ギロリ、と愉快さに紛れて鋭い視線がこちらへと向けられている。今は春日達やサバイバーのマスターも看板娘のいろはも外に出ており、この場には趙となまえの二人しかいない。二人はピアノ前のカウンターに座りながら、談笑していた。皆の帰りを待つと言うよりかは二人きりを楽しむような時間だった。
 違和感は確かにある。そして少しずつ強くなっていく。口元は楽しそうであるのに、ラウンドのサングラスの奥にある瞳は獲物を捉えるような目をしているのだ。なまえは人を欺けるような器用な人間ではない、だからこそ、それを趙が察するのに時間は掛からなかった。

「あれ、どうしたの。なんかなまえちゃん、俺のこと怖がってる?」
「……あ、えっと、ごめんなさい、」
「なんでなまえちゃんが謝んのさ。俺、何か怖がらせちゃった?それならちゃんと教えて欲しいんだけどな、」

 独特な間延びした趙の口調になまえは手元の冷水を一口含む。怯える心の緊張をほぐすように含んだ水を飲み込めば、冷たい後味にすっきりとした気分だった。

「本当に、なんでもありませんから。ごめんなさい、趙さん」
「え〜、そうなの〜?ま、なまえちゃんがなんでもないって言うなら、俺ももう聞かない」
「ありがとうございます」

 今度は趙が自分のグラスを傾け、氷の浮かぶ琥珀色を口にする。趙の視線が自分から外れたのを良いことに密かに胸を撫で下ろす。確かにあった違和感をなかったことには出来ず、何故、趙があのような目でこちらを見ていたのか。頭はそればかりを深追いしていく。
 趙天佑という、この男が横浜の裏社会を牛耳る異人三の一人、横浜流氓の総帥であったことは知っている。しかし、噂に聞いていたよりも趙は物騒な男ではなかった。接しやすく、親しみのある人柄になまえはすぐに打ち解けていった。

「あれ、今度は考え事?忙しいねぇ、なまえちゃんも、」
「わたし、何かと考えがちなんです。だから、たまにぼーっとしちゃって、」
「へぇ、頭使うのって結構大変だよね。俺も最近頭使ってばっかりでさ、」
「趙さんも何か考えごと、ですか?」
「まぁね、なまえちゃんにどう見えてるかわかんないけど、こう見えても俺、悩み多き若者だよ〜?」
「ふふ、本当ですか?私には想像できません、」

 まあ、確かになまえちゃんにはそういうとこ、見せてないからねぇ。とグラスに残ったウイスキーを二口ほど飲み、趙はまた静かに手元へ琥珀色を置く。

「明日何着ようかな〜とか、飯は何食べようかな〜とか。酒飲みたい気分だけど、どの酒をどれくらい飲もうかな〜とか。ちょっと前の俺と比べれば、可愛い悩みばっかりなんだけどさ、」
「それじゃあ、そのウイスキーはあとどれくらい飲むつもりなんです?」
「う〜ん、そうだな……。なまえちゃんのその指輪について教えて貰うまで、かな」

 指輪?と問えば、そ、指輪。と短く返ってきた。趙が気になっている指輪は、なまえの左手薬指にあるシンプルな指輪のことだろう。ああ、と相槌を打ち、改めて自分の指をまじまじと見つめた。その指にかかる期待を忘れておきたくて、ここ一ヶ月は適当に買った、適当な銀の輪っかを嵌めている。趙がそんな粗末な指輪を気にする理由を探せば、自分の手とは対照的な趙の手がその理由だと推測する。
 両手、五本の指の全てにゴツゴツとした大ぶりで、ギラッと光る指輪が嵌められている。その輝きが金であるか、銀であるかなどお構い無しに好きな指輪が嵌められた手。それが趙の手だ。

「もしかして、俺には言いづらい関係のヤツだったり、」
「……趙さんにはそんな風に見えますか、」
「う〜ん、どうかな。個人的にはそういう風に見たくないんだけどね、」
「さて、どっちでしょう、」
「そう来たか……ってなると、俺は男なんていないに一票」

 それ、よく私の前で言えましたね……。まあまあ、そう怒んないでよ。なまえちゃんは真面目な子だって買ってんだからさ、俺。それなら、いいですけど……。じゃあ、そのしかめっ面おしまいにして、美味しいお酒でも飲もうよ。
 趙に勧められた酒をやんわりと断れば、グラスの中にあった琥珀色を代わりに趙が全て飲み干した。

「ほらね、そういうとこ。ちゃんと俺の酒も断れるなまえちゃんが、他に男作っても俺のところに来るわけがない。だから、その指輪は偽物、フェイクだね」
「へへ、趙さんはあんまり気にしない人だと思ってたのに、」
「それはなまえちゃんがそう思ってるだけ。最初、なまえちゃんが指輪してるの見た時、めちゃくちゃ焦ったよ。男の存在を考えたし、そのチャンスがまた俺のところに来るかとか、相手はどんなヤツなのか、とか」
「……本当、ですか?」
「うん、ほんとにほんと。でさ、なまえちゃんの口からもネタばらしが聞きたいんだけど、教えてくんない?」

