東徹と喧嘩する
暗闇に連れ込んで、紛れ込んだ。そこは全然いかがわしい場所などではなく、寧ろ、闇に紛れる二人がよく知る場所だった。一人は酷く顔を顰めており、一人は酷く動揺している。背丈の低い人影は女で、反対に背丈の高い人影は男だった。暗闇の中で握り締められた手の、決して強くない感触に男はいつものような態度をとることが出来ない。彼女に対して何か切迫していると感じ取れていたからだ。そうだと言わんばかりに彼女は頑なに口を開こうとしない。いつもならば、噛み付き合うようにじゃれている自分達が、今だけはまっさらな他人のようで僅かに寂しい。
「帰らないで」
その後に、まだ、と付け加えた彼女に男は困惑する。今日はいつも通りの一日だった。会いたいと言われ、彼女の好きな場所へ一緒に出かける不変の一日だった。デートと言われれば、そうかもしれないが、今では日常の一つとなっており、初々しさなどはとうに薄れてはいる。だからこそ、余計に狼狽していく自分を見せられなかった。彼女はどうしてしまったのだろうか、と考えてみても、ただぐるりと目が回りそうになって彼女のことを直視出来なかった。
「な、なんだよ、急に、明かりもつけねぇで……」
「明かりはついてない方がいいの、」
「はあ?何言ってんだよ」
「そんなことより、もうちょっとここにいて」
「明日は仕事なんだろ?さっさと休んだ方が、」
物静かに圧迫された手のひらに何かを察する。ただの我儘だと思っていたが、そうではないらしい。物言わぬ感情が厄介なことは知っている。だが、相手が変わってしまえば見方も多少は変わってくる。何かを打ち明けたいのだと分かっているものの、その先を聞くことにしか心が決まらない。だから、彼女は暗闇が良いのだと言ったのだろう。この暗さであれば、彼女の表情に気付くのが困難になる。何を言いたいのだろう、何を受け入れれば良いのだろう。
「私のお願い、聞いてよ」
「お願いって……、あのなあ、」
「東くんのケチ」
「ああ?誰がケチだって?」
「だって、私のお願い聞いてくれないんでしょう?」
「そりゃあ、明日のことを考えてんだ」
「そんなこと、考えなくていいよ」
語気の強まった彼女に、東はその後の続きを忘れてしまった。悪態をついていながら、握り締めた手を離さない彼女に違和感と温度差を感じていた。今まで、こんなことは一度もなかった。それ故に今起きているこのトラブルに、東はよく出来た答えを用意出来ずにいた。だが、繋がった手を解こうとは思えず、重たい沈黙の中で二人は手を繋いだままでいる。離れるのを拒んでいるのは、彼女だけではないのかもしれない。
ねえ、と口を開き、切ない目で見ていたのはなまえだった。そこに今日を楽しんでいた彼女の姿はない。リップが艶やかに彩る唇は静かに吐く。
「……どうして、東くんはいつも帰っちゃうの」
まるで、帰って欲しくない。今までも帰ってほしくなかったかのような物言いだ。だが、それが全てではなかった。ため息交じりに一つ、二つと吐き出されていく。
「東くんに会う度に、今日こそはって一人で期待しておしゃれもしてた」
思い当たる節がある。なまえは隙のない異性だった。自分の装いやメイクに至るもの、全てに手を抜くことをしなかった。しっかりした性格なのだと思っていたが、まさかそんな真意が隠されていたとは予想もしていなかったのだ。
「でも、不思議。全然気付いてくれなくて、嫌になっちゃう」
嫌になっちゃう、とは誰を指しているのだろうか。今の今まで気付けなかった自分か、空回りしてばかりいた彼女自身なのか。察しの悪い自分に落ち度があるが、それならそうと言ってくれればいいと口を開けば、できないよ。と力なく答えが返ってきた。
「……だって、東くんはいつも私のことを大切にしてくれてる。だから、言えないよ」
「それじゃあ、なまえばっかり我慢してることになるだろうが」
「困らせたくなかったの。でも、一緒に過ごしてみたいってずっと思った」
「俺が困るかどうかなんて関係ねぇだろ」
「困らせたくないのが普通でしょ」
「馬鹿。そんなところで変に我慢すっから、後々こういうことになんだよ」
