ゆるふわな彼女と錦山彰




 見慣れた車の傍で一人の男が煙草を吹かしている。深みのあるワインレッドのスーツ、インナーシャツは派手な柄で顔立ちの良さとは反対に近寄り難い雰囲気を醸し出している。場所はとある大学の近くだった。彼が待っているのは、そこに通うとある一人の女だ。男としては彼女を待つ間は丁度いい一服の時間であったが、やたらと人目に晒されるのはあまり好きではなかった。自分の身なりにはしゃいでいるのはまだ良いが、中には勘違いを起こして自分に声を掛けてくる相手もいた。そんな相手を追っ払うのが面倒で仕方ない。それでも、男は時間に余裕さえあれば彼女を待ち、出迎え続ける。

「彰くん」

 駆け寄ってくる足音に遂にその時は訪れた。客寄せパンダのような時間が終わるのだ。男は吹かしていた煙草を捨て、彼女に声を掛ける。

「待ちくたびれるところだったぜ」
「ごめんね。どうしても借りたい本があったから」
「本だあ?そんなもん、よく読む気になるよな」
「じゃあ、彰くんもたまには挑戦してみたら。面白い本ってたくさんあるし」
「わりぃな、俺ん所はそういうのやってねえんだ」

 軽めの会話を済ませ、乗れよ。と彼女を車の助手席に誘導する。ありがとう、と感謝の一言を添える辺りに彼女の育ちの良さが滲み出ている気がした。生まれ育った環境は違えど、彼女との付き合いが一番心地良い。面子を第一に考えてはいるものの、そこに甘んじて乗っかられてしまうのは疲弊するだけの無駄な労力だ。だが、彼女は自然体のありのままで接することが出来る、数少ない相手だった。今思えば、それが彼女と関係を持とうと思ったきっかけなのかもしれない。見栄や面子は底なしの欲求だ。どれだけ金や時間を注ぎ込もうとも、必ずしも見返りを求められるものではない。しかし、彼女は与えられれば与えることを選ぶ人間だ。与えられる心地良さを知っていながら、与えることを惜しまない人間だった。

「今日も大学の子に声掛けられた?」
「まあな。ったく、めんどくせえったらありゃしねえ」
「彰くん、かっこいいから」
「それは否定しねぇけどよ、」
「ふふ、そうだね。私もいつもかっこいいなって思ってる」

 シートベルトを着ける時の、俯きがちな横顔が綺麗だと思った。さらりと垂れた黒髪の毛束を耳にかけ、眉根から続く曲線、ふっくらとした瞼、つん、と持ち上げられた睫毛に世界はスローモーションに切り替わる。暗褐色の瞳がこちらを見た。不思議そうな目でなまえは自分を見ている。バブルという時代に似合わない、控えめな装いをしていた。どこもかしこも浮かれてますと顔に書いてある男女達が派手な身なりで遊び呆けている。そんな時代や環境と相反するように、彼女は控えめでありながら自分らしさを忘れない装いでいる。だからだろうか、淡いイエローのワンピースから覗く真っ白な胸元から目が離せないのは。

「ねえ、聞いてる……?」
「……ああ、で、なんだよ」
「聞いてないじゃん、」
「美人に見惚れてたんだよ、悪ぃかよ」
「じゃあ、許してあげるね」

 心底、嬉しそうな顔をしている。彼女は暗い感情とは無縁の性格をしているが、やはり優遇されると弱いらしい。時折、なまえは意外なことを口にする。例えば、不意に心臓を鷲掴みにするような、度肝を抜くような一言だ。

「彰くんがわたしのこと、好きでいてくれてうれしい」

 直接的でありながら、口にするのは躊躇われるような言葉だ。まるで駆け引き、しかし、彼女にその意図はない。噂に聞く、男を手のひらで転がすような魔性の女ではないのだ。取り乱すことなく、アクセルペダルを踏み込む。彼女の心地よい囁きを聞けるのは、この世に自分一人しかいないことに照れ臭さを覚えた。走り出した車の窓を開け、篭ってしまいそうな熱を逃がす。

「気に食わねえヤツとつるむかっての」
「そっか。同じくらいわたしも彰くんのこと、すきだよ」
「正直、他の女なんか眼中にねえ」
「どうして?」
「んだよ、聞きてえのか?」
「時々、不安になることがあるから」

