仄暗い秋山駿



 海鳥の鳴き声、押し寄せる波のざわめき、遠くの水平線に沈んでいく太陽。二人がけのソファーに体を預けて、今日の終わりを眺めていた。海岸沿いに佇む寂しげな別荘の一室、ソファーの近くには色味の柔らかな暖色のフロアランプがぽつんと光っている。辺りの薄暗がりを照らすだけの明るさしかない薄暗い部屋で、二人は身を寄せながら窓枠に映る海辺の絵画を黙って見つめていた。

「やっぱり、ここにして良かったよ」

 まあ、困るほどじゃないけど安い買い物じゃないし、仕事も今休業中だし、どうしようかなんて迷ったけど。と男が正直な気持ちをふたりきりだからと吐き出せば、肩にそっと頭を乗せてきた彼女に笑みが浮かぶ。部屋の暗がりに染まった青白い頬を撫で、彼女が口元に残したささやかな笑みに心が満たされる。

「もっと早くに決めてれば良かったかな」

 自分の肩に頭を乗せた彼女は景色や思い出に浸っているのか、黒い睫毛を揺らすことなく目を閉ざしていた。ふっくらとした瞼には綺麗なグラデーションを描くアイシャドウが置かれている。彼女は赤みの混ざったブラウンのものが気に入っていると言っていた。しかし、あまり見慣れない自分はどこがどう変わるのか、その変化に気付けないことが多く、彼女のしかめっ面を見ることが多かったのも懐かしい。
 海のざわめきに耳を傾けていると、いつの間にか過去に手を取られ、誘われるがままに記憶の水面に小さな舟を浮かべた。彼女、なまえと初めて出会った日のことは今でもよく覚えている。それから何度も偶然的な再会を果たし、胸がくすぐったくなったことも、はっきりとした確信を抱いたことも。大きな街で生まれた小さな結び目に二人して照れ臭い気持ちになったのも、全て自分の胸の奥に刻んである。

「……少し、肌寒くなってきたから」

 体を冷やさないようにしないと。男は彼女の膝に浅く掛けてあるブランケットを掛け直し、ぼんやりと辺りを見回した。実はこの一室にはあまり物が飾られていない。殺風景にすら見える寂寥なる部屋にあるのは、二人がけのソファーと寒色に染まる彼女を暖めるブランケット、あとは彼女が好きだと言っていた花の一輪挿しが置かれたサイドテーブルと傍に佇むフロアランプだけだ。不思議とこれだけで良いと思えた。華美で高価な物を飾り立てて部屋を彩ることも出来たが、彼女と縁のある物に囲まれることの心地良さは何にも代え難いものだと気付かされた今、この部屋にそぐわないものは置きたくない。

「なまえちゃん」

 まるで眠っているかのように、微動だにしない彼女の手をそっと握り締め、今の今まで冷えてしまった指先を暖める。静かに眠る彼女の隣はとても居心地が良いが、何故か寂しくもあった。温もりが抜け切ってしまう前に、まだ確かめておきたかった。彼女の温もりがどんなものであったかを。
 未だに目を覚ます気配のない彼女の頬を、自分の骨張った指で触れた。寂しさには匂いがあるのだろう。それは波打ち際に裸足で立ち尽くしている時の潮の匂いによく似ていた。どんなに満たされていても暖かな熱が奪われていく感覚には、寄せた波が音もなく引いていくように二度と戻って来ないような形容し難い寂しさを思わせ、男は唇を噤む。


 遠くの太陽が深い水底へ向かうべく帰路に着いてから、その身は既に喉元まで海に浸かっていた。一日の終わりを身近に感じながら、二人だけの空間は徐々に暗がりに蝕まれていく。フロアランプの明かりが頼りなく足元を照らす。男は何も言わずに彼女と手を繋いだまま、冷え切った体で窓の外を見つめている。すると、波打ち際に一人佇んでいるかのような孤独が景色に溶け込み、こちらを見つめている。


