相馬和樹と共依存




 彼の心地良い温もりに横たわる。頭を預けていたのは彼の膝で、寂しいからと強請るようにその名を口にする。

「そうまさん、」

 すると、求めていたそれが降ってくる。しなやかで骨ばった細い指が優しく髪を撫でていく。あまり目立たない髪色の黒を掻き分ける指先の感触に目を細めると、今度は嬉しそうな声音で、なまえさんはこうされるの好きだね。と呟いた。それに応えるように頷く。相馬は尚のこと嬉しそうに、そうでしょ。と笑う。二人きりの部屋には一つの照明があり、二人が寛ぐ為のソファーが一つあり、あとは窓の外がどんな光景になっていようとあまり気にならなかった。朝であろうと、昼であろうと、夜であろうと、二人の関係性のバランスは崩れたりはしない。閉鎖的な空間でありながら、その一室は二人にとってとても大切な場所だった。言うなれば、綺麗な水で満たされた金魚鉢。食虫植物が携える消化液の蜜壷。成虫になるべく、体の何もかもを溶かし尽くしてしまった蛹。ここは二人が生きていく為に必要な、心臓のような一室だった。
 本当はいつまでも同じ場所で綺麗な空気を吸っていたいし、誰の目にも晒されることなく溶け合える部屋の中にいたい。今日を、明日を生きていく為に互いの心臓の在り処を、その心音を確かめる。みょうじなまえは相馬和樹に生かされ、相馬和樹もまたみょうじなまえに生かされていた。神室町に蔓延る半グレ達を束ねる相馬と、どこにでもいるような堅気のなまえがどうしてこんな関係になれたのかは伏せておく。ただ、偶然にも互いの胸の穴を埋める相手として相応しいと知ったからだ。


***


 初めは相馬のないものねだりから始まった。自身に言い寄る異性とは正反対な彼女を選んだのは、そう言った理由からだ。派手な身なりをせず、邪な感情を抱くことのない真っ直ぐな人間性を持ち合わせた彼女がなんとなく欲しかった。その頃の彼女はまだ自立した人間で、今のように他者に依存するような人物ではなかった。真っ直ぐだった彼女が徐々に歪み始めたのは、相馬のある一言が原因だった。

「俺はなまえさんじゃなかったら、こうはならなかった」

 まるで自身に何か異変が起きたかのような物言いに、なまえは理由を訊ねた。なまえから見た相馬はとても甲斐甲斐しく、自分の身の回りのことに配慮してくれていた。例えば、相馬はなまえへの贈り物を欠かさず、一手先を読むように世話を焼いてくれるのだ。しかし、良くされてばかりでは心苦しいと遠慮すれば、途端に寂しげな顔をして手を止めるものだから、なまえも相当のことでなければ遠慮するのを止めることにした。異常と正常の区別はつけられると、相馬のことを思い、口を噤むように。
 だが、なまえが異変を感じたのは、甲斐甲斐しい相馬と過ごして一ヶ月が経った頃だった。その日は相馬が数日留守にすると言っていた初日で、なまえは自身の支度に取り掛かろうとしていた。開いたクローゼットの中に綺麗に仕舞われた服を見て、突然頭が真っ白になったのだ。いつもなら、相馬が良いと選んでくれた服を手渡されるがままに身に着けていた。メイクもポーチの中にあるものを全て取り出してみたのだが、全くイメージが浮かばない。鏡の中の自分にどう色を乗せていいか分からないのだ。

 にじり寄る空白の恐ろしさに、なまえは相馬へと電話をかけていた。このまま一人でいたら、その恐ろしさに心を食い尽くされてしまうような気がして。携帯越しに聞こえて来た相馬の声に、なまえは酷く安堵した。これでようやく恐ろしい闇の中から抜け出せる。相馬の声に心の安寧が戻って来たようで、なまえは弱々しいながらも自身に起きた異変について説明する。事の詳細を聞いた相馬は落ち着いた声で、一つ一つなまえに言って聞かせた。
 まず、今日の服装はベーシックなコーディネートで良いこと。細身の黒のパンツに、透け感のあるベージュのシャツが似合うだろうと。メイクは服装に合わせて、ブラウン系の配色が良い。けれど、アイラインはハッキリとした黒でも良いかもしれない。相馬にここまで言われて初めて、なまえは呼吸が出来たような気がした。真っ白だった思考も徐々に色付いていき、いつもと変わらない状態へと回復していく。こんな時、ふと思い出すのは自分に向かって言っていた相馬の言葉だ。今となってはその言葉の重みが良く分かる。なまえもいつしかその胸に大きな穴が開いていた。


