歪んだ尾田純
「そう言えば、彼女とはまだ続いているようですね」
二人きりのオフィスで、何気なく口を開いた立華に背筋がゾッとした。まるで、自分に釘を刺されているかのように感じてしまったからだ。ええ、まあ。と上手く躱してみれば、立華もあまり追求することはせず、意外でした。と静かに笑っている。
「……そうですかね、」
「尾田さんは滅多に心を開かない人ですからね」
「いやぁ、そんなことは」
「それほどまでに彼女は良い人なのでしょう」
俺には勿体ないくらいですよ、と吐き出す。本音か建前か、付き合いの長い立華は聞かずとも分かってしまうだろうか。表情だけでなく、思考も読めない相手だ。私情を挟むことを良しとせず、野望の為なら何もかもを天秤にかけることの出来る人間で、愚直且つ勘も鋭い。そして、何より力を持っている彼はいつまでも自分の理想であり続ける。自分も彼女と同じ眼差しで立華を見ているのだろう。だが、立華はこの眼差しに麻痺が生じるほどの恍惚感など感じたりはしないはずだ。浅はかな自分とは違って。
彼女とは、仕事を通じて出会った。立華には、自身の野望を後押ししてくれる協力者が少なからず存在する。彼女は、立華の協力者である男の一人娘だった。第一印象から窺える育ちの良さ、気品を感じさせる立ち振る舞いに、尾田は内心どうとも思っていなかった。こんな時代には珍しいのかもしれないが、所詮はただの箱入り娘。男慣れもしていなければ、酒や煙草も嗜んだこともないような、あまりにも清廉潔白な身に幼稚さすら感じてしまう。馬鹿げた時代に馬鹿げた人間が馬鹿ほど溢れており、尾田の人を見る目は異様に肥えていた。それは人を相手にする稼業の中で培われたものだった。だからこそ、こんな時代で尾田が興味を引かれるのは、突出するくらいの馬鹿げた人間だ。馬鹿げた人間が起こすトラブルと言うのは、時に想像もしていないような展開を呼び込んでくれる。
しかし、目の前に置かれた礼儀正しい人形のような彼女に食指は全く動きはしなかった。彼女は自分の興味を引くような存在ではない。だが、彼女からすればそうではなく。渡した名刺を終始手にしていた彼女は別れ際に、どうかお体には気を付けて、無理をなさらないでくださいね。と添えたのだ。その場は立華と共に礼を告げて別れたのだが、絵に描いたような生娘である彼女のことが忘れられずにいた。普段なら相手にすることのない子供同然の相手を、自分は何故か不思議と引き摺っている。尾田は内心に渦巻く言葉に出来ない靄を晴らしたい一心で、彼女と接触することにした。
ある時は話をするだけでも、ある時はデートのように感じのいい喫茶店に連れ出したり。また、ある時は一緒に食事でもどうかと予定を尋ねたりと、尾田は順調に彼女との関係を築いていった。初めはおどおどとしていて、要領を得なかった彼女もいつしか次第に心を開いていくのが分かり、互いに近い距離で話が出来るまでには関係が進展していた。その頃には尾田も彼女のことを、ただの出来の良い人形として見ることはなかった。
みょうじなまえは感化されやすい性格だった。大切に育てられたと言うこともあり、他者に対して寛容な一面がある彼女は、尾田を見る眼差しに憧れを滲ませていることが多い。あまり外の世界を知らないところも尾田への憧れを抱かせる一因になっていた。彼女の目はいつも憧憬に満ちており、その心地良さを知ってからは日に日に彼女への愛着が増していった。
「私は尾田さんの話を聞くのが好きです」
「そう?別におとぎ話でもしてる訳じゃないけど」
「自分の知らないことを知ってるって、とても素敵だと思います」
「それじゃあ、世の中の男は大抵素敵な紳士だな」
「誰でも良いわけじゃありません。私は尾田さんだから、」
「へえ、そういうこと言ってくれんだ」
二人は広い応接室で対面していた。どこもかしこも両親のセンスの良さが窺える、人をもてなす為の内装に富んでおり、その居心地の良さは他とは比べ物にならない。派手過ぎない美しい木目調のローテーブルにはティーセットが置かれ、二人分のカップに注がれた紅茶はまだ温かく、湯気が上がっている。
赤の他人、顔見知り、知り合い、友人という過程を経た今ではすっかり恋愛関係に落ち着いていた。丁寧な言葉遣いは好感が持て、品のある仕草と行儀の良さにはどこに連れ出しても恥ずかしくない。彼女を隣に置くことは自分の価値を高めてくれる付加価値に近しかった。だが、尾田にその魂胆はない。みょうじなまえは決して尾田純のステータスには成り下がらない。そのような括りで収まってしまうような存在ではないのだ。
「本当に俺なんかでいいの?もっと良い相手、いるんじゃない」
「そんなこと、ないです……!」
「どうして、そう言い切れるんだ?」
「そ、それは、」