***


「秋山さん、秋山さんってば、」
「……え、あ、えっと、なんだっけ」

 窓の景色をぼんやりと眺めている内に、隣にいる彼女のことをつい置き去りにしてしまったようだった。隣の彼女は不機嫌そうに眉を顰めてから、途端に心配そうな顔をして自分を見ていた。ごめん、と取って付けたように口にすれど、彼女の曇った顔は晴れそうにない。もう一度しっかりと手を握り締め、悪い夢でも見ていたようだと正直に打ち明ければ、彼女はやんわりと手を握り返した。温かい。数分前まで冷えていた指先の感覚を忘れてしまいそうな程に、彼女の手は心地よい熱を帯びていた。

「部屋はこんなにも寒いってのに、なまえちゃんの手は温かいね」
「秋山さんが掛けてくれたブランケットのおかげですよ」
「そう?……かな、あまり大したことじゃ、」
「秋山さんは今日ずっと私の傍にいてくれたじゃないですか」

 それが嬉しくて。控えめに微笑む、彼女の横顔に酷く懐かしさを覚えた。まるで長い間、この笑顔を見ていなかったような気がして、視界が不意にぼやける。涙をこぼすわけではないが、自然と視界がぼやけてきたのだ。彼女の輪郭がゆっくりと風景と馴染んでは徐々に溶けていく。それでも隣には彼女がいて、自分はその彼女の熱を分けてもらいながら冷え切った体を温めている。


「本当にこれで良かったんでしょうか」

 彼女の発した言葉に共鳴するかのように、突然頭痛に襲われた。じわじわと溶け出した視界も定まらないまま、彼女の言葉を聞いていた。

「私たちには、これしかなかったんでしょうか」

 窓の外を、遠くを見つめているだろう彼女の視線の行方さえはっきりとは分からなかった。何故、そのような言葉を口にしたのかさえも。

「これしかなかったから、ここに来たんだ。そうでしょ」
「秋山さん、後悔はしていませんか」
「後悔なんてものはさ、いっつも遅れてやって来るもんだ」
「私は、」
「未来が見えなかった。君も、俺も」

 だから、ここに来るしかなかった。弱々しく握られた手のひらに、衝動的になれたのなら。一体、握り返したのはどちらだろう。あたたかな手をした彼女だろうか、意識が薄れつつある冷たい手をした自分だろうか。ぐわんぐわんと頭痛がより深く脳に響いていく。早く楽になれるならなってしまいたいと思える程の不快な痛みが続き、秋山はふと真横を見た。すると、隣で笑っていた彼女はまた目を閉ざして眠っているようだった。

「……あれ、夢でも見てたかな、はは」

 それにしちゃあ随分と、ね。ああ、うん。そろそろだってことなんだろうけど。既に視界は薄暗がりに染まっており、息を吐く唇さえもぎこちなく開かれる。チカチカと点滅する光の濁流に晒され、今までのように音が拾えない耳元に彼女の声が蘇る。


 ──── 私たち、きっとこれでよかったんです。そうですよ、ねえ、……秋山さん。

 彼女の声が耳に届くと、頭蓋を粉砕してしまうに等しい頭痛や閃光眩い意識の混濁も、体が徐々に自由を失っていくのも、その感覚をまざまざと見せつけられるのも、逆流する胃袋の不快な上下運動も、全て忘れられた。そして胸にはいつまでも穏やかなそれが訪れた。もっと早くこうしていたなら、とは考える気はない。彼女と共に過ごした日々があったからこそ、失われたものの傍へ歩み寄ろうと思えたのだから。

 いつから冷たくなっていたのか分からない、華奢な手を握り締めたまま、男は優しさの欠片もない終わりを迎えた。背中を深くソファーに預けるその後ろ姿は仲睦まじい男女のそれと何ら変わらなかった。部屋はやがて暗闇に呑み込まれ、二人の姿も闇に消えてしまうだろう。遠くの海がいつも通りにざわめいている。何も変わらない、何も変わっちゃいないのだと波音を口ずさんでは海鳥の鳴き声に耳を傾けている。
 ここは二人の終着点だった。生きているから愛なのか、死んでしまえば灰なのか。それが分からなくなった男と既に事切れていた女の終着点である。すっかり沈んでしまった太陽は水底で明日を待ち、二人を残した部屋は暗闇に塗り潰されている。誰もいないはずのその部屋で、カチ、という照明の消える音を最後にこの物語は人知れず終結する。

 ここに明日はなかった。ならば、無事に帰れるはずがない。



| この旅路にオデュッセウスはいない |


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