桑名仁の救済




 教師になりたいのだと言う。彼女は、かつての自分のように教えを説く職に就きたいのだと。不意に捨てたはずの日々が甦り、胸の奥を締め付ける。苦しい記憶だ、救いのない苦しい記憶だ。やめておけ、と軽く忠告するだけに留め、何故かと首を傾げるのを彼女の頭を撫でてやり過ごす。教職と言うのは、多くのことを求められる。そして、ほんの少しの、小さな見逃しが取り返しのつかないことに繋がるのだと告げれば、それでも、と真面目な顔をして答えるものだから、もうそれ以上は何も言えなかった。懐かしい感覚だった、真面目な顔で自分の進路を話す子らのようで、いつの間にかお節介な唇は縫い付けられてしまった。
 彼女がひとりで決めた道を、いかなる理由があろうとも阻害してはならない。教師ならば、その道へ進もうとする子の後押しをしてやらなければならない。遠くへ行こうとする背中を見届けてやらなければならない。もしかしたら、教師としての自分はまだ密かに生きていて、彼女の為にと手を差し伸べたいのかもしれない。だが、教鞭を棄てた自分に出来ることなど何もないだろうに、と耳元で囁かれた気がした。


***


 彼女、みょうじなまえとの出会いは一ヶ月ほど前に遡る。喜多方悠が着けていた桑名仁の仮面が剥がれ、行方を眩ませることになったあの一件からもう一ヶ月は経とうとしている。あの頃は見知らぬ街の冷たい路地をさまよってばかりいた。逃げるしかなかった自分が用意した拠点での生活は長く続かず、遠くへ、より遠くへとさまよい歩く内に彼女の暮らす街へと辿り着いた。得体の知れないよそ者に優しくするのは、大抵人の良い物好きだけだ。彼女もまた、その部類の人間であった。
 彼女の住むアパートの隣の部屋に越してきたことがきっかけだったように思う。初対面の挨拶から、作りすぎた料理のおすそ分けから何まで、彼女は良くしてくれた。人の優しさに触れる度、あの日の葛藤が甦るようで、苛立ちを隠しきれないまま理由を訊ねると、何故か気になるからだと言われ、呆気に取られていた。そんなおかしな理由で、とこぼせば、でも、うれしそうな顔してますよ。と笑う彼女が印象的だった。

 その日からみょうじなまえとは親しい関係でいられた。正直、生活力のない自分の助けとなってくれたのは彼女だ。食事時には部屋に呼んでくれ、さも当然と言うように食器が二人分並んだリビングへと通してくれる。そして、互いに両手を合わせて、いただきますと口にするだけで自然と二人きりの食事が始まるのだ。そこで時折、彼女は自身の将来について話すことがあった。教師になりたいのだと。憧れであった夢の為に大学へ通っている彼女に、かつての若い自分が重なる。熱意を持って勉学に励み、その資格を得たくせに結局はあのような結末を迎えてしまう。
 やめておけ、と何度口にしたことだろう。その度に彼女は、なまえは勝ち気な笑みで叶えたい夢なのだと強く返す。半ば呆れていた、彼女は教職と言うものに夢を見過ぎていると。しかし、いつでも嫌な素振りをせず、勝ち気な笑みを見せる姿にいつしか呆れていたはずの自分が、彼女に惹かれていると知った。だからこそ、冒頭の会話を最後に喜多方悠はみょうじなまえの夢を否定することをしなくなった。


「桑名さんって勉強教えるのがすごく上手ですよね」
「まあな、少し前に似たようなことをしていてな」
「それって先生ですか?それとも、塾の講師とか?」
「どうだろうな」
「どうだろうなって、桑名さんのことじゃないですか」

 彼女はあの事件をあまりよく知らなかった。桑名と名乗る男の正体が、あの喜多方悠であることも。異人町で起きた殺人事件の犯人として指名手配されてから、それなりに時間も経っている。大きなニュースを取り巻く世の中の目は流行り廃りに敏感だ。それは例の一件も同様で、あれほどまでに世を騒がせた事件も既に風化し始めている。

