嫉妬する峯義孝




 何度も何度もグラスいっぱいのボルドーを飲み干した。静止の声も聞き入れずに、自分の中の不安をかき消すように飲み干していった。深みのある味わいが今の自分を遠くへ連れ去ってくれる。麻痺にも似た、融解する視界に彼女が恋しいと思った。そう、ただ彼女が恋しかったのだ。けれど、肝心な言葉は伝えられていない。強欲になってしまった自分では、彼女を困らせてしまうだけだと果てないボルドーの海に溺れている。
 峯義孝はやるせない思いを抱えて、神室町の夜に出ていた。そこは峯のお気に入りの店で、兄貴分である堂島大吾や、恋愛関係のあるみょうじなまえと訪れたことのある名店だった。抱え込みすぎた感情を一人で宥めようと、ワインを嗜んでいるが寧ろ内なる感情は悪化の一途を辿っている。その綻びは日常の些細な場面から生まれ、今も峯を複雑な心境にさせていた。

 執着と愛情の違い。それはとても曖昧なものだった。今までの自分は確かに愛情を持って彼女と接していた。そうすることが出来ていたと自分でもそう思える。しかし、ここ最近は自分が執着に寄っていっているような気がして、彼女と会えずにいた。なまえは自分の心の穴を塞いでくれた人物で、そんな彼女だからこそ峯は関係を築くことを選べた。初めは僅かなことでも大いに満たされていた。手の空いた時間に電話をかけ、彼女の声を聞くだけでも。一緒に食事をするだけでも。彼女と写った写真を眺めるだけでも、峯の世界は温度を取り戻せていた。
 だが、なまえとの関係が続いて三ヶ月になった今、一人の夜は不安に駆られて仕方ない。彼女にとっての最愛が自分でいて欲しいと願い、信じる一方で別の誰かの可能性を捨てきれずにいる。極道という肩書きがこの時ばかりは負い目のように感じられた。相手が極道でなくとも、彼女は幸せになれる人間だ。後ろめたいこともなければ、ささやかな喜びを幸せだと口に出来る恵まれた女性だ。自分自身を卑下するつもりは毛頭ないが、どうしても天秤が釣り合わない。もし、この本音を告げて世界が一変してしまったらと思うと、峯は口を固く閉ざすことしか出来なかった。


 ボルドーが進むにつれ、酔いは深くなっていく。それを懸念したマスターは席を外すと、携帯を取り出し、とある番号にかけた。それは峯のよく知る人物で、図らずもマスターの行動が峯の孤独を埋める相手を連れて来てしまった。恋しいと言い出せずにいた、彼女を。
 マスターからの電話を受け、なまえはその店へと訪れる。急ぎ足は不安の象徴だ。あの峯が一人ワインで深酒をしていると聞けば、飛んでやってくるだろうと見越してのことだった。案の定、彼女は店に到着すると急いで峯のいる個室へと通された。予めマスターが二人きりになれるよう、配慮してのことだった。そのせいで、突如として店内に現れた彼女に峯は暫く面食らって、何も言えなかった。

「……なまえさん、どうしてここに」
「お店の人から連絡があって、」
「そうですか」

 よそよそしい態度は彼女と打ち解ける前の自分のままだ。ただのお節介だと、余計であると悪態をつくことは出来たが、どうしても彼女が来てくれたことを喜ぶ言葉は出て来ない。こんな時、僅かに生きづらさを感じてしまう。来てくれてよかった、本当は会いたかったと告げることが出来れば、何かが変わるだろうに。くだらない意地が口を縫い付けてしまったのだろうか。本当は、本当は素直に嬉しいと伝えたい。

「今日はここで飲んでたんですね」
「ええ、俺一人で」
「前に峯さんが教えてくれたお店ですよね」
「すみません、なまえさんに迷惑かけて」

 迷惑なんて、そんなことないです。と隣に腰掛ける彼女に情けない感情に駆られた。ひとりで過ごしたくなる夜があるのは自分も同じだと、身勝手を庇ってくれる彼女に峯は目を伏せる。そうじゃない、俺はそんなつもりでここに居たんじゃない。と苦々しく吐く。否定したかったのは彼女ではなく、自分の身勝手だった。勝手に拗らせ、ひとりで抱え込み、打ち明けることから逃げていた自分の身勝手を許せずにいる。

「なまえさん、俺の傍にいてくださいよ」

 本当は何もかもに羨望の眼差しを向け、嫉妬していると明かす。彼女は自分でなくとも、幸せを掴める人間なのだ。重々承知の上で、自分は彼女の未来に影を落としているのではないかと恐ろしくなる。その隣にいるのは兄貴分である彼だろうと、同僚の誰かだろうと構わないのだ。だが、それがひどく苦しく、寂しく、受け入れ難い。この胸の奥で嫉妬の炎が立ち上るのを何度も経験してきた。

