郷田龍司に甘やかされる
「わたし、たまには龍司くんと離れて過ごしたい」
「何をそないけったいな、」
郷田龍司は見た目以上に過保護な男だった。それはみょうじなまえが自分の女だからに尽きる。しかし、その女が自分と離れて過ごしたいと口にしているのだから、これは大問題だ。顔を顰める、もう一人は困ったように眉を下げている。理由を聞かずに彼女の申し入れを受ける訳にはいかない。なまえはため息を一つ逃がすと、口を開いた。ここはなまえの部屋、龍司は大層居心地が悪そうだった。
「なんや、何を根拠にそないな、」
凄んではいないと分かっていても、本業が極道の組長である龍司のひと睨みは、例え慣れているなまえであっても恐ろしいものだった。二人がけのソファーの中央に腰を据えた龍司は背もたれに深く寄りかかり、鈍く光る瞳でこちらを見つめている。なまえは決して、そんな郷田龍司のことを嫌いになったのではない。寧ろ、大切にされている実感も、愛されている実感も湧かなかった日がないくらいだ。そこまで自分のことを大切に思ってくれるのは、実の両親を除いて他にいない。ならば、何故なまえは龍司を自身から遠ざけようとしているのか。それは、過去にとった龍司の行動が原因だった。
「私、龍司くんのお世話にならなくても、自分のことは自分で出来るんだよ」
「ワシは世話なんぞするつもりはあらへん」
「でも、いっつも龍司くんが何とかしてくれて」
「そらぁ、自分の女の前でええカッコせえへんのは男やない」
「男だとか、女だとか、そういう話をしてるんじゃなくて……」
なら、何や?ワシの他に男でも出来たんか?だから、そういう話じゃないの!せやろなぁ、そない男なんぞ作ってもうたら、この蒼天堀のドブの底を見る羽目になるやろなあ。……もう、怖いこと言わないで……!
他愛もない話からは何も見えてこない。ただじゃれ合っているだけだった。苛立ちは態度や言葉ではなく、彼の眉間の皺に集約されているようで、なまえは理由を話し始める。そこに冗談やおふざけはない。
「この間、一緒に洋服買いに行ってくれたでしょ」
「覚えとる。あん時はあそこのワンピースっちゅうのがええ言うて」
「そう。そのワンピースね、買う為に私もお金貯めたりしてさ、」
「せやから、ワシが買うたったやないか」
「そ、それが!ちょっと嫌なの!」
難問を突きつけられたかのように、龍司の顔は険しさを増していく。いや、実際は難問そのものであった。自分の行いが彼女を困らせているとは、全く思いもしなかった。寧ろ、これは愛情表現のひとつであるとさえ思っていた。だが、彼女はそれを嫌だと言っている。新しい男が出来たなどの理由を持たない彼女の心変わりに理解が追いつかない。
「嫌なんか」
「えっと、強く言うつもりじゃなくて、ただ、」
「ただ?」
「私も頑張ってお金貯めてたから、龍司くんに買ってもらうのも嬉しいんだけど、」
頑張った自分へのご褒美に、自分のお金で買いたかったの。と、なまえは眉を下げて申し訳なさそうに話す。だが、龍司は首を傾げ、まだ腑に落ちていないようだった。
「なまえが頑張ったんなら、確かに褒美は必要や。せやから、ワシが出したんやろが」
「龍司くんも私が頑張ったから、買ってあげようって思ってくれたんだよね?」
「せや」
「でもさ、だったらワンピース一着だけで良いと思うんだよね……」
ここまではどこにでもいる仲睦まじい男女の、恋人達の会話だ。だが、ここから途端に龍司の甘やかしぶりが露呈されていく。
「一着やなんて言わんと、片っ端から欲しいもん買うたらええ」
「でも、いつも龍司くんがたくさん買ってくれるおかげで、その洋服、うちのクローゼットに入らないんだよ?」
「なら、広い部屋に移ればええ話や」
ええ加減にマンションの方に引っ越したらどうや。こない、こじんまりしたアパートなんかに住んどらんと。
これは郷田龍司の言葉である。なまえに対して必要以上に甘やかした結果、買い与えた服は彼女のアパートのクローゼットでは到底収納出来ず、それならばと龍司は独断でマンションの一室を契約していた。しかし、なまえは龍司の提案を受け入れずにいた。何でも、自分の稼ぎで契約しているこのアパートが好きなのだと言う。社会に出た自分が、しっかり自立出来ていると実感させてくれるからだそうだ。
だが、龍司はなまえのその言い分が酷くもどかしくて仕方ない。龍司としては、二人がゆったりと寛いで過ごすことの出来るマンションの方が良いと内心思っていた。なまえの気が変わらなければ、二人きりで過ごす夜など訪れはしない。愛を囁くチャンスすらやって来ないのと同じなのだから。
「確か、行きたかったお店も貸し切りにしてくれたことあったよね」
「ワシとなまえ以外は必要あらへん。おったとしても、目障りや」
「わたしね、まだ昔のこと覚えてるんだ」
「昔のことやと?」
うん、と小さく頷いたなまえが取り出したのは、自分達が中学生の頃のことだった。当時は極道一家の息子でしかなかった龍司と共に何気なく遊びに出かけた日のこと。人混みにはぐれないようにと手を繋いでくれた、あの大きな後ろ姿が忘れられないのだと言う。龍司も勿論、その日のことは今でも鮮明に覚えていた。なまえが蒼天堀にある、可愛い雑貨の並ぶ店に行ってみたいと言っていたのが、当時の龍司を駆り立てるきっかけだった。自分より華奢ななまえが乱暴な人混みに攫われてしまわぬよう、しっかりと手を握ってやっていた。少年ながらに胸の奥が焦がれるような体験だった。それは今でも、彼女のおかげで定期的に体験してはいるのだが。