「私、桑名さんみたいになりたいです」

 純粋な憧れが誰かの古傷を突く。咄嗟に語気が強まってしまいそうなのを堪え、じっと堪え、上手く受け流す。

「俺みたいにはならない方がいい。いい歳して路頭に迷うような人間だぞ」
「だって、すごく分かりやすい説明でしたし、何より私に合った教え方をしてくれてると思うんです」
「ほう、よく気付いたな」

 今までたくさんの教師に授業を通じて多くを学ばせてもらったが、ここまで理解の深まる教え方をしてくれたのは初めてだと彼女はとても喜んでいた。初めは助けてくれたことへの恩返しだった。しかし、彼女が自身の夢に近付く度に、自分を突き動かすのは恩を受けた義理ではなく、もっと別の感情であると気付かされた。みょうじなまえはかつての喜多方悠だ。だが、結末までは決して同じではない。ならば、その過程も同じであっていいはずがない。そう考えた時、答えは一つだった。
 自分のような人間にならぬよう、彼女の歩く道を共に行こうと決心した。だが、二人並んでではなく、その数歩後を歩いていこうと。これから先、大切な決断や転機は必ず訪れる。そうなれば、なまえは判断するしかないのだ。その瞬間に立ち会うことはあれど、介入することのないよう、自身に課しながら。


 しかし、順風満帆に見えた彼女の進路に暗雲が立ち込める。現在、彼女は自分の母校である学校での教育実習に取り組んでいた。日々、教育の現場に立ち、そこでしか得られないものを学んでいる。現場の空気感や実際に接することで見えてくる人との距離感。しかし、得られるもの全てが良いものは限らない。そして、それは平等に彼女の元にも訪れたのだ。現実と理想のギャップが彼女の夢を脅かしている。始まりは小さなつまづきだった。なまえはつまづいて痛む足を省みず、自分が歩く道の舗装を選んだ。だが、つまづきは一度だけではない。その後も小さなつまづきが散見された頃、彼女は失敗を大きな損失であると捉えるようになった。何故、それが起こるのか。どうすれば、それを対処出来るのか。二度と失敗しない為には。彼女は自分の痛む足に気付けないでいる。
 初めて取り組むことにミスや失敗が出てくるのは当然の結果だった。分からない領域から出てきたもの、分かってはいたが失念してしまったもの。予想もしておらず、突飛的にやって来たもの。その原因は多岐に渡るだろう。だが、その経験も学びであると、素直に受け入れるには時間がかかる。けれど、大抵の人間は原因を深堀りするのではなく、自分の至らなさを深堀りしてしまう。失敗を恐れる彼女もまた、同じ病にかかっていた。

「そんなことで君は折れるのか、」

 正直、自分がどのような顔でこの言葉を口にすればいいのか、分からなかった。自分のことを棚に上げて、彼女にこの言葉を伝えるべきなのかとも考えた。だが、口を噤むことなど出来やしなかった。

「そんなことって、桑名さんに何がわかるんですか」
「君はそんな小さなことに拘って、折れる人間なのかと聞いてるんだ」
「小さなことなんかじゃないです」
「ああ、今の君にはそうかもしれない。でも、君が目指しているものはもっと大きなもののはずだ」

 君が俺に譲れないと断言したものは、そんな小さなことで揺らいだりしないんじゃないのか。
 夢を取り出した時の恥じらう笑顔が好きだと思えた。夢を否定をされた時に見せる勝ち気な笑顔が好きだった。日々、得るものがある喜びに見せた笑顔に助けられていた。彼女の背中を押すことは、喜多方悠にとって贖罪であり、救済にも近しい行いだった。自分のような人間になってはいけないと諭すと、なまえは不安と疑問に満ちた目を向けた。当然のことだった。その疑問や不安を取り除けるなら、と自身の過去を明かす。
 なまえの憧れである、教職に就いていたこと。しかし、犯してはならない過ちを犯してしまったこと。それは取り返しのつかないもので、かつての自分が自惚れていたから起きてしまったことなのだと。そして、繰り返された過ちに救いはなかった。彼女の倫理観を歪めかねない話だったが、それでもなまえは自分の言葉に耳を傾け、静かに聞いていた。話を聞き終えた後、彼女はぽつりと呟く。

