桐生一馬に甘やかされる



 ざあざあと鳴く夕焼けの海を見つめては、頬に感じる彼の背中の感触にぼんやりとしていた。物思いに耽るほど、センチメンタルでもなければ、夏の夕日に馳せるノスタルジーもない。ただ、気恥ずかしさだけが募っていく。彼が海水に濡れてしまった靴を気遣っている事実になまえはまだ驚いていた。

「靴、すぐに乾かさないとな」

 大きな背中越しに彼の声が響く。黙り込んでいた自分に向けられたものなのだが、謝りたい気持ちが勝り、すぐにすみませんと返していた。気にするな、それにおんぶしてもらいたかったんだろう?と彼の何倍もの優しさが気落ちした心を慰めてくれる。

「私の不注意なのに、」
「しょうがねぇさ。今度から気をつけりゃあいい」
「あの、今はあさがおに……?」
「ああ。少し恥ずかしいだろうが、我慢してくれ」
「もちろんです」
「でも、なまえが言い出したことだしな」
「い、言わないでください……」


 今日は久しぶりの桐生と二人きりで過ごす予定の日だった。いつも多忙な桐生が珍しく一緒に過ごさないかと誘ってくれた、大切な予定の日。久々に会えること、桐生から誘ってくれたことが嬉しくて、なまえは海辺の散歩に桐生を連れ出していた。その出かけ先でゆったりと押し寄せる波と戯れていたのだが、ちょっとした不注意でうっかり靴を濡らしてしまった。
 じんわりと冷たくなっていく爪先の居心地の悪さと言ったらない。中敷きや靴下にも染みていく海水がぶにぶにと気持ち悪い音を立てて鳴るのが耐えられず、桐生に助けを求めた。初めはやれやれと言った顔をしていたのに、なまえが泣きそうな顔で足元の具合が悪いと告げてからは、どこか座れるところを探そうと手を引いてくれた。

 二人が腰を落ち着ける場所に何とか辿り着くと、なまえは真っ先に靴と靴下を脱ぎ捨てた。すっかりびしょ濡れになってしまった足の指を何度も開いてはぎゅっと閉じてを繰り返し、指の間に潮風を通しているようだった。すうすうと生暖かい素足の熱を少しずつほどいていくように、潮風は冷ややかで気持ち良く通り過ぎていく。もういっその事、このまま海に飛び出してしまおうかとも考えたが、濡れた足を拭うタオルがないのにこれ以上彼を困らせてどうするのだ。

「さて、どうするか」
「私、今思い切り海で遊びたい気分ですけど、どうしましょう?」
「思い切り遊んでもいいが、帰りはどうする気だ?」
「うーん、そうですねぇ」
「これで服まで濡れちまったら、どうしようもねえぞ」
「……ずぶ濡れじゃ、人の目も気になりますもんね」
「ああ。ここは一回、あさがおに戻った方がいいかもな」

 楽しい企みはいつも上手く実らないものだ。しかし、楽しい企みが一つだけかと聞かれれば、案外そうでもないのである。脱ぎ捨てた靴下を一つにまとめて水気を絞り、ズボンのポケットに適当に突っ込み、びしゃびしゃの靴の踵を合わせて並べる。ここでまず一息つき、なまえは次の企みを桐生に持ちかけた。

「ねぇ、桐生さん」
「なんだ、やけに楽しそうな顔をしているが、」
「あのですね、」
「……含みのある笑いだな」
「もし良かったら、おぶってくれてもいいんですよ」

 口元に手を添えて、海のざわめきに消えない声量で囁く。丁度、周りに誰も居ないのがいい。こんな恋人たちの戯れも、目の前に堂々と横たわる海しか見ていないのだから、丁度いい。桐生は、何?と聞き返しつつも、その顔には面倒見のいい笑みが滲んでいる。その顔が見れただけでもなまえは概ね満足していた。だから、冗談です。と種明かしをする前に立ち上がった桐生に言い出すのを忘れてしまったのだ。


「ほら、」

 突然、立ち上がったかと思えば、今度はなまえに背を向けてその場に身を屈める桐生。呆気に取られて種明かしを忘れていたなまえ。結末は楽しい企みの通り、差し出された背中が答えであった。

「来るんじゃないのか」
「……本当、ですか?」

 微かに後ろを向いた桐生の横顔がこちらを待っている。肝心の口元は肩に遮られてよく見えなかったが、企みに便乗してくれていることだけは確かだった。桐生が応じてくれるとは思わなかったと慌てて立ち上がったなまえは、もう一度だけポケットに靴下を強く押し込み、並べて置いていた靴を指に引っ掛け、桐生に体を預けた。
 ぐらり、と揺れた視界は徐々に高くなっていく。重たい体で立ち上がった桐生は、その重さを感じさせない程にしっかりと歩き始めた。波音が遠ざかり、砂をぎゅっと踏み締める音が一定の間隔で聞こえてくる頃、なまえの意識は桐生の背中に預けた頬にあった。