 趙の鋭い瞳の正体を知り、不思議と安心していた。恐ろしさを抱いていたはずが趙のネタばらしで安堵に変わる。そして趙の望む通りに、大した話でもなく、あまり面白くもないその話をなまえは打ち明けた。ただの気まぐれだったと、空白期間の長い薬指にもお洒落をさせてやりたかったと。先程は最もらしいことを並べたが、本当は何も考えずに適当な指輪を適当な所で買ったのだと。
 それらの話を趙はなまえと一緒に笑いながら聞いていた。ありゃ、へぇ、そう、ちょっと信じちゃってたんだけどなぁ、俺。とバリエーション豊かな相槌に居心地の良さを実感する。

「へへ、なまえちゃんもさ、可愛いとこあるよね」
「やだなぁ、そんなこと言っても何もありませんよ、」
「え〜、俺もう一杯飲みたかったんだけどな、」
「私はずっとお冷なんです、趙さんもそろそろいかがですか」
「だったら、一緒にウイスキー飲もうよ。なまえちゃんの秘密の打ち明け話に乾杯するのもいいんじゃない?」

 そう言って飲みたいだけですよね。そうゆうこと。趙さんって素直ですよね、そういうところ好きです。ほんと?俺も好きだよ、なまえちゃんのこと。
 え、とひとり趙の言葉に置いていかれる。それから、二、三秒してようやく冗談だと飲み込み、からかわないでください。と返すつもりだった。しかし、なまえは趙が自分の言葉を遮るとまでは思っていなかった。

「冗談、じゃないよ。それとも、なまえちゃんは冗談の方が嬉しいかな?」
「きゅ、急に変なこと言わないでください、」
「だって、さっきなまえちゃん言ったじゃない。俺の素直なところが好きだって。じゃあ俺は、なまえちゃんにもっと好かれるために素直になろうって思ったわけ、」
「た、たしかにそう言いましたけど、」
「それに今がなまえちゃんに近付けるチャンスでしょ」

 もう既に飲み干して空のグラスに触れた趙は、氷だけがカランカランと鳴る音に手を引っ込める。なまえは目を泳がせたまま、残りのお冷を口にする。緊張、驚き、動揺、体に起きた異常を止める術を探していた。沈黙は続く、なまえが次を言い出さない限り。二人のグラスの氷は今も尚、溶け続けている。なまえも趙も、本当はこの場の沈黙を破りたい。

「……ねぇ、なまえちゃん」
「は、はい、」
「俺と秘密作らない?ひとつだけ、」

 突拍子のない一言がなまえとの沈黙を破る。人差し指を立てて、口の端を持ち上げる趙になまえは自然と指輪のある薬指に触れていた。なぜだろう、何かが変わる気がする。予感。信じていない、見たこともない縁が結ばれるような予感になまえは、戸惑いながら頷く。指輪は何かを待ち侘びるように鈍く光る。
 趙はなまえが頷いたのを合図に、左手の小指に嵌っている指輪を一つ取り外した。その行動の意味が分からないまま、なまえの目は正直に指輪を攫う趙の指を追っていく。取り外された指輪はカウンター上にそっと置かれ、人差し指と中指を添え、なまえのグラスの傍へと滑らされる。

「交換しようよ、なまえちゃんの薬指のヤツと」
「……そ、その前に、趙さんが私に指輪を差し出す理由を聞いても、いいですか、」
「これが俺の言ってた、なまえちゃんと作りたい秘密。その左手薬指に将来を約束しておこうと思ってね」
「じゃあ、私の指輪を欲しがる理由は、」
「指輪の交換ってロマンチックじゃない。しかも、好きな女の子の指輪なんて、そうそう交換出来るものじゃないし、」
「……実は私に彼氏がいて、指輪も嘘じゃなかったら?」
「ソイツ、饅頭にしちゃおっか」

 なんて物騒なことを平然と言ってのける男なのだろうか。趙の不敵な笑みに本気かそうじゃないかの区別すらつかない。けれど、この世には趙の手によって饅頭になる人間は存在しない。そこまで話をして、なまえはようやく踏ん切りがついた。一つしかない指輪を趙と同じようにカウンターの上を滑らせ、趙の手元へ置く。

「どうぞ、こんな安物でよければ」
「その安物が欲しかったんだよねぇ、」
「でも、サイズ合わないんじゃないですか。私も、趙さんも」
「じゃあ、今度サイズ直しのついでに異人町デートしようよ」

 その時は俺のお酒に付き合ってくれるよね?と訊ねた趙が少年のように笑うせいで、なまえはやはり頷くしかなかったのである。



| 先約の薬指 |


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