 薄づきの唇からぽろぽろと不安がこぼれ落ちる。彼女は薄紅色の唇の隙間から硝子片を吐き出していた。その一つ一つが、可愛い悩みのようなもので彼女が抱えている『不安』そのものであると読み取れた。いつか、自分が彼女の元を離れるのではないか。いつか、彼女より好きな人とめぐり逢い、赤い糸が結ばれるのではないか。いつか、彼女のことを忘れて平気なまま生きていくのではないか。どれも杞憂に過ぎなかった。しかし、不安であると彼女が口にするならば、まだ胸の奥に硝子片が残っているのなら、どうにかしてひとつ残らず取り出してやりたいと思った。

「あのなぁ、俺達はまだ若ぇんだ。分かりもしねぇ先のことを不安がってどうすんだよ」

 自分の話を一生懸命に聞いている時の彼女は、透き通るような一途さが滲んでいる。少しずつ内なる硝子片を噛み砕き、吐き出しては耳を傾けた。暑いから、と開けた窓から入り込む風に髪を遊ばせながら。日陰に遮られて青みがかった淡い肌で微笑みながら。穏やかさそのものである、暗褐色の瞳をキラキラと輝かせながら。なまえは自分の話を聞いていた。

「彰くんってやさしいね」
「あぁ?お前、それヤクザに向かって言うか?フツー」
「言っちゃだめ、……だった?」
「いいや、悪かねえ。でも、人前なんかで言うんじゃねぇぞ」
「そうだね、彰くん困っちゃうもんね」

 くすくす、けらけら、と笑う横顔に胸の奥が熱くなる。普段はおっとりとした表情をしているなまえが、自分と一緒にいる時にだけ見せる笑顔だった。破顔し、膨らんだ頬や僅かに覗き見える歯に柔らかくなだらかな唇。そのどれもが特別なもので、しかし、自分にとっては日常と変わらない不変のものだった。彼女の笑顔が見たい一心で、大学まで足繁く通っているだなんて口が裂けても言えない。

「ねえ、」
「こちとら運転中だぞ」
「ねえってば、」
「ああ?」
「やっぱりすきだよ」
「……そうかよ、そりゃあ何よりだ」

 大人びた返事を最後に車内は静寂に包まれる。しかし、我ながらあんまりにも気取っているように感じられ、もう一度最後をやり直す。

「俺だって遊び半分で一緒にいる訳じゃねえ、」

 俺だって、心底惚れてる。ただ、そう簡単に口にしていいもんじゃねぇからな。
 本音も建前も、どちらも必要だった。彼女は睫毛を揺らした後、借りてきた猫のように大人しくなってしまった。先程までのお転婆かつ無邪気な物言いは鳴りを潜めている。
 交差点の赤信号に停車すれば、彼女が大人しかった理由を知った。懸命に窓越しの風に頬の粗熱をとってもらおうとしていた。頬は赤く染まっており、自分でもどうしたらいいのか分からない顔をしているのだから。

「さっきみたいなの、他の子には言わないでね」
「言わねぇよ。他のやつは眼中にねえって言ったろ」
「そうなんだけど、」
「随分、歯切れが悪ぃな」
「多分、彰くんが思っている以上に、うん、すごくすき」

 殺し文句はいざと言う時に使うべきだ。特別や取っておきはそうであるべきなのだ。靡く前髪をものともせず、自分が口にした言葉の意味を深く考えず、なまえは見つめていた。その視線に気を取られていると、後方から急かすように鳴るクラクションに現実へと引き戻される。ご、ごめんね……!運転中だったよね……!と八の字に下げた眉で謝る彼女に、もう一度アクセルペダルを踏みつける。街の喧騒から逃れてしまいたいと、これ程までに強く思ったことはない。運転に意識を向けているせいか、今は冷静でいられた。しかし、臆病さを知った心臓は魔法にかけられたかのように、とくんとくん、と繊細な音を立てている。こんな時だけ、街の喧騒は役立ってくれる。人ひとりの素直な心情を隠すのに、街はうってつけだ。

「なまえもそういうのは、他の奴には言うんじゃねぇぞ」
「言う予定なんかないよ」

 もっと、ずっと一緒にいたいね。
 彼女が何気なく口にした、他愛もない言葉に惹き付けられていく。遅れて、そうだな。と返せば、嬉しそうにくすくすとまた笑い出す。もうクラクションを鳴らされることはなかった。平静を装って車道を進んでいる内に、さざ波の音が恋しいと急遽予定を変更して埠頭の方へと向かうのだった。幸いなことに彼女は、十二時になったら消えるドレスも、たちまち昏睡してしまう呪いも、毒の盛られた林檎すら持っていない。足はすらっとした人間のそれで、自分自身も哀れな野獣ではない。自分達が生きるこの世界は童話のように、よく出来た出会いや物語は無いに等しい。けれど、もしこの時間がそうであると言うのなら、真実の何とやらはきっと足元にでも転がっているに違いない。



| Fairytale hour |


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