「……どうして、桑名さんは傍にいてくれるんです?こんな、私のような未熟な人間の傍に、」

 ──── きみには未来があるだろう。
 自分で言っておきながら、心の底から羨ましいと思う言葉だった。もう二度と明るい場所に出ることはない自分にとって、真っ直ぐな彼女には羨望を抱かされていた。それ故に彼女に困難が訪れようものなら、手を差し伸べてやりたいとも思っていた。自分がなれなかった『教師』というものに、彼女の姿を重ねている。独り善がりな押し付けだ、身勝手だ、我儘だ。

「すまない、勝手なことを言い過ぎた。今のは忘れてくれ。ただ、俺は君が教師になるのをこの目で見たい、それだけだ」

 それだけなんだ、と言い残し、なまえを残してその場から去った。暫くは会わない方が良いと、彼女の為に距離を置くようになった。妨げになってはいけない、何より自分の存在が彼女の行く手を迷わせているのなら、いっその事、この方が良いと思ったのだ。すると、その日を境に彼女も自分の元へやって来ることはなくなった。これで良い、これで良いのだと強く思えば思うほど、一人きりの寂しさに心が震えていた。


***


 薄桃色の景色が日常となるであろう春先の出来事だった。不意に鳴る呼び鈴の音に、気だるくドアを開けば、そこにスーツ姿のなまえが立っていた。数年ぶりの再会に驚いて、何も言い出せずにいると、ずいっと無理矢理中に押し入っては出て行こうとしない。

「久しぶりの再会だってのに、随分と強引だな」
「あの、桑名さん……、じゃなくて、喜多方さんに伝えたいことがあって」
「伝えたいこと?」

 なまえは血色の良い唇を強ばらせながら、こう告げる。この春から新任の教師として、教壇に立つと。彼女の担当科目を聞いた時、喜多方悠は自身をなぞるなまえの在り方に、衝動的になってしまいたかった。しかし、拳を強く握り締める自分に触れるものがある。なまえだった。衝動的になってしまいたかったのは彼女もそうであり、喜多方とは対照的にそれを抑えようとはしなかったのだ。胸の内にある彼女の肩に触れる。震えていた、僅かに肩を震わせている。

「本当はあの後もすぐに会いたかった。でも、それじゃあ喜多方さんが叱ってくれた意味がないから、」

 なまえが、たった一人の教え子が肩を震わせ、声を震わせて泣いている。律儀に桑名ではなく、喜多方と呼ぶ彼女の人の良さは何も変わっていなかった。よく頑張ったと背中を軽く叩いてやれば、ぼろぼろと大きな涙の塊が落ちていくのが見えた。ぐっと抱き寄せれば、服が濡れてしまうからと今更他人行儀なことを口にする。それがひどくくすぐったいと、教え子の涙くらいは受け止めてやらないとな。と強引であり続ける。

「もっと早く教えてくれてもよかったんじゃないのか」
「ちゃんと先生になれたら、言いに来ようって決めてたんです」
「それにしても、どうして国語教師なんだ」
「……私の尊敬する人の得意な科目だったから、」

 贖罪とは、赦しを得ることだった。自分の全てを差し出して、罪を償うことだった。古傷に血が通っていくのが分かる。何故、教師になりたいと言い出した彼女に見切りをつけて、関係を断てなかったのか、ようやく分かったのだ。贖罪は果たされた、彼女の夢の実りをもって。意図せず、喜多方悠はみょうじなまえに、自分の捨て切れなかった大切なものを託していた。
 こんなことで全てが赦された訳ではない。分かってはいるが、彼女が夢を掴んだ事実に目頭が熱くなる。いつだって、救われていた。彼女が教職の道に挑み、それを傍で支える度に自分の中で勝手に救われていた。込み上げたそれを上手く飲み込めない。結果として、二人抱き合って泣いていたのだ。

「だから、また会ってくれますか」
「ああ。呼ばれりゃあ、いつでもすぐに行くさ」
「泣かないでください、喜多方さん」
「それは君も同じだろう」
「わたし、喜多方さんの笑った顔が好きです」
「俺だって、君の笑った顔が見たい」

 これは嬉し泣きですから、と変に強がるなまえに、なら、湿っぽいのはもうやめだ。と手早く涙を拭い、祝わせてくれ。と彼女の目を覗き込む。泣き濡れた瞳のまま、自分を見つめる視線が心地よいと低い位置にある頭を撫でれば、再び彼女は泣き出してしまった。



| 業となりて礎となるならば |


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