「出来ることなら、なまえさんの望むことは全て叶えてやりたい」
「私だって、相馬さんの望むことは」

 同じ気持ちだった。そして、同じ良くないものを抱えていた。互いに望むことはきっと純愛の範疇を超えていて、世間一般的には許容されないことだろう。しかし、それでも互いのことを思いやる二人は誰よりも優しく、誰よりも愛情に満ちていると錯覚してしまうくらいに、純愛を貫いていた。

「なら、俺の心臓になって欲しい」

 俺の生きる理由になって欲しい。俺の明日でいて欲しい。俺の、愛でいて欲しい。
 珍しく綺麗な言葉ばかりだった。特に最後の一言は相馬らしからぬ、純粋さを秘めている。なまえの答えは決まっていた。それなら、となまえも胸の内を明かす。不思議と同じ内容だった。なまえも相馬には自身の生きる理由となり、未来となり、最も喜ばしい感情になって欲しいと告げる。二人きりの部屋、やはり周りには誰もいない。壁に囲われた狭い一室はすぐに無色透明の雰囲気で満たされる。辺りを漂う酸素を僅かに口にして、時折、小さな泡となって二酸化炭素は吐き出されていく。

「相馬さん、わたし」

 きっと、もうひとりじゃ生きていけない。
 なまえの告白が大きな泡の塊となって吐き出された。肺を満たすのは部屋に漂う無色透明で、なまえは息継ぎ出来ずにいる。吐き出した言葉が浮かんで消えていく前に、相馬はなまえが息継ぎ出来るよう、唇越しに酸素を口移しする。

「だったら、ここに居ればいい。俺達みたいなのはさ、こうでもしないとまともに生きられない」

 与えられた酸素を飲み込み、なまえは自分達の脆弱さに目を閉じた。一人で生きていく術を身につけたはずなのに、いつの間にか互いの存在がなければ、今を生きることさえ困難になった。時間を削り、人間性を削り、命を削り、遂に来るところまで来てしまった。ヒトを含む生物は環境に応じてその在り方を変えてきた。決して褒められる変化ではない。自分達は互いを心臓とするあまり、退化の道を歩んでいる。深海の更なる深みで生きる魚は、不要であるが故に両の瞳を捨てたのだと言う。ヒトでありながら、あまりにも弱く、脆く、怠け、省みることをしない。
 自分勝手だった。この世で生きる誰よりも生に無頓着で、生きる理由を他者に預け、生殺与奪すらどうでもいいと吐き捨てている。いつから、こうなってしまったのだろう。後悔している訳ではない。この生き方を相馬と共に受け入れた日から、何も悔いることはなかった。ただ、今のなまえに言えるのは相馬の手が加わった環境でなければ、生きていけないと言うことだ。さながら、それは水槽で飼われる魚達と同様だった。この『水槽』は綺麗な水で満たされてなければならず、呼吸する為の酸素を必要とし、決して他者の存在を許容することはない。たった二人が最低限生きていられるだけの物が揃っていれば、それでいい。

「だから、まともな死に方をしない。俺も、なまえさんも」
「それでもかまいません。ただ、私はどんな時でも相馬さんと一緒にいられたら」
「そういうことを平気で言うから、余計に手放せなくなる」
「手放す予定なんて、ないくせに」
「俺だってたまには馬鹿みたいな話がしたくなるんだ」

 他意はないよ。嘘もつかない。
 今度は大きな泡の塊が相馬の口から溢れた。苦しい思いをさせたくないと、なまえは自分の僅かな酸素を分け与える。本当は『水槽』なんてものに囚われちゃいない。本当は自分で呼吸だって出来る。けれど、相手を媒介せずにはいられなかった。相手を通じて自分の生を実感している。確かめている。明らかな依存症であったが、二人の世界はそれほどまでに深く、光の届かない深淵の中に存在するのだ。真っ黒に塗り潰された闇の中で、二人は自身の瞳が退化する日を待ち望んでいる。



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