「傍にいるじゃないですか、ほら、ちゃんと傍に……」
「俺はあなたが欲しい」
「峯さん……?」

 ボルドーの匂いが漂う。言葉だけじゃ足りないからとその体を抱き寄せた。腕の中にいれば、どこかへ行ってしまうことなどないはずだ。優しく呼び掛ける声に、徐々に塞ぎ切れなかった穴から心がこぼれ落ちていく。

「こんなことを言っては困らせるだけだと理解しているつもりです。でも、言わずには居られない」

 嫉妬、しているんです。俺は。
 なまえが投げかける視線の先にいられるのは、自分だけではない。それが不特定多数の他者であるのは、社会に出ている以上避けては通れない。そして、それは自分も同様だ。だから、なまえにばかり望んでしまうのが心苦しい。分かっている、どうしようもない問題であると。だが、このような複雑で薄汚れた欲望を抱えていると知られては、いつか彼女は自分の隣から消えてしまうだろうと恐れているのだ。

「本当は今夜だって会いたいと思っていました。でも、俺はそれをあなたに言い出せなかった」

 情けない話です。と自身を嘲笑すれば、腕の中の彼女がこちらへと華奢な腕を伸ばしているのが見えた。その腕は頬に軽く触れると、次に髪をそっと撫でた。そして、腕の中でいつもと変わらない笑みを浮かべている。何度も何度も優しく撫でられる度に、自分の吐いた毒が消えていくようだった。

「峯さんの話が聞けてよかった。お酒が入ってるからか、いつもより素直って言いますか、」
「確かに今日は飲み過ぎてはいるでしょうね、恥ずかしい限りだ」
「……峯さんってかわいい人ですね」
「俺が……?」

 ええ。と腕の中で彼女の笑みは増していく。つまりは、それくらい好きでいてくれてるんですよね。と恥ずかしそうに口にするなまえに、胸の綻び目掛けて射抜かれた感覚に陥った。なまえの突拍子もない言葉に、峯は抱いていた負の感情が打ち消されてしまったようだった。再び、面食らって黙り込む。弱さをさらけ出していたのが、彼女に受け止められるとは思いもしていなかったのだ。

「いいんですよ、思ったことはいつでも言ってください」
「それがどんなに独りよがりなものでも?」
「私は峯さんの言葉が聞きたいんです」
「……それじゃあ、大変でしょうに」
「でも、恋人ってそういうものなんじゃないですか」

 なまえも恥ずかしさから脱却出来ていないのか、表情は緊張しているように堅く、しかし、時折ふにゃふにゃと頬が緩んでいる。そんな彼女の姿を見てしまっては、深酒した峯が思いの丈をぶちまけるのに遠慮はなく。

「好きです、なまえさん」
「わ、わたしもです」
「ちゃんと言ってくれないと分からない」
「だから、わたしもって……」
「俺もなまえさんの言葉で聞きたいんですよ。いいでしょう?」

 押しに弱いタイプだと前々から思っていたが、それが彼女の良さでもある気がして、断り切れない彼女に甘やかされる。すきです、と鼓膜を震わせるのはか細く照れた声だった。かわいい人と言うのは自分ではなく、彼女のような人のことを言うのではないか。もう一度、とねだってみれば、本当にもう一度そう答えてくれる。さらに頬を赤くして、瞬きの増えた恥ずかしげな瞳で。

「かわいいのはあなただ。俺の為にそこまでしてくれるなんて、思っていなかった」
「だ、だって、」
「何か理由が?」
「子供みたいな寂しそうな顔で、そう言われたら断れないです」

 もしかして、少し酔ってます?と無防備に聞いてくるものだから、血が巡るように循環し、捻れたかと思えば逆流し、ぐるりと心臓に温度が蓄積されていく。胸の奥がじわりと熱くなるのは、きっと高ぶった感情が行き着く最終地点だからだろう。いいや、あなたのせいだ。と小さく呟き、彼女を抱き締めると、同じ血の通った人間の生きている音が聞こえた。それはまるで幸せに似た音のようだった。

「あなたのせいで俺は弱い人間になってしまった」

 大切な者の存在は時に強みとなるが、時に弱みにもなってしまうことをよく知っていた。それは奪う側として今まで見て来た物事の決着によくあることだった。いざとなれば、切り捨てる覚悟を持たなければならない。しかし、峯義孝はその決断を下すことはないのだ。

「それでも、俺は、」

 幸福であると述べた。口にするのは、言葉にするのは、とても勇気のいるものだった。だが、彼女に告げたことで、自分と言う人間がどこか変われたような気がしているのだ。気のせいだろうか、思い違いだろうか。もしそうだとしても、彼女の形をした幸せを手放すことは決してないだろう。他愛もない会話を幸せと呼んでいいのなら、この時ばかりはそう呼ばせて欲しい。腕の中にいる彼女を抱き締めると、過去の自分さえも抱き締めているような感覚がした。もしかしたら、これからはほんの少しだけ素直になれるのかもしれない。



| ディオニュソスの容喙 |


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