「馬鹿って言った方が馬鹿でしょ。私は東くんと同じように相手のことを……」
「そりゃあ、独りよがりってんだ」
次第に掛け合いの声が大きくなっていき、気付くと先程の湿った空気感は一変し、口喧嘩にまで発展していた。相手が大切であるが故に踏み出せない一線の前で、いつまでも立ち止まっている。先に歯止めが効かなくなったのは、なまえだった。
「恋人ってもっと早く、そういうの、するんじゃないの……!?」
「ばっ……!そういうのはなあ、焦ったってしょうがねえだろ!」
「だって、いつまで経っても何もしてこないじゃない!」
「そ、そりゃあ、お前、」
「いくじなし、甲斐性なし。……女たらし、」
言い返したい気持ちはあったのだろう。そして、言い過ぎてしまった気持ちもあるのだろう。折り合いの悪い二人の間を取り繕ったのは、東の言葉だった。なまえも東からそのような言葉が出てくるとは思っておらず、その後は目を丸くして動揺したまま動けなくなっていた。
「いくじなし、甲斐性なしってのは、まあ、大目に見てやる。でもよ、」
「な、なに、」
「女たらしってのだけは気に入らねえ。それじゃあ、俺があちこちで女引っ掛けてるみてぇじゃねえか」
「そういうつもりじゃない、けど、」
「勢いだったんだろ?わかるさ、」
「……うん、」
「俺がたらしこんだ女なんざ、なまえ以外に居ねえよ」
だから、そこだけは勘違いすんな。と薄暗がり越しに東の視線を感じ、なまえは一言、ごめんと口にした。しおらしくなった女を目の前に、男は一歩だけ踏み込む。男としては、別に大人しくなった異性が好みなのではない。好いている相手が素直になっているのが好みなのだ。自分の弱さを認めてさらけ出している姿に強く惹かれていく。その先を後悔せずに望むのなら、そうなってもいい。焦るべきではないと悠長にしていた自分が彼女の今日の原因なのだから。
「本当にいいのかよ、明日のことは気にしないで」
こくりと頷く彼女は最後の砦だった。しかし、許されるところを見てしまっては、どうにも抑え難い衝動に突き動かされる。距離を縮めた。彼女が自分の胸の内にあり、こちらを見上げられない彼女に愛おしさが募る。頬に触れた。俯きがちだった彼女の視線がようやく自分のものと絡まる。間を捉えた。輪郭と輪郭が暗闇の中でそっと重なる。緊張で彼女の唇が震えていると気付いた時には、それすらも上塗りしてしまいたいと欲張る舌先で肉を掬い取れば ────。
強ばる指先に胸板を押されていた。大した力のないひと押しに、東は踏み止まる。途端に彼女の声が聞きたくなった。潤んだ瞳の彼女に問いかける。すると、ごめん。あんまり慣れてなくて。と濡れた唇を手の甲で拭う。折角、綺麗に塗ってきたリップのこともお構いなしに。苦味の残る唇をそのままに、東はなまえの影を塗り潰すように体を寄せる。途切れそうなほどのか弱い声でなまえは、こうせがんだ。
「今から、東くんの家に行っちゃだめかな」
連れ込んでおいて、申し訳なさそうな顔をしている彼女に東は手短に返事を済ませると、懐から携帯を取り出し、神室町にあるタクシー会社の番号に繋げた。コール音が連続していても、通話中であっても二人はくっついたまま、離れることをしなかった。これから先、どうなってしまうのか分かっていたからだ。明日のことなどどうでもいいと言われてしまえば、男に出来るのは女の願いを聞いてやることで、女に出来るのは自分のワガママに付き合ってくれた男に身を委ねるだけだった。愛とか恋とかはきっと後から遅れてやってくる。そう思えば、今の自分たちは事を急いてばかりで、なんて滑稽なのだろう。しかし、そうなりたかった事実がある。それは東も、なまえも同じだった。
二人はこの後、到着したタクシーに乗り、男の家へと向かう。そして、まともに明かりもつけず、二人は曲線を重ね、静かに交わり合う夜を迎えるのだった。翌朝、なまえは眠たい瞳で見た、隣にいる東の姿にようやく満たされるのである。
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