お淑やかな薄づきの唇がたどたどしく胸中を明かす。自分でなければいけない理由と彼女の執着の欠片が吐き出された。尾田はなまえにとって理想の異性である。今のこの時代にしっかりと地に足をつけ、仕事に勤しんでいる。他者を傷付けず、他者との関わり合いを大切にし、他者を尊重するような相手は今までに一人もいなかったのだと。自分に近付いてくる相手は大抵、なまえの姓に興味を持ち、生まれ育った家庭環境に惹かれてやってくる。そこに自分を見ている者はおらず、目先にあるのは数え切れないほどの薄い紙切れの束。まるで自分を富豪への招待状としか見ていない、悪意なき邪な眼前に晒されてきた、と。
なまえの話はやはり尾田への思いと、意外にも彼女自身が出会した不幸話の二つだった。それは可哀想に、と開口一番上手く言えたのが幸いだった。可哀想に、なんて一体誰が口にしたのだろう。それは表面上の自分だ。つくづく、彼女は人を見る目がないのだと思い知らされる。どうして気付けないのだろう、彼女の目の前にいる恋人を騙る男も今までに出会って来た軽蔑すべき人間のひとりであると。なまえが知っている尾田純は、ほぼ偽りだった。立華の元で仕事に明け暮れているとは話はしたが、その業務内容までは明かしていない。
「なまえちゃんにそう言われると、不思議と俺自身もそうなんじゃないかって思うよ」
「こんな時に私は嘘はつきません」
「ちなみに今までに嘘ついた経験は?」
「……小さい頃に何度か、」
ほら、やっぱりよく出来ている。他人を疑うことを知らないのだ、あの目も、あの耳も、あの唇も。目の前にあることは全て真実だと信じて疑わない無垢なのだ。可哀想に、目の前の無垢は穢され続けている。可哀想に、目の前の無垢は欲を満たす為の道具に成り果てている。可哀想に、目の前の無垢が無垢であるほど、永遠に満たされることのない下賎な望みを僅かに満たしてくれる。
「ったく、本当になまえちゃんは人が良いって言うか、よく出来てるって言うか」
伸ばした手を隣に座る彼女は躊躇いなく受け入れてくれる。この手は弱者を嬲り、大切なものを剥ぎ取ってきた薄汚い手だ。この目は他者の弱みにつけ入る隙を探すハイエナの瞳だ。この頭は奪取する術に長けている諸悪の根源だ。しかし、彼女はこの手に触れることも、この目を見つめ返すことも、この思考に触発されることも厭わない。あまりにもお粗末で、あまりにも愚かで、あまりにもお人好しなのだ。
さて、ここまでだらだらと御託を並べてしまったが、もうそろそろ内心を明かそうと思う。可哀想だの、愚かだの、何だのとのたまってみたが、なまえに対して尾田が抱いているのはより複雑で、本人には到底理解されないような感情だった。自分より、か弱く小さな生き物を愛でるのと同じなのかもしれない。彼女が自分を憧れの目で見る度に、得体の知れない恍惚感に苛まれる。偽りの自分を慈しんでくれる彼女が酷く愛おしい。何も知らない彼女だから、良いのだ。破滅願望を持たない自分としては、彼女が憧れを抱いている限り、尾田純という人間はまっさらな人間でいられる。
「私は尾田さんがどんな人であったとしても、変わらず好きになっていたと思います」
彼女の詩的な表現に胃の奥がぎゅっと締め付けられる。ゆっくりと汚染するように何かが胃からせり上がってくる。綺麗事を耳にする度、尾田の体は恍惚感に嘔吐くようになっていた。軽い症状のそれはすぐに鳴りを潜めると、愛情へと転化する。だが、ここ最近ではそれを上回る悪化の症状が見られるようになった。体に広がる恍惚感は今も続き、せり上がってくる何かに感覚が麻痺させられ、愛情は止めどなく溢れ出す。
伸ばした手で彼女を力任せに引き寄せた。突然のことで驚いているが、拒絶反応はない。思考を塗り潰すように間髪入れず唇を重ねる。真っ白な蝋人形に口づけをしていた。汚濁を流し込み、彼女はそれが愛情だと信じて疑わず、たまらなく胸を焦がす。控えめにシャツを掴む手は彼女の人柄が顕著に出ており、そこを含めて彼女という人間の愛おしさを感じるのだから、もはや病的なのだろう。
尾田は離れた唇の隙間に小さく吐き出した。本当に良い子だよ、君は。と惜しむような言葉選びになまえは続いて口を開く。
「……尾田さん、もう一度したいです」
白々しく驚いてみせるが、自分を見上げるもどかしい熱視線に悪い気はしない。だが、いつか知るのだろうか。愛だと思っていたのはただの醜い執着で、恋人だと思っていた相手が容易く他者の命を弄ぶ卑劣な人間であると。しかし、尾田純に破滅願望はないのだ。だから、自ら全てを明かすことは決してないだろう。
「いいよ、もう一回しようか」
紅茶の風味が唇を濡らす。自分の影に収まってしまう彼女の体を抱き寄せ、欲望の汚濁を口移しする。いつだって真白は何かに染まり、汚されていく。気付けば、優しく抱き寄せた蝋人形は腕の中でどろどろに溶け始めていた。それでも構わないと強く抱き締めれば、遂には背中に手を回され、また満たされたいと強く願ってしまった。
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