。それは昔の名残りが今も残っており、あの隣にいた時間が長かった杉浦だからこそ、彼女の正体に気付くことが出来たのだ。だが、なまえは杉浦に訪れた変化を知らない。外との繋がりを断ち切り、自室に引きこもることを選んでからは彼女との繋がりも切れてしまった。
「でも、探偵さんに頼まなくても大丈夫だってわかったから」
「……それって探す必要がなくなったってこと?どうして、急に」
「私が探して欲しかったのは、」
自分自身であったと彼女が言い放つ。寺澤文也だと、はっきり彼女は口にした。感情の古傷が微かに震え始める。本名で呼ばれるのは久しぶりのことだった。別れを切り出してから、彼女に名を呼ばれたことはない。だからこそ、余計に思い出が鮮やかに甦ってくる。もうどうでもいいことだと、自分には関係のないことだと切り捨てたはずの思い出が古傷をゆっくり開いていく。
かつて、寺澤文也はみょうじなまえに思いを寄せていた。共に過ごすことの多かった学生時代、素朴で優しい彼女の人柄に惹かれている自覚はあったが、若さ故の未熟さが思いを告げることを何度も躊躇わせた。軽率な一言で今の関係が失われてしまうことがとても恐ろしかった。自分の気持ちとすれ違ってしまった日には、もう二度と同じ関係には戻れないのだろうと悟っていたからだ。
「どうして、僕を」
「ずっと心配だった。文也くんに会えなくなるなんて思ってもいなかったから」
「……ごめん、」
「初めは時間が解決してくれることだって信じてた」
でも、それが間違いだった。
なまえは当時のことを悔やんでいるのだと言う。外界との繋がりを断った友人の傷を癒せるのは膨大な時間だけだと、自分自身に言い聞かせ、また会える日が来るまで自分の人生に没頭していた。だが、友人を待ち続ける時間は、なまえの抱いていた希望を風化させるほどに膨大だった。そして、いつしか待ち続ける心が弱っていることに気付いた。それは寺澤文也と会えなくなってから数年経った頃のことだ。
その間、実の姉が凄惨な事件に巻き込まれたとニュースメディアで知り、寺澤家の計り知れない心中を悼み、距離を置くことを選んだ。なまえが寺澤家を訪れたのは、寺澤文也が神室町で窃盗団に属する杉浦文也として生きるようになってからだ。丁度、その頃は神室町で連続殺人犯による殺人事件が多発しているからと、神室町へ行くことさえ叶わなかった。だが、最近になり、事件は無事に収束し、更には有名な探偵事務所の噂を耳にするようになり、なまえはようやく八神探偵事務所へと足を運んだのだ。
なまえの後悔を聞いた後でも、杉浦の中ではまだ疑問は残っていた。心根の優しい彼女が自分のために心を割いてくれているのはありがたいの一言に尽きる。しかし、それでも自身を探す理由としてはまだ腑に落ちなかった。勝手に繋がりを切った自分のことなど、諦め、忘れてしまってもよかったのではないかと。
「それだけは出来なくて、」
「でも、その方がよかったんじゃない?実際、こうやって会えたのも奇跡みたいなものだし、」
「私にはもう一つ、後悔してることがあるの」
「もう一つ?」
もっと早くに言えてたらよかったんだけど、となまえは困ったように笑う。柔らかな唇が丁寧に紡いでいった。ずっと前から好きだったと、優しい落ち着いた声音で初めて胸の内を伝えられた。寺澤文也にとって、一生聞くことなどないと思っていた言葉だった。彼女の背面にある窓から温かな日差しが差し込んでいる。心臓は臆病に高鳴った。未だに耳を疑っているのだ、彼女がそんなつもりでいたとは夢にまで思わなかった。動揺を隠し切れないのは、自分が感情的になってしまう側の人間だからだと自負している。
繋げる言葉さえも上手く見つからないまま、彼女を見た。日差しが彼女の輪郭をなぞり、淡い色味の中で存在し続けていた。こんな時、自分の口にした言葉が戻って来る。今、こうして面と向かっていられるのは奇跡に近しいのではないか。そして、彼女が胸の内を、思いを打ち明けることなど、より奇跡に近しいのではないかと。ならば、何故彼女に告げる言葉を見つけられずにいるのか。それじゃあ、あの頃の諦めた自分と同じだ。今の自分なら、真正面から現実に立ち向かっていけるだろうに。そう教えられたじゃないかと、一人弱気な自分を奮い立たせ、閉ざしていた口を開く。
「僕も、同じだった」