「てっきり喜んでくれると思ったんだがな」
「……わたし、冗談だって言えなくて」
「フッ、そうだろうとは思ったさ」
「え、知ってておんぶしてくれてるんです……?」
「そういう事になるな。それに、冗談だろうと本気だろうと、こうでもしないと帰れないからな」

 不意に撫でられた甘えたがり屋の感情が心臓に悪く作用する。幼稚な恥ずかしさから離れることも出来ない状況で、なまえは密かに身悶えては寄り添う広い背に顔を埋めていた。海から吹く潮風が頬を撫でる度に、両頬の粗熱を取り去り、欠けていた冷静が少しずつ戻ってくる。今のなまえに出来るのは、ただ手にした靴を落とさないようにすることだけだった。

 宙ぶらりんの素足でいつもとは高さの違う眺めを見る。少しずつ離れていく夕焼けの海辺が置いてけぼりになるのを見ていると、拗れていた我儘の糸を正しく巻き取られているようだった。ぐちゃぐちゃに絡まってしまった糸の内側には、純粋に嬉しいという感情がぽつんと残されていた。静かな帰り道はあさがおまでの限られた距離、なまえはより桐生の背に頬を寄せる。

「どうした、そんなにくっついて」
「……嬉しいなって、」
「なんだって?」
「だから、嬉しいんですってば」
「そうか」
「桐生さんに甘えられて、嬉しいです」

 この歳になったら、おぶってもらうことなんて滅多にないですから。まあ、そうだろうな。ふふ、重たいでしょう?ああ、重たいな。……桐生さん!なまえはこんなに小さな体で頑張ってんだ、つい甘やかしてやりたくなっちまう。
 何気ない桐生の一言になまえはつい黙り込んでしまった。そんな秘密を吐露されては、もっともっとと我儘が拗れてしまうではないか。心音が秒読み、図々しい我儘が舌先に引っかかり、唇の間を通り抜けようとしている。

「でも、一緒に居たいって言ったら、桐生さんは困りますか」

 我儘なりに考えた言葉選びだった。まだどこか角が取れていない部分があるが、今はこれが精一杯の丁寧な伝え方だった。問い掛けられた桐生よりも先に波の音が聞こえてきた。短い静寂の中でなまえは捏ねる舌先を無理やりに黙らせている。桐生は何と言ってくれるのだろう。

「一緒に居たいって言うのは、今みたいなことを言ってるのか?」

 もし、そうだとしたら俺はその通りには出来ねえ。潮風が桐生の後ろ髪を撫でるように吹き抜けていく。否定的な言葉も風に攫われ、なまえは口を噤む。

「だが、もしなまえが別の意味で言っているのなら、俺は困ったりはしない」

 どう捉えてくれても構わないさ。と言い残し、振り向こうとしてやめた、黒髪の頭は何を思っているのだろう。同じ風に吹かれて、同じ波の音を聴いて、同じ海沿いの夕焼けに染まっている自分達が何を考えているのかなど、互いに分かるはずもない。しかし、どこにでもある『同じ』が二人の沈黙を上手く繋いでくれているような。そんな気がしてなまえは胸いっぱいに潮風を吸い込んだ。

「どうだ、悪くない返事だろう」

 ふ、と笑い声混じりに息が漏れ、じわりと胸の奥で凝固していた何かが溶け出ていくのが分かった。そしてそれが徐々に胸を心地よく満たしていき、必要以上に甘やかされてしまったと教えてくれる。

「……桐生さんってずるいです」
「そうか?そんなことは初めて言われたが」
「私、長い目で見ていいんだって思ってますからね」
「否定はしないさ。俺もそのつもりで答えたからな」

 しかし、そろそろ一服してぇな。とぼやいた桐生に、最近は吸える場所も減ってきましたね。と返せば、そうだな。変わっちまうんだろうな、時代も世の中も。だなんて他人事のように言うものだから、共に移ろう世の中を生きてみたいともう一つだけ甘えてみた。
 夕焼けの海沿いを行く背中に幸せがあるように、変わりゆく今や流れ続ける時間の一瞬に幸せは宿るのだろう。長い目で見つめると決めたこの先にそれはいくつ見つけられるだろうか。その隣には優しく微笑む桐生の姿があることを強く信じながら。



| 海鳴りの間に |


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