郷田龍司と家族になる




「そろそろ、ええんちゃいますか」

 何気ない会話の中で突如として飛び出して来たその一言に疑問符を浮かべる。そう言えば、と先程までの会話を思い出せば、何か分かるだろうか。ここはなまえの部屋で、先程までしていた会話は実に他愛もなく、主に今日の夕飯についてだった。ふと、定番のおかずレシピが収録されている料理本をめくる手が止まる。張本人は本気だか冗談だか分からない表情で返事を待っているが、どう答えていいか分からない。そもそも、何に対しての返事を待っているのだろうか。

「そない、あからさまに動揺せんでもええやろ」
「だって、急にそんなこと言うから」
「急にとちゃうやろ」
「さっきまで夕飯の話してたじゃない」

 せやから、この話になったんやないか。と堅苦しいジャケットを脱いだ、身軽な黒いシャツの装いでこちらに鋭い視線を向けている。何が、せやから、で繋がる話なのだろうと、更に深いところまで聞こうとすれば、縦に裂けた古傷が恐ろしい唇でひとたび咆哮する。そう言われてしまったら、いつまで経っても今晩の夕飯が決められないと気付いた瞬間だった。

「ワシとのことや」

 噛み付くような仕草で、唐突に弱いところを突かれていた。手狭な部屋で黄龍は羽を伸ばして寛いでいる。相対的に自分は部屋の隅に追いやられるような選択を迫られている。遂にはレシピ本を閉ざし、体ごと彼の方へと向けた。将来の話は今までも何となくですることはあったが、ここまで本気の顔をしている彼は珍しいと視線を奪われてしまった。
 彼は知る人ぞ知る、近江連合のヤクザだった。郷龍会の二代目である彼を知らない者はいないのだと言う。しかし、ヤクザの組長である郷田龍司はみょうじなまえにとって、小学生の頃からの付き合いである幼なじみという一面を持っていた。古くからの付き合いであるなまえは龍司が極道の道に身を投じても、関係に一線を引くことは無かった。何故なら、自分に面と向かって接する彼は昔のままであり、今更恐れることなどないと分かっていたからだ。確かに彼の手は多くの人の血で汚れてしまっているだろう。だが、自分の名を呼ぶ時の優しげな目を知っており、同じ夜を共にする時の寂しさを孕んだ声を知っており、隣に置いてくれることの本当の意味を知っているからこそ、何も恐れる必要がないのだ。

「ガキの頃からの付き合いで、いつまでもなあなあになっとんのが気に食わんのや」

 なまえと龍司の関係を知っているのは、ごく僅かな人間のみだった。堅気とヤクザが関係を持ったと知れれば、表社会からは爪弾きにされ、裏社会からは狙われる身になると、当時彼は言っていた。だからこそ、今まで曖昧な関係のまま、だらだらとこの付き合いを続けてきた。そこに対する不満や不安はあったが、彼の言い分には納得出来ており、第一彼の迷惑にだけはなりたくないからと、あくまでも幼なじみという括りの中に留まり続けていた。しかし、もう彼はその括りを破ってしまいたいのだと分かった。じゃなければ、あのような顔、出来やしないだろう。

「じゃあ、恋人になるのかな」
「そないなもんはいらん。ワシは自分が欲しい言うとんのや」
「そうじゃないの?」
「嫁に迎えたいっちゅうことや」

 茶化すような素振りもなく、落ち着いた声で彼は大真面目な話をしていた。その後すぐは静寂に逃げてしまった。あまりにも突然のことで、すぐに答えを返せなかった。だが、本当は心のどこかでそんな予感がしていたような気もしているのだ。そのくせ、心の波間は至って穏やかで乱れることなく、平穏であり続ける。静寂の間に、少し前のことを思い出した。それは彼の父である郷田仁に話があると呼び出された日のことだった。
 話の内容は、懐かしい昔話と息子である郷田龍司との今についてで、なまえはいくつか問われることがあった。二人の関係、二人の将来、自分の今の胸中。堅気とヤクザの男女だ、互いに生まれる不都合は決して避けては通れない。しかし、彼の父は夢見てしまうのだと言っていた。どんな形であれ、所帯を持った息子の絵を。だが、無理な理想を押し付けるつもりはないと添えられ、勢いで口走ってしまった言葉がある。その時、彼の父が驚いた顔をしていたのを今でも覚えている。

「いいよ、もちろん」
「……ちゃんと後先考えて言うとるんか」
「それはお互い様じゃない?」
「腹決まっとった言うことですか」

 なら、ワシも腹割って話さなあかんわな。
 黄龍の眼光が和らぎ、穏やさを匂わせる。普段ならその感情は弱味であると切り捨てている人間だからこそ、より真剣さが伝わってくるようだった。自分のことは自分で決める、それが叶うのは力のある人間だけだと遠い昔に聞いたことがある。偉大な父を越えること。親の七光りではなく、しっかりと自分の足で立ち、名に恥じぬ極道になること。自分の行く道にはいつだって障害が立ち塞がり、自身の好き勝手を容易く許したりはしないと。その中でも特に譲れなかったのが、血筋を絶やさぬ為の伴侶だった。隙あらばと誰かを宛てがわれる度、彼はすべてを白紙にし続けて来た。それはいつか来たる日の為だった。そして、それは今なのだと真剣な眼差しが物語っている。