数年越しの片思いが今になって、胸の奥から取り出される。諦めと共に切り捨てたはずのそれは今も胸を焦がすように熱を帯びていた。捨てられるはずがなかったのだ、彼女への思いはそんな易々と手放せるようなものじゃない。ただ目を背けていた、ありもしない現実に勝手に絶望していただけだった。なまえの自分を見つめる瞳が結末を待っている。意識するよりも先に、心が声帯を震わせた。
「あの頃から何も変わってない。どんなに見た目が変わっても、僕の中でそれだけは変わらなかった」
勝手に諦めたつもりでいたんだ、なまえちゃんの声も聞かずに。
目を丸くするでもなく、動揺するでもなく、なまえは照れくさそうに笑っていた。その笑顔は学生時代の彼女のまま、何も変わっていなかった。好きな笑顔だった、杉浦が彼女の隣にいたいと思った一番の理由だった。久しぶりに込み上げるものがある。懐かしく、切ない。けれど、その温かさ故に手放しがたい、気恥ずかしさによく似た感情。中には相手に思いを伝えるだけで満足する人間がいると言うが、今はその理由が分かる気がする。相手が健やかで変わりなく、ささやかな幸せが転がっている道を歩いて行けるなら、自分の存在など道の先になくても構わない。彼女にとって、あまりにも出来すぎた男になってしまっただろうか。
「告白しておいて、相手が幸せならそれで良いって思ってるでしょ」
「なまえちゃんって人の心が読めたっけ……?」
「ううん。なんとなくだけど、そんな気がして」
「昔っからそういうとこ、鋭いなって思ってたよ」
肩を揺らして日差しの中、彼女が笑っている。つられて口角がゆるやかに上がっていく。あの頃と比べれば、流れた時間の分だけ互いに大人になったことだろう。しかし、こうして互いに顔を見合わせ、笑い合えたなら、結局は何も変わっていないのだと実感する。心地良い刹那だった、携帯の画面に表示された八神からのメッセージに別れの気配が近付いていると知る。それは彼女も同様だった。
「ごめん、少し長くなり過ぎちゃったね。今日は会えてよかった」
「僕も久々に会えて嬉しかった」
「それじゃあ、頑張って」
単純に、またね。と言って欲しくなかった。聞きたくないからと自分の言葉で彼女からの別れを遮り、忘れられていた本題を切り出す。
「で、僕たちお互いに告白したわけだけど、お互いに返事しないままでいいの?」
「へ、返事……?」
「そ、返事。だって、言ったからには聞きたくない?普通」
「えっと、それは、……そうだね」
「僕としては是非、聞きたいな」
途端にしどろもどろになるなまえに焦点を合わせる。それがプレッシャーになっているのか、今までそんな素振りは見せなかった彼女が目を合わせようとしない。どうやら、自分は彼女にとって出来すぎた男にはなれないらしい。やはり、口にしたからには彼女の思いを聞きたい。ここまで互いにさらけ出して結ばれない相手など存在するのだろうか。
「わたしは、もちろん今も好きだから、その、」
「僕も」
「だから、その、良ければ」
「良ければ?……良くなかったら、諦められるの?」
「えっと、そうじゃなくて……!」
「じゃあ、なんだろ」
「文也くんが私で良いって思うなら、」
「いいよ。寧ろ、なまえちゃんじゃなきゃ嫌だし」
ほ、ほんとう……?!となまえは遂に目を丸くして驚いている。忙しなく表情が変わっていく様が好きだと、自分からも更に打ち明けることにする。
「僕だって、なまえちゃんにこれからも好きでいてほしいって思ってる」
だから、また隣に居させて欲しい。今度はなまえちゃんの恋人として。
いいかな、と静かに問いかける。静寂の間に彼女は一度頷いて見せた。それが精一杯の返事だと言うように、なんとか目線を合わせて頷いたのだ。彼女が見せたのは、自分の知らない一面だった。きっとそれはたくさんあるはずで、けれど、それを一つずつ知っていきたいと思うのは、彼女の精一杯の返事に救われてしまったからだろう。
「こんなことなら、もっと早くに言っておけばよかったって思うよ」
「でも、今じゃなきゃ言えてなかったのかも」
「それもそうだね」
落ち着きを取り戻した彼女は気恥ずかしそうにこちらを見て、ぎこちなく笑みを浮かべる。まだどこか照れくさそうで、やはり気恥ずかしさに勝てないと言うように。
立ち止まることが出来なかった時間の濁流の中で、故意に手放した彼女の手をもう一度掴んでも良いのだと許された今、寺澤文也はみょうじなまえとのこれからのあり方を共に思案したいと考えている。
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