「今は、もう自分の組とか持ってるから、無理かもしれないけど」
また、昔みたいに手を繋いで、二人きりで街を歩くようなデートがしたいって思ったりするの。
貸し切りも嬉しいが、やはりあの関係に戻ったデートをしてみたいのだと。あの頃は家の距離も、好意的な距離もほどほどにあったように思う。だが、今では窒息するほどの溺愛を注いでくれている。なまえも迷った末の答えだと口にしては、龍司を見た。
「嫌いになったとか、他の人を好きになったとかじゃないよ」
「よう、わかった。なまえの言い分は」
「ほ、ほんとう……?」
「なら、ワシはしばらくおとなしゅうしとけばええってことやろ」
どこか拗ねたようにも取れる、その一言になまえはソファーに居座ったままの龍司の顔を盗み見た。瞳は意気消沈しているようで、目の前には弱々しい黄龍が鎮座している。そう伝えたかったわけじゃないと、正面にやってきたなまえは龍司の隣に腰掛ける。膝に手を置き、逸れた気持ちを戻そうとしていた。
「じゃあ、おとなしくしてって言ったら、龍司くんは本当にそうしてくれるの?」
「ワシの女がそない言うなら、しゃあない」
「でも、そうは言ってないよ」
「なら、ワシにどうしろと?」
「……なんて言ったらいいんだろ、えっと、」
「なんや、なまえも分かっとらんやないか」
龍司の言葉に急いで首を振ったなまえは、途端に閃いた顔でこう告げる。
「あんまりお金を使わなくても、気持ちでぶつかってきて欲しい?みたいな、」
なまえは恐る恐る龍司を見やる。自分でも、言いたかったことがこれで伝わるのか不安だったからだ。しかし、龍司の表情は沈んだものから、次第にいつも通りの表情へと戻って来ていた。逸れた気持ちを持ち直せたのだろうか。
「そんなんでええんか、なまえは」
「うん、だから落ち込まな……、」
「なまえ」
「え?」
黄龍は密かに喉を鳴らす。咆哮さえも優しい囁きと化し、なまえの耳をくすぐる。
「いつになったら、ワシに全部委ねてくれるんや」
「ちょ、突然、どうしたの……?」
「いつまでも焦らしとらんと。のう、なまえ」
「り、龍司くん……?!」
ソファーの上で攻防が繰り広げられていた。ぐい、と身を乗り出し、なまえを追い詰めていくのは龍司で、その圧に上手く抵抗出来ず、ただ背中をソファーに預けているのがなまえだ。
「べ、別に焦らしてるんじゃなくて……!」
「ワシはアンタのことしか見えへん。目に入れても痛くないほどや」
「……龍司くん、」
「正直、ワシもわかっとる。えらい猫可愛がりしとることは」
不器用。あの、郷田龍司を目の前にして、語られた心情がまさにその一言に尽きるようだった。しかし、自分に出来る精一杯の愛情表現だと聞かされては、なまえも冒頭の勢いで同じ言葉を言えなくなっていた。愛おしいと思うからこそ、喜ぶことなら何でもしてやりたい。何不自由なく、満たしてやりたい。不器用な男が、不器用な心情を語っている。時に、誰かが『一』を零せば、不思議と他者が『百』を感じ取ることがある。
これ以上、ここで語るべきことがあるだろうか。心臓が何かに脈打ったのならば、肌が何かに撫でられたのならば、体が何かに熱くなったのならば、それが全てなのではないだろうか。愛とは、姿形が見えぬ代わりに、僅かな瞬間に触れることを許された人間の感情なのかもしれない。喜怒哀楽を交えた相手だからこそ、享受することの出来る、ささやかな幸せなのだろう。
「……じゃあ、一応考えとくね」
「何を、や」
「……マンションのこと。龍司くんの言ってたこと、私もよく考えてみるから」
「ええんか、ここはなまえの……」
「だから、考えてみるの。答えがどうであれ、考えたいの」
「そうか。なら、頼みますわ」
龍司は体を再び背もたれに預けると、なまえを愛おしそうに見下ろしていた。古傷が縦に走っている口元に笑みを浮かべて。なまえも後から体を起こすと、今のマンションの様子を訊ねていた。もし、その部屋がクローゼット以外の全てが殺風景であると言うのなら、選びたいと思っていたからだ。二人が生活の拠点と出来るような、重要な家具選びを。多少の不安はあれど、自分にも負担出来る額の物選びをしたいと。
いつ、全てを委ねてくれるのか。じゃれあいが落ち着いた今、実はその問いがなまえの胸中に残り続けていた。あの時、口にした言葉はどれも紛れもなく本音だった。だが、まだ龍司に打ち明けていない本音が一つだけある。それは、いつでも自分が溢れる思いに呑まれそうになっていること。素直なことを言えば、全てを委ねてしまっても構わない。でも、それでは自分が彼なしでは生きられなくなってしまいそうだと危惧したからだ。そんな厄介な感情を彼が望んでいるかなど、恐ろしくて聞けないでいる。だから、まだ、その内に、と自分に歯止めをかけているのだが、なまえは気付いていない。当の本人は、そうなってしまえばいいと望んでいることを。
互いがその本心に気付くまで、あと数ヶ月はかかるだろう。それは二人が無事にマンションを生活の拠点とし、同棲生活を始めてからの話である。
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