「ずうっと昔から決めとったんですわ、」

 ウチの親父も言うとりましたわ、アンタなら文句はない言うて。せやけど、この際、ウチの親父は関係あらへん。ワシが自分を選んどんのや、そこに誰の意思も思惑もあらへんのです。
 黄龍は優しく吼える。しかし、なまえは一人笑みを浮かべていた。今の彼は少し力みすぎていると口調から読み取れたからだ。他人行儀の丁寧な言い回しをする時は大抵、相手の出方を窺っている時で、もしかしたら彼の中に多少の不安要素があるのかもしれない。だが、それはなまえも同様だった。だから、聞いてみたくなったのだろう。それを聞くことで不安が払拭されるなら、その方がいいと。

「理由って聞いてもいい?」
「理由、ですか」
「いいよって言っておきながら、本当に自分なんかでいいのかなって」
「そんなん、今まで散々言うてきたやろが」

 ため息を一つ、その後に理由が一つ。アンタの作る味噌汁が一番美味い。なまえからすれば、意外な理由だった。しかし、龍司の言う通り、今までもその言葉は何度も聞く機会に恵まれていた。だからこそ、余計に気恥ずかしさが拭えないのだろう。

「確かにいつも美味しいって言ってくれてたけど、」
「せやから、アンタやないとあかん」
「でも、そんな理由でいいの……?」
「充分や、ワシがアンタを選ぶのに充分な理由や」

 いつの日かの面影と重なる。あれは確か、互いに小学校高学年の時だ。当時、家柄のこともあり、親が不在がちな彼とはよく夕飯を一緒にしていた。だが、高学年になり、いつしかなまえが夕飯の支度を手伝うようになり、彼には自分の手料理を食べてもらうことが多くなった。味見だといつも夕飯前につまみ食いをしては怒っていたのが鮮明に思い起こされる。こっちは怒っているのに、肝心の彼は不敵に美味いと笑い、その直球な言葉にペースを乱されて、結局怒るに怒れなくなる。そのことを彼にも話してみれば、よう覚えとるわ、そないなこと。と視線を一瞬だけ逃がす。

「初めは物好きな堅気やと思っとった。いつ手のひらを返すか、正直信用しとらんかった」

 逃がした視線を元に戻した彼は、素顔を覗かせた。そこにあるのは郷龍会の組長であるヤクザの顔でも、付き合いの長い幼なじみの顔でもなく、ただ真っ直ぐにこちらを見つめる男の顔があるだけだった。射抜く瞳に次の言葉が何であるかを知らされる。縦に裂けた唇は震えているように見えた。

「なあ、なまえ。ワシの一世一代の我儘、聞いてくれや」

 気付いた時には惚れていたと添えられ、なまえはひとり記憶の濁流に放り込まれる。初めて出会った時に感じた寂しげな姿、徐々に打ち解けていく中で感じた胸の温かさ。自分が何かに迷うことがあれば、誰よりも強く背中を押してくれた物言えぬ優しさ。知らない、あんなに臆病で優しい顔をする彼は初めて見た。知らない、知らない。そんな顔をされたら、決心を曇らせた不安など吹っ切れてしまう。
 ひとりでいるのがどうにも嫌で、なまえは黄龍の懐へと転がり込む。そして、大きな体をぎゅっと抱き締めてやり、力いっぱいに込み上げる感情に潰されてしまえばいいと思った。惚れていたなんて、自分だって同じだ。この胸の内を知らぬ存ぜぬで先に口走った彼がひどくずるく感じられた。

「そんなにお味噌汁が美味しいなら、毎日作ってあげる」
「なまえ、」
「私でいいなら、どこまでも添い遂げてあげる」
「堅気には荷が重い話や。覚悟は、」
「……出来てるよ、大丈夫。その我儘も聞いてあげる」

 そうでっか。と背中に大きな腕が回され、底なしの安堵に包まれる。こうでもしなければ、自分の本当の気持ちなど素直に伝えられなかった。鬣を撫でれば、心臓の鼓動を聴いていた。頬に触れれば、その手の内に唇を押し当てられる。傷をなぞれば、燃えるように熱い吐息に指先は染まっていく。

「よう言われへんから、一度で聞いたってください」

 かしこまった先にある言葉は、俗に言うプロポーズで、二人にすれば慣れぬ愛を囁く言葉だった。よう言われへん、と言った理由がよく分かる。互いに照れてしまって、まともに話が出来ない。だが、どちらも抱き合う腕を離すことはせず、二人一緒でいようとしていた。自分達のプロポーズはこれで良かったのか、初めての出来事に正解など確認出来るはずもなく、これで良いのだと愛おしさを飲み飲んでいる。密かに濡れた唇が重なってしまえば、互いが飲み込んだ愛おしさに気付けると言うのに、二人は互いの初々しさに言葉を忘れ、暫くは黙り込んでいた。



| 知らぬ愛の形